兄弟抄の現代語訳

兄弟抄

 建治2年(ʼ76)4月 55歳 池上宗仲・池上宗長

法華経というのは八万法蔵の肝心であり、十二部経の骨髄である。三世の諸仏は、法華経を師として正覚を成就し、十方世界の仏は、一乗法である法華経を眼目として衆生を導いたのである。今、現実に経蔵に入って一切経を見てみると、中国に仏法が渡った後漢の永平年間から唐の末にいたるまでの約850年間に、中国に渡って来た一切経論に二本ある。いわゆる羅什訳等の旧訳の経は5048巻であり、玄奘等の新訳の経は7399巻である。それらの一切経は皆それぞれ分々に随って「われこそ第一なり」と名乗りを上げている。しかるに法華経とそれらの経々を引きくらべてみると、その勝劣は天地の差であり、高下は雲泥の相違である。それらの経々は多くの星のようなものであり、法華経は月のようなものである。また、かの経々は燈炬や星月の光のようなものであり、法華経は太陽のようなものである。これは、法華経と諸経とを総じて比較した場合である。

次に、別して法華経の経文についてみるならば、一切経より勝れた二十の大事の法門がある。そのなかで、第一、第二の大事は三千塵点劫、五百塵点劫という二つの法門である。その三千塵点劫という法門は第三の巻・化城喩品というところに出ている。この三千大千世界をすりつぶして微塵となし、東の方に向かって、千の三千大千世界を過ぎてその一つの塵を落とし、また千の三千大千世界を過ぎて一つの塵を落とし、このようにして三千大千世界の塵をことごとく落とし果たした。さて、その後、塵を落とした三千大千世界と、落とさない三千大千世界とを一緒に束ねてまた塵となし、この諸の塵をもって並べて一塵を一劫として経尽くしては、また同じように始め、終わればまた始めるというように劫をかさねていき、このようにして以上の無数の塵の数だけの劫を尽くしたとき、これを三千塵点劫というのである。今、三周の声聞といって舎利弗・迦葉・阿難・羅睺羅などという人々は、過去遠々劫の三千塵点劫のその昔に大通智勝仏という仏の第十六番目の王子である菩薩がおられた。三周の声聞たちはその菩薩より法華経を習ったのであるが、途中、悪縁にだまされて法華経を捨てる心を起こしてしまった。このようにしてあるいは華厳経へ堕ち、あるいは般若経へ堕ち、あるいは大集経へ堕ち、あるいは涅槃経へ堕ち、あるいは大日経、あるいは深密経、あるいは観無量寿経へ堕ち、あるいは阿含小乗経へ堕ちなどしているうちに次第に堕ちていって、のちには人界・天界の善根におち、さらには、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪趣に堕ちてしまったのである。このようにして堕ちていくうちに、三千塵点劫の間、多くは無間地獄に生じ、少しは他の七大地獄に生じ、ときたまは一百余の地獄、まれには餓鬼・畜生・修羅などに生まれ、大塵点劫などの長い期間を経て、また人界・天界に生まれたのである。

それ故、法華経第二の巻、譬喩品には「常に地獄に居ることは、あたかも園観に遊んでいるようにあたりまえとなり、また、他の餓鬼、畜生、修羅の悪道がわが家のようになってしまう」等と。十悪を犯した者は、等活地獄、黒縄地獄などという地獄に堕ちて五百生、あるいは一千歳を経る。五逆罪を作った人は無間地獄に堕ちて一中劫もの長い期間を過ぎて後、また人界に生まれてくる。ところがいかなる事であろうか、法華経を捨てる人は、退転する時は、それほど父母等を殺すことのように重大な罪とは思わないけれども、もっとも重い無間地獄に堕ちて多劫を過ごすのである。

