光日房御書
建治2年(ʼ76)3月 55歳 光日尼
去る文永8年(1271)太歳辛未九月のころから、御勘気を蒙って北国の佐渡が島へ放逐されてしまった。なんとなく相州・鎌倉に住んでいたときは、故郷であるから安房の国は恋しかったけれども、安房の国は自分の国でありながら人の心も、どういうわけか親しみにくかったので、平素は往き来することもなく過ごしてしまった。だが、このように御勘気の身となって、死罪となるべきであったのが、減刑になって、さしあたり国外へ追放されてしまった以上は、特別なことでもなければ鎌倉へは帰れそうにない。帰れなければ再び父母の墓に参る身になり難い、と思い続けていたので、今更のように飛び立つばかりに悔しく、どんなに苦労しても父母の墓へも参り、師匠の様子をも、問い訪ねなかったのかと、嘆かわしく思っていた。かの蘇武が皇帝の命を受けて胡国に使いをしたまま捕われて、十九年の間、不自由な生活を送り、そのとき、雁が南へ飛ぶのを見ては、うらやましく思い、また仲丸が日本国の朝廷の使いとして、唐へ渡ったが、そのまま帰国が許されずに、年を経、月が東に出たのを見ては、日本のみかさの山にもこの月は出て、ふるさとの人々も今、同じくこの月をながめていることであろうと思った、そのような心境で日蓮は佐渡の地で心を澄ましていた。
今、日蓮も流罪の地・佐渡の国で彼等のように故郷のことを思い遣っていたとき、故郷からある人の便宜に託して衣服を贈られたとき、かの蘇武が得たのはわずか雁の足に巻きつけた帛書のみであったのに、日蓮は現に衣服を贈られて、蘇武の喜びには比較にならないほどうれしく思った。日蓮はこれという失があるとは思わないが日本の国の人々の常として念仏者と禅宗と律宗と真言宗に騙されてしまったがゆえに、法華経を表面上では尊んでいるように振舞いながら、心では信じていないから、日蓮が、法華経が勝れた教えであるといえば、ちょうど威音王仏の像法の末の末法に、いっさいの四衆が不軽菩薩を憎んだように、上一人より下万人にいたるまで、日蓮の名を聞くまいとし、まして姿を見ることなどとんでもないと憎む者ばかりである。
であるから、たとえ失はなくても、このように佐渡にまで流されてしまったからには、そう簡単に赦されるはずがない。まして日本国の人々が父母よりも重く日月よりも高く信じている念仏を無間の業といい、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法であるから、念仏者・禅宗・律僧等の寺をば焼き払い、念仏者どもの首を刎ねるべきであると申すうえ、事実無根の讒言ではあるが故最明寺入道時頼・極楽寺入道重時の二人の入道殿は、無間地獄に堕ちたといったほどの大罪ある身である。これほどの大事を上下万人に言明した以上は、たとえそれが虚事であっても、再びこの世にはうかびがたい。
ましてや、これは日蓮が朝となく夕となくいい、昼となく夜となく万民に語り続けたうえ、平左衛門尉等の数百人の奉行人に説得し、どのような科に処せられようとも、これは止めることはできない旨を、強くいい聞かせた。それ故、大海の底の、千人で引かなければ動かない大石がたとえ浮かび上がることがあろうとも、天から降る雨が地に落ちないことはあろうとも、日蓮は二度と再び鎌倉へ帰ることはできないのである。
ただし法華経の教えが真実であり、日天月天が日蓮を捨てないならば鎌倉へ帰り、再び父母の墓へ参ることもあろうと心強く思って、法華経の行者を守護すべき梵天・帝釈・日月・四天はどうしたのであるか、日本の守護神である天照太神・正八幡宮は日本国にはいないのか。仏前の御起請は空言であって、法華経の行者を捨て給うのか、もしこのことが叶わなければ、日蓮の身がどうなろうとも惜しくはないが、現に教主釈尊と多宝如来と十方の諸仏の御宝前で、法華経の行者を守護するという誓状を立てたのに、今日蓮を守護しないで捨てるならば、正直捨方便の法華経に大妄語を加えることになる。