上野殿後家尼御返事

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上野殿後家尼御返事

 文永2年(ʼ65)7月11日 44歳 上野尼

御供養の品を種々いただきました。

上野殿御死去の後、冥途より訪れられたでしょうか。お聞きしたいものです。しかしあるとも思えません。夢でもなければ姿を見ることはよもやないでしょうし、幻でもなければ、見えるなどということがどうしてありましょう。きっと霊山浄土で娑婆のことを昼夜に見聞きされていることでしょう。しかし、妻子等は肉眼であるから見ることも聞くこともできませんが、ついには一緒になると思いなさい。生生世世の間夫婦の契りを交わした男は、砂の数よりも多くあることでしょうが、この度の契りこそまことの契りの夫です。そのわけは夫の勧めによって法華経の行者となられたのですから、仏として尊ぶべきです。生きておられた時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏です。即身成仏という大事の法門はこのことを説きあらわされたのです。法華経の第四の巻、宝塔品に「若し能く持つ者は仏身を持つ者である」とあります。

さて浄土といっても地獄といっても外にあるのではありません。ただ我等の胸中にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫といいます。これを悟ることができるのが法華経です。したがって、法華経を受持する者は地獄即寂光と悟ることができるのです。たとえ無量億歳の間、権教を修行しても法華経から離れるならば、いつも地獄なのです。

このことは日蓮がいうのではなく、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏が定めおかれたことです。

それゆえに権教を修行する人は、火に焼かれる者がさらに火の中に入り、水に沈む者がますます淵の底に入るようなものです。法華経を受持しない人は火や水の中に入っていくようなものです。法華経誹謗の悪知識である法然や弘法をたのみ阿弥陀経や大日経等を信じている者は、なお火より火の中に、水より水の底に入るようなものです。どうして苦患をまぬかれることができるでしょうか。等活、黒繩、さらに無間地獄の火坑、紅蓮、大紅蓮地獄の氷の底に落ちて沈んでしまうことは疑いありません。法華経第二の巻の譬喩品に「其の人は命終して後、阿鼻地獄に堕ち、展り転って無数劫に至る」とあります。

故聖霊はこの苦をまぬかれられています。それはすでに法華経の行者である日蓮の檀那だからです。法華経巻八の普門品に「設い大火に入っても火も焼くことはできない。もし大水に漂わされても、其の名号を称えれば浅き処にたどりつく」と、また同巻七の薬王品に「火も焼くことができず、水も漂わすことができない」等とあります。ああ、頼もしいことです。頼もしいことです。

結局は、地獄といっても、獄卒の鉄杖、阿防羅刹の呵責の声も別に外にあるのではありません。これはゆゆしき大事な法門ですが、尼御前に対して教えてさしあげます。竜女に対して文殊菩薩が即身成仏の秘法を説かれたようなものです。この法門を聞かれた後は、いよいよ信心に励まれるがよい。法華経の法門を聞くにつけて、ますます信心に励むのを、まことの道心者というのです。

天台大師は「藍よりして而も青し」云云といわれています。此の釈の意味は、藍は葉の時よりも、染めれば染めるほど、いよいよ青くなるのであり、法華経は藍のようであり、修行が深いのは、藍が染めるにしたがってますます青くなるようなものです。

地獄という二字を土を掘ると読むのです。人が死んだとき土を掘らないものがいるでしょうか。これを地獄というのです。死人を焼く火は無間地獄の火炎です。妻子、眷属が死人の前後をあらそってついていくのは獄卒、阿防羅刹です。妻子等が悲しみ泣くのは獄卒の声です。二尺五寸の杖はその鉄杖であり、馬は馬頭という鬼、牛は牛頭という鬼です。穴は無間大城であり、八万四千の地獄のかまは八万四千の煩悩であり、家を出るのは死出の山、孝子が河のほとりにたたずむのは三途の愛河です。これ以外によそに求めることははかないことです。

この法華経を受持する人はこのことを打ちかえし、地獄は寂光土、火焔は報身如来の智火、死人は法身如来、火坑は大慈悲を室と為す応身如来、また杖は妙法実相の杖、三途の愛河は生死即涅槃の大海、死出の山は煩悩即菩提の重山となると心得なさい。このように悟り、また開くのを即身成仏とも開仏知見ともいうのです。提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽と開き、竜女の即身成仏もこのことにほかならないのです。それは逆即是順の法華経だからであり、これが妙の一字の功徳です。

竜樹菩薩は「譬えば大薬師が能く毒を変じて薬と為すようなものである」と述べ、妙楽大師は「伽耶城を離れて別に常寂光を求めてはいけない。寂光土の外に別に娑婆世界が有るのではない」とも、また「実相は必ず諸法であり、諸法は必ず十如である。十如は必ず十界であり、十界は必ず身土である」とも述べている。法華経方便品には「諸法実相乃至本末究竟等」と、また寿量品には「我れ実に成仏してより已来、無量無辺である」等とあります。

此の経文に我とあるのは十界のことです。十界は本有の仏であるから浄土に住するのです。法華経方便品には「是の法は法位に住して世間の相常住である」とあります。世間の習いとして三世常恒の相なのであるから嘆くべきでないし、驚くべきでもありません。

相の一字は八相であり、その八相も生死の二字を出ない。このように悟ることを法華経の行者の即身成仏というのです。

故聖霊は法華経の行者であったから即身成仏は疑いありません。だからさほどに嘆かれることはないのです。しかしまた嘆かれるのが凡夫の道理でありましょう。ただし聖人にもこれはあるのです。釈迦仏が御入滅されたときの、覚りを得ている諸大弟子等の嘆きは、凡夫の振る舞いを示されたものでありましょうか。

いかにも、いかにも追善供養を心の及ぶ限り励まれるがよいでしょう。古徳の言葉にも「心地は九識清浄心におき、修行をば六識にせよ」と教えていますが、いかにも道理です。この文には日蓮が秘蔵の法門を記しておきました。心して内密にされるがよい。あなかしこ、あなかしこ。

七月十一日            日 蓮  花 押

上野殿後家尼御前御返事

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