たとえ父母を一人・二人・十人・百人・千人・万人・十万人・百万人・億万人等の人を殺したとしても、どうして地獄に堕ちて三千塵点劫という長い間を過ぎることがあろうか。また、一仏・二仏・十仏・百仏・千仏・万仏、そして億万仏を殺したとしても、どうして無間地獄に堕ちて五百塵点劫を過ぎることがあろうか。ところが法華経を捨てた罪によって、三周の声聞が三千塵点劫を経、諸大菩薩が五百塵点劫を経たことは重大なことに思われる。結局、たとえば拳をもって虚空を打てば拳は痛くない。石を打てば拳は痛い。悪人を殺すのは罪が浅く、善人を殺すのは罪が深い。或は他人を殺すのは拳で泥を打つようなものである。父母を殺すのは拳で石を打つようなものである。鹿を吠える犬は頭が割れるようなことはない。師子を吠える犬は腸が腐る。日月を呑む修羅は頭が七分にわれ、仏を打った提婆達多は大地がわれて無間地獄に入った。このように罪を犯した所対によって罪の軽重は異なるのである。

さればこの法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり、一字一点もすつる人あれば千万の父母を殺せる罪にもすぎ十方の仏の身より血を出す罪にもこへて候けるゆへに三五の塵点をば経候けるなり此の法華経はさてをきたてまつりぬ又此の経を経のごとくにと説く人に値うことは難にて候、設い一眼の亀の浮木には値うとも・はちすのいとをもつて須弥山をば虚空に懸くとも法華経を経のごとく説く人にあひがたし。

それ故、慈恩大師という人は玄奘三蔵の弟子であり、唐の太宗皇帝の師である。梵語、漢語の書を空にうかべ、一切経を胸に湛え、仏舎利を筆のさきから雨の如く降らし、説法の時は牙から光を放った聖人である。当時の人も慈恩大師を日月の如く恭敬し、後世の人も眼目として渇仰したが、伝教大師はこの慈恩大師を責めて「法華経を讃めるといえども、還って法華の心を死す」等と破折した。この言葉の意味は、慈恩大師は、自分では法華経を讃えていると思っているが、法華経最第一の原理を知らないゆえに、理の示しているところは、法華経の真意をころす人になっているのである。

善無畏三蔵は月氏の烏仗那国の国王である。位をすてて出家してインドの五十余の国々を修行して顕教・密教の二道をきわめ、のちには漢土に渡って玄宗皇帝の師となった人である。中国・日本の真言師は、誰一人この善無畏三蔵の流れを汲んでいないものはない。このような尊い人ではあるが、ある時に頓死して閻魔の責めに会ったのである。なぜこのように急死して、閻魔の責めにあったのか、その理由を誰も知らない。

日蓮これを考えてみたところ、善無畏三蔵はもともと法華経の行者であったが、大日経を見て法華経より勝れるといったことがその原因である。したがって舎利弗、目連等の二乗が悪道に堕して三千塵点、五百塵点の長期を経たことは、十悪や五逆の罪でもなく、謀叛・八虐の反逆の罪でもなく、ただ、悪知識に値って、法華経の信心を破って権経に移ったゆえである。天台大師が解釈していわく「もし悪友に値えば、本心を失ってしまう」と。この文の本心というのは法華経を信ずる心である。失うというのは法華経の信心を翻して、余経へ移る心である。それゆえに法華経の寿量品にいわく「然も良薬を与えるのに、肯て服さない」等と。この経文を天台は「法華経を信ずる心を失う者は、良薬を与えても、服すことなく、生死の苦しみのなかに流浪し、他国へ逃げてゆく」と釈している。

それゆえ法華経を信ずる人が、畏れなければならないものは、賊人、強盗、夜打ち、虎狼、師子等よりも、現在の蒙古の責めよりも、法華経の行者の修行を妨げ悩ます人々である。われわれの住む娑婆世界は、第六天の魔王の所領である。一切衆生は無始已来、第六天の魔王の眷属である。魔王は六道のなかに二十五有という牢を構えて一切衆生を入れるばかりでなく妻子という絆を打ち、父母主君という網を空にはり、貪瞋癡の酒をのませて、一切衆生の仏性の本心をたぼらかす。そして、悪の肴ばかりをすすめて三悪道の大地に伏臥させる。衆生にたまたまの善心があれば邪魔をするのである。