それならば十方三世の諸仏を欺いた罪は、提婆達多の大妄語以上であり、瞿伽利尊者の虚誑罪よりも重い。たとえ大梵天として色界の頂上に住み、千眼天といわれ須弥山の頂上に居ても、日蓮を捨てるならば、阿鼻地獄の炎を増す薪となり、永久に無間大城を出るときはない。この罪が恐ろしいと思うならば、急いで日本の国に現証を顕わして、日蓮を本国へ帰しなさいと高い山に登って大音声に叫んだので、九月の十二日に御勘気を蒙って、まもないその年の十一月にはすでに謀反の者が現われ、翌年の二月十一日に日本国を警護すべき大将達が、いわれもなく討ち殺された。これは諸天の責めであることが明らかである。幕府はこれに驚いたのであろう、鎌倉の牢獄につながれていた日蓮の弟子達は釈放されたのである。
しかしながら、弟子は許されても日蓮はまだ許されなかったので、いよいよ強盛に諸天に申し聞かせたところが、頭の白い烏が飛んで来た。昔、燕の国の丹太子が、秦の国の人質となったとき、馬に角がはえ、烏の頭が白くなったことから秦王は丹を帰した例もあり、また日蔵上人が白頭の烏の飛来するのを見て「山がらすかしらもしろくなりにけり、我がかへるべき時やきぬらん」と詠んだことなどを思い合わせて、日蓮の帰るべきときも来たのだと話しているところに文永十一年二月十四日の赦免状が同三月八日に佐渡の国に到着した。同十三日に佐渡の一の谷を出発し真浦の港に出て、十四日はそこに泊って、同じく十五日越後の寺泊の港に着くべき予定であったが、大風のために、それを背にうけて運よくわずか二日の舟旅で柏崎に着いて、次の日は国府に着き、中十二日かかって三月二十六日に鎌倉へ入った。同じく四月八日に平左衛門尉に対面した。本より深く心に期していたことなので、日本の国の亡びるのを助けんがために、三度目の国家諌暁をした。だが、もしこれが用いられなかったならば、「三度諌めて用いずば国を出て、山林に交わる」との古賢の例を心得ていたので、それにならい、同五月十二日に鎌倉を出立したのである。
ただし、本国に帰って、今一度故郷の父母の墓へ参りたいと思うけれども、錦をきて故郷に帰れということは、内道・外道のしきたりである。これという面目もないまま故郷へ帰るならば、それは不孝の者ではなかろうか。だが、これほど困難とおもわれた佐渡赦免さえもその壁が破れ、鎌倉へ帰り入った身であるから、また錦をきる時もあることであろう。そのときは父母の墓へも参ろうと、深く思うゆえに、いまだに故郷へは帰らないけれども、さすがに故郷が恋しくて、吹く風・立つ雲までも、東の方からというと庵を出でてその風に身を触れ、また庭に立ってその雲を見ていたのである。
このようなありさまであるから、故郷の人といえば、たとえ自分をこころよく思っていない者であっても、安房の国の人であるといえば、懐かしく思われるところに、尼御前からこの手紙を受け取り、心もうわのそらに、急ぎ急ぎ開いて拝見したところが、「一昨年の六月八日に子の弥四郎に先立たれて……」と書かれてあった。手紙も開く前まではうれしかったが、今この言葉を読んでなんでこのように急いで、この手紙を開いてしまったのであろうかと、浦島太郎の玉手箱のように開けたのを悔いたのである。
故郷の安房の国のことならば、日蓮に冷たくつらい仕打ちをした人の将来のことまでも疎略には思わない。とくにこの人は姿、態度も普通の人よりも勝れてみえ、考え方も頑固でないように見えたけれど、なんといっても法華経を講じている席でのこととて、知らない人々も数多く居たので言葉もかけなかったが、講義が終わって皆人々は立ち帰った。この人も立ち帰ったが、使いを日蓮のもとへ寄こして申すのには「自分は安房の国の天津というところに住む者ですが、幼少のときから、大聖人の御志を慕っております上、母もまた大聖人のことを疎略には申しておりません。ずうずうしいお願いではありますが、密かに申し上げたいことがございます。