法華経を信ずる人をなんとしても悪道へ堕とそうと思うが叶わないので、だんだんにだまそうとしてまず法華経に相似する華厳経へ堕とした。杜順・智儼・法蔵・澄観等がこれである。また次に般若経へだまし堕とす悪友は嘉祥・僧詮等である。また深密経へだまし堕とす悪友は玄奘・慈恩である。また大日経へだまし堕とす悪友は善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証である。また禅宗へだまし堕とす悪友は達磨・慧可等である。また観無量寿経へだまし堕とす悪友は善導・法然である。これは第六天の魔王がこれらの智者の身に入って、法華経を信ずる善人をだますのである。法華経第五の巻・勧持品に「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのはこのことである。

たとえ等覚の菩薩であっても、元品の無明という大悪鬼がその身に入って、法華経という妙覚の功徳を妨げるのである。まして、それ以下の人々においては、なおさらのことである。また、第六天の魔王があるいは妻子の身に入って親や夫をたぼらかし、あるいは国王の身に入って法華経の行者をおどし、あるいは父母の身に入って孝養の子を責めたりするのである。

悉達太子は国王になるべき位を捨てようとされたので、妃が羅睺羅を孕んでいたのを父の浄飯王は「子が生まれてから出家しなさい」と諫められたところ、魔はこれさいわいと子の生まれるのを六年間おさえた。舎利弗は、昔禅多羅仏といった仏の末世に菩薩の行を立てて、六十劫を経た。あと四十劫で百劫になるまで近づいたのを、第六天の魔王が、その菩薩の行が成就するのではないかと危ぶんだのであろう、婆羅門となって舎利弗の眼を乞うたところ、舎利弗は乞われたままに眼を取らせたけれども其れによって退転する心がでてきて、舎利弗は無量劫の間、無間地獄に堕ちたのである。大荘厳仏の末法の六百八十億の檀那等は、苦岸等の四比丘にだまされて普事比丘を怨んだゆえに大地微塵劫の間、無間地獄を経たのである。師子音王仏の末法の男女等は勝意比丘という持戒の僧を信じて、正法を弘める喜根比丘をあざ笑った故に無量劫の間、地獄に堕ちたのである。

今また日蓮の弟子檀那等は、この事にあたっている。法華経の法師品には「如来のおられる時でさえ猶怨嫉が多い、まして滅度の後においてはなおさらのことである」と説かれ、また安楽行品には「一切世間の人は、仏に怨をなすものが多く、正法を信じ難い」と説かれ、涅槃経には「横死の殃に罹り、訶嘖を受け、罵られて辱しめられ、鞭や杖で打たれ、監禁され、飢餓、困難を味わう。このような現世の軽い報いを受けることによって未来には地獄に堕ちない」等と説かれている。また般泥洹経にいうには「衣服は不足し飲食は粗末で少ない。財を求めても得られず、貧賎の家および邪見の家に生まれ、或は王難およびその他の種々の人間社会の苦報にあうが、現世に軽く受けるのは、これ仏法を護る功徳力に由る故である」とある。経文の意味は、われわれは、過去において正法を修行していた者に怨をなしたのであるが、今度は反対に自分が正法を信受することになったので、過去に人の修行を妨げた罪によって本当は未来に大地獄に堕ちるところを、今生に正法を行ずる功徳が強盛なので未来の大苦を今生に招きよこして少苦に値うのである。この経文に、過去の謗法によって、さまざまな果法を受けるなかに、あるいは貧しい家に生まれ、あるいは邪見の家に生まれ、あるいは王難に値う等と示されている。このなかに「邪見の家」というのは誹謗正法の家であり、「王難等」というのは、悪王の世に生まれあわせることである。この二つの大難は、あなたがたの身にあたって感ずることであろう。過去の謗法の罪を滅しようとして今邪見の父母に責められているのである。また法華経の行者をあだむ国主に生まれあっている。経文には明々であり、また赫々である。ゆえにわが身が過去に謗法の者であったことを疑ってはならない。これを疑って現世の軽苦が忍びがたくて慈父の責めにあってこれに随い、おもいのほか法華経を捨てることがあれば、自分が地獄に堕ちるばかりでなく、悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちて、共に悲しむことは疑いないことである。大道心というのはこのように大目的観に立って信心をまっとうすることをいうのである。

あなたがた兄弟は、かなり法華経(御本尊)を信じてきたので、過去世の重罪の果報を現世に責め出しているのである。それは例えば鉄を念入りに鍛え打てば内部の疵が表面にあらわれてくるようなものである。石は焼けば灰となるが、金(こがね)は焼けば真金となる。このたびの難においてこそ、本当の信心があらわれて法華経の十羅刹女もあなたがたを必ず守護するにちがいない。雪山童子の前に現われた鬼神は帝釈であり、尸毘王が助けた鳩は毘沙門天であった。同じく、十羅刹女が、信心を試すために、父母の身に入って、法華経を信ずる人を責めるということもあるであろう。それにつけても信心が弱くては、必ず後悔するにちがいない。前車が覆えったのは、後車の誡しめである。

今の乱れた世にあっては、これということがなくとも仏道を求める心が起こることは当然である。この世の有様をみて厭うといっても、よもや厭うことはできない。日本の人々は、定めて大苦に値うことは目に見えており、まさに眼前のことである。文永9年(1272)2月の11日には、執権時宗の義兄・時輔が、謀叛を起こして亡びた。盛んであった花が大風に枝を折られるように、また清絹が大火に焼かれるようになったので、どうしてこの世を厭わない人があろうか。また文永11年(1274)の10月、蒙古の襲来の折の壱岐、対馬の島民が、一時に殺されたことも、どうして他人事と思えようか。当時も蒙古の討伐に向かった人々のなげきは、いかばかりであろう。年老いた親、幼い子、若い妻、そして大切な住み家をうち捨てて、意味もない海を守り、雲が見えれば、敵の旗かと疑い、釣船が見えれば、蒙古の兵船ではないかと肝を冷やす。日に一、二度は、山へ登って見張り、夜には三、四度敵が来たといって馬に鞍をおく。まさに現身に修羅道を感ずる日々である。

あなたがた兄弟がいま責められていることも、結局は国主が法華経のかたきとなっている故である。国主が法華経の敵(かたき)となることは、持斎、念仏者、真言師等の謗法からおこっているのである。今度、この難を耐え忍びぬいて、法華経の御利生を試してごらんなさい。日蓮もまた、強く諸天にいいましょう。決して怖れる心や姿があってはならない。女性は信心が弱いので、あなたがたの夫人達は、きっと心がひるがえっていることであろう。だがあなた方は信心強盛に歯をくいしばって難に耐え、たゆむ心があってはならない。例えば日蓮が平左衛門尉の所で、堂々と振舞い、いい切ったように、少しも畏れるような心があってはならない。北条氏との戦さで敗れた和田氏の子、時頼と戦って敗れた若狭守泰村の子、あるいは天慶の乱の平将門の家来、前九年・後三年の役の阿倍貞当の家来となった者は、仏になる道ではないけれども恥を思うゆえに命を惜しまなかった。これが武士の習いである。これということがなくても、一度は死ぬことは、しかと定まっている。したがって、卑怯な態度をとって、人に笑われてはならない。

余りに心配なので、大事な物語を一つお話し申しあげよう。

伯夷・叔斉という兄弟は胡竹国の王の二人の王子であった。父の王は弟の叔斉に王位をゆずったが、父王の死後、叔斉は王位につかなかった。そこで兄の伯夷が弟に「王位につきなさい」といった。だが叔斉は「兄さんが位を継いで下さい」といった。伯夷が「どうして親の遺言に反するのか」というと、弟の叔斉は「親の遺言はそうではありますが、どうして兄さんをさしおいて私が王位に即けましょうか」と辞退したので、伯夷・叔斉の二人は共に、父母の国を捨てて、他国に行ってしまった。

そして、二人は周の文王に仕えた。ところが、その文王は殷の紂王に討たれてしまったので、その子・武王は、父の死後、百か日の間に紂王討伐の軍をおこしたのである。そのとき伯夷・叔斉は武王の馬の口にとりついて諫め、「親が死んでのち、三年間の内に軍をおこすのは、親不孝ではありませんか」といった。それを聞いて武王は怒り、伯夷・叔斉を打ち取ろうとしたが、臣の太公望が、武王を制して打たせなかった。

伯夷・叔斉の二人は、この武王をうとんで、首陽山という山に隠れ、わらびを折ってこれを食べ、命をつないでいた。その山の中で二人が麻子という者にゆき会った時、その人が「どうしてここに居るのか」とたずねた。そこで二人は前のような話をしたところが、麻子は「それならば、そのわらびも王の物ではないか」と責めたのである。二人はそのように責められたので、その時から、わらびを食べなくなった。

天はもともと賢人を見捨てないことになっているので、天は白鹿となって現われ、乳で二人を養ったのである。しかしその白鹿の去ったのちに、叔斉は「この白鹿は乳でさえこれほどうまい、ましてその肉を食べたらどれだけうまいことだろう」といったので、伯夷は叔斉を制したが、天は叔斉の一言を聞き、以後二人の前に現われなかった。そのため二人は飢えて死んでしまった。一生の間、賢明であった人も、一言によって身をほろぼすのである。

今、難に当たって、あなたがた二人もその心の内が自分には分からないので、非常に心配をしております。

釈迦如来が、太子であられたとき、父の浄飯王は、太子を惜しんで出家を許されなかった。そして城の四方の門に二千人の兵士を配置して、守らせたけれども、釈迦如来は、ついに王の心にそむいて、家を出られたのである。いっさいのことは、親に随うべきではあるが、成仏の道だけは、親に随わないことが孝養の根本といえるであろう。

それゆえに、心地観経には孝養の根本を説いて「恩愛の情を棄てて無為(仏道)に入る者が、真実の報恩の者である」等といっている。

この言葉の真意は、真実の仏道に入るには、父母の心に随わないで、家を出て成仏することが、真実の恩を報ずることになるというのである。世間の道理にも、父母が謀反などを起こすようなときには、随わないのが孝養とされているのである。儒教の孝経という経にそのことが出ている。天台大師も法華経の三昧に入られていたときには、父母が、左右の膝に取り付いて、仏道修行を妨げようとしたのである。これは第六天の魔王が、父母の姿を現わして、妨げたのである。

伯夷・叔斉の因縁故事は、さきに書いた。また、この他にも大切な因縁故事がある。日本国の第十六代に応神天皇という王がいた。今の八幡大菩薩がこの王である。この王に御子が二人あり、嫡子を仁徳、次子を宇治の王子といった。ところが天皇は第二子の宇治の王子に位を譲られたのである。しかし、天皇が崩御されたのち、宇治の王子は「兄君が位につかれるべきである」といった。しかし兄の仁徳は「どうして親の決められた譲位を受けられないのか」といって辞退した。このように互いに譲り合って、三年の間、国位に天皇はいなかったのである。万民の嘆きは、いいようもなく大きく、天下の災禍となってしまった。そのとき宇治の王子は「私が生きているから、兄君が位につかれない」といって、亡くなられたのである。兄の仁徳はこれを嘆かれて、うち沈んでおられたので、宇治の王子が生きかえって、兄が位に即くようにいろいろと言い置かれて、また息をひきとられた。そののち、仁徳が天皇に即かれたので、国内は穏やかになった上、新羅、百済、高句麗も日本国に従って、年貢を八十艘の船にそなえて貢いだと記録にみえている。

賢王のなかでも、兄弟の仲が穏かでない例もある。だがどのような契によって、あなた方兄弟はこのように仲がよいのであろうか。淨蔵・浄眼の二人の太子の生まれかわりであろうか。それとも薬王・薬上の二人の生まれかわりであろうか。大夫志殿が父親の勘当を受けられたけれども、兵衛志殿は、今度はよもや兄の側につかれないであろう。そうであれば、ますます大夫志殿に対する父上の不審はつよくなって並み大抵のことでは勘当を許されないであろうと思っていたところが、この鶴王という童子がいっていたことは本当であろうか。兵衛志殿も兄と同じく信心を貫く決意であるというので、あまりの不思議さに感嘆し、別のお手紙を差し上げました。兄弟二人の信心は未来までの物語として、これ以上のものはないであろう。

大唐西域記という本に次のように書いてある。インドの婆羅痆斯国・施鹿林というところに、一人の隠士がいた。この隠士は仙の法を成就しようと考えていた。すでに瓦礫を変えて宝となし、人畜の形を変える力を持つにいたったのであるが、まだ風雲に乗って仙宮に遊ぶことはできなかった。そこで、このことを成しとげるために、一人の烈士を説いて協力を得、これに長刀を持たせて、壇の隅に立たせ、息をひそめ、言葉を断った。

宵から次の朝にいたるまで、ものをいわないならば、仙の法を成就することになっている。仙の法を求める隠士は、壇のなかに坐って、手に長刀をとり、口に神呪を誦し、烈士にいうには「たとえ、死ぬようなことがあっても、ものをいってはならない」と。それに応えて烈士は「死んでも、ものをいいません」と誓った。このようにして、すでに夜中を過ぎて、夜がまさに明けようとするとき、なんと思ったのであろうか、烈士は大声をあげて叫んだのである。この一声で、もう仙の法は成就しなかった。そこで隠士は烈士にいった。「どうして約束を違えたのか、残念なことだ」と。

烈士が歎いていうには「少し眠っていたら、昔仕えた主人が自らやって来て、私を責めたけれども、師の恩が厚いので、忍んでものをいわなかった。そこで、その主人は怒って首をはねるぞと脅した。だがまた、ものをいわなかった。主人は遂に私の首を斬った。中陰に向かう自分の屍を見ると、残念で歎かわしかった。しかし、ものはいわなかった。次に南インドの婆羅門の家に生まれた。入胎出胎するときの大苦は忍びがたかった。だが息を出さずものもいわなかった。やがて若者となって妻を娶った。また親が死に、さらに子を儲けた。悲しくもあり、悦しくもあったけれども、ものをいわなかった。このようにして、年六十有五になった。わが妻が言った。『あなたが、もしものをいわなければ、あなたの子を殺します』と。そのとき私は思った。〝私はすでに年老いた。この子をもし殺されたならば、また子を儲けることは難しい〟と思ったので声を発したと思ったら、目を覚ました」と。

師の隠士は「力が及ばなかった。私もお前も、魔にたぼらかされた。とうとう、事を成ずることができなかった」といったので烈士は大いに歎いた。そして「私の心が弱かったために、師の仙法を成就することができなかった」といったので、隠士は「私のあやまちである。あらかじめ、誡めておかなかったことが失敗だった」と悔いた。しかし烈士は、師の恩を報ずることができなかったことを歎いて、遂に思いつめて死んだと書かれている。

仙の法というのは、漢土では儒家から出ており、インドでは外道の法の一つである。したがって、とるに足らない仏教の小乗阿含経にすら及ばない。まして、通教、別教、円教には及ばない。まして法華経には及ぶべくもない。このような浅いことでさえも、成し遂げようとすれば、四魔が競って成就しがたい。ましてや法華経の極理である南無妙法蓮華経の七字(御本尊)を初めて持ち、日本国の弘通の最初となる人(日蓮)の弟子檀那となる人々に大難が来るだろうことは、言葉でいい尽くしがたい。また心をもっても推し測ることはできない。

それ故、天台大師の摩訶止観という書は、天台大師一生の大事、釈尊一代聖教の肝心を述べたものである。仏法が漢土に渡って五百余年、当時の南三北七の十師達は、智は日月に等しくたとえられ、徳は四海に響いていたけれども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第について迷っていたのを、天台智者大師が五時八教の判釈をもってふたたび仏教を明確にされたばかりでなく、妙法蓮華経の五字の蔵の中から、一念三千の如意宝珠を取り出して、インド・中国・日本の一切衆生に広く与えられたのである。この天台の法門は、漢土に始まるばかりでなく、インドの論師さえ明かさなかったことである。それ故、章安大師は止観を釈していうには「摩訶止観ほど明らかで誤りのない法門は、前代にいまだ聞いたことがない」、また「インドの大論も、なおその比較の対象にならない」等といっている。そのうえ、摩訶止観の第五の巻に説かれる一念三千は、今一重立ち入った法門である。故に、この法門を説くならば、必ず魔があらわれるのである。魔が競い起こらないならば、その法が正法であるとはいえない。止観の第五の巻には「仏法を持ち、行解が進んできたときには、三障四魔が紛然として競い起こる。(中略)だが三障四魔に決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、まさに人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」等と書かれている。止観のこの釈は、日蓮の身にあてはまるばかりでなく、門家一同の明鏡である。謹んで習い伝えて、未来永久に信心修行の糧とすべきである。

止観の三障というのは、煩悩障・業障・報障のことである。煩悩障というのは、おのおのの生命にある貪・瞋・癡等によって、仏道修行の障礙があらわれるのである。業障というのは、妻や子等が仏道の障礙とあらわれることである。報障というのは、国王や父母等が障礙とあらわれるのである。また、四魔のなかで、天子魔というのもこの報障と同様である。今、日本国には、われも止観を体得した、われも止観体得したという人々のうち、誰に一体三障四魔が競い起こっているであろうか。止観のなかに、「三障四魔に随うならば、まさに人を悪道に向かわせる」というのは、ただ三悪道ばかりではなく、人界・天界、そして九界を皆悪道と書かれているのである。それ故、法華経を除いて、華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等は皆、人を悪道に向かわせる法である。天台宗を除いて、ほかの七宗の人々は人を悪道に向かわす獄卒である。だが天台宗の人人の中にも法華経を信ずるようでいて実際は人を爾前の教えへ向かわせる者は人を悪道に行かせる獄卒である。

今、宗仲・宗長の二人の兄弟は、隠士・烈士の二人のようなものです。どちらか一人でも欠けるならば、仏道を成就することはできない。譬えば、鳥の二つの羽、人の両眼のようなものです。また二人の夫人たちはこの兄弟二人にとっては大事な支えです。女性というのは物に随って、物を随える身であります。夫が楽しめば、妻も栄えることができ、反対に夫が盗人ならば、妻も盗人となるのです。これはひとえに、今生だけのことではない。世世・生生に、影と身と、花と果実と、根と葉のように相添うものなのです。木に住む虫は木を食べる。水中に住む魚は水をのむ。芝が枯れれば蘭が泣き、松が栄えれば柏は悦ぶ。草木でさえ、このように互いに助け合うのです。比翼という鳥は、身は一つで、頭は二つあり、二つの口から別々に入った食物が、同じ一つの身を養う。比目という魚は、雌雄一目づつあるゆえに、一生の間離れることはない。夫と妻とは、このようなものです。この法門(御本尊)のためには、たとえ夫から殺害されるようなことがあっても後悔してはなりません。夫人たちが力を合わせて夫の信心を諌めるならば、竜女の跡を継ぎ、悪世末法の女人成仏の手本となられることでしょう。このように、信心強盛であるならば、たとえどのようなことがあろうとも、日蓮が二聖・二天・十羅刹女・釈迦・多宝にいって、あなたが未来順次に生まれるたびに、必ず成仏させてあげましょう。「心の師とはなっても、自分の心を師とするな」とは六波羅密経の文である。

たとえ、どのような煩わしい、苦しいことがあっても、夢のなかのこととして、ただ法華経(御本尊)のことだけを思っていきなさい。中でも日蓮の法門は、以前には、信じ難かったが、今は前々言って置いたことが的中したので、理由もなく誹謗した人々も、悔いる心が起きたであろう。たとえ、これよりのちに信ずる男女があっても、あなたがたに替えて思うことはできません。始めは信じていたけれども、世間の迫害の恐ろしさに、信仰を捨てた人々は数をしらないほど多い。そのなかには、かえってもとから誹謗していた人々よりも、強盛に謗る人々もまた多くおります。釈尊の在世にも、善星比丘等は、始めは信じていたけれども、のちに信仰を捨てたばかりでなく、返って釈迦仏を謗じたゆえに、仏の慈悲をもってしてもいかんともしがたく、無間地獄に堕ちてしまいました。この御手紙は、別して兵衛志殿にあてたものです。また大夫志殿の女房、兵衛志殿の女房にも、よくよくいい聞かせなさい。聞かせなさい。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

文永十二年四月十六日         日 蓮  花 押
 

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