もっと先へいって次第にお見知りいただいてから申し上げるべきですが、弓矢とる人の側近く仕えていて暇がない上、事が急になりましたので、非礼を顧みず申し上げます」とこまごまと申してきたので、なにぶんにも故郷の人であるから、そのくらいのことは遠慮することはないと招き入れた。するとこまごまと今日までの経過と今後のことなど語ってのち「世間は無常です。いつ死なないとも限りません。その上私は武士として仕えている身です。しかも申しかけられたことは遁れることができません。それにつけても後生が恐ろしく思われてなりません。どうかお助け下さい」と申したので経文を引いて申し聞かせた。
弥四郎殿が嘆いていうのには「父はすでに亡くなったのでさておいて、未亡人である母をさしおいて先立つことは、不幸に思えてなりません。自分にもしやのことがあったならば、私が大聖人の御指導をいただいて後世の備えをしてから死んだということをお弟子を通して母へお伝え下さい」と丁寧に依頼してきたが、そのときはなに事もなかったけれども、そののち死なねばならぬような事件が起きたのであろうか。
人界に生を受けた人は、上より下まで、憂患のない人はないけれども、時にあたり、その人その人にしたがってそのなげきは区々である。たとえば病気のならいとして、どんな病気も重くなると、これ以上の重病はない、と思うようなものである。主人との別れ、親との別れ、夫妻の別れ、いずれが劣る嘆きではないけれども主人との別れにはまた他の主人に仕えることもあろう。夫婦の場合はまたかわりの人を得れば心を安めることもできよう。だが親子の別れだけは月日が経つほどにいよいよ嘆きが深くなってゆくものとみえる。また親子の別れでも、親が先に亡くなって子供が生き残るのは、同じ無常ではあっても自然の道理であろう。だが年老いた母が生き残って若き子が先立ったのは、余りに情けない事なので、神も仏もうらめしい。どうして、親と子をかえて、親の方を先立たせずにこの世に留め置いて、嘆かせられるのであろうかと実につらいことである。心ない畜生でさえも子との別れには堪え難いものである。竹林精舎の金鳥は卵を守るために焼け死に、鹿野苑の鹿は胎内の子の命を惜しんで身代りに狩りにきた王の前に出た。ましてや心ある人間においてはなおさらのことである。それゆえ漢の王陵の母は、子のために頭を砕いて死に、唐の神尭皇帝の后は、胎内の太子のために腹を破った。これらのことを思い続けていったならば、たとえ火の中に入ろうとも、頭をも割ってもわが子の姿を見ることができるならば、惜しくはないと思われることであろうと、その心中が察せられて涙がとまらない。
また御手紙には「弥四郎は人を殺した者であるから、後生はどのようなところに生まれるのでしょうか。どうかお教え願います」等と書かれていた。
針は必ず水に沈み、雨は空にとどまっていることがないように、また、蟻子を殺した者は地獄に堕ち、屍を切った者でさえ、悪道に堕ちることを免れない。ましてや人身を受けた者を殺した人はなおさらのことである。ただし大石も海に浮かぶ、それは船の力による。大火も消えるのは水の働きではないか。同じ道理で小罪であっても懺悔しなければ、悪道を免れることはできないし、大逆罪であっても懺悔すればその罪は消える。
いわゆる過去世に粟を盗んだ比丘は五百生の間・牛に生まれ、苽を摘んだ者は三悪道に堕ちた。また羅摩王・抜提王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝王・毘舎佉王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王等の八万余人のインド古代の諸王は皆その父を殺して位についたが、善知識に値わなかったため懺悔することがなかったので罪が消えずに無間地獄に堕ちたのである。
波羅奈城に悪人がいた。その名を阿逸多といった。母を愛したために、父を殺し母を妻とした。父の師の阿羅漢がいて、誡めたところがその阿羅漢を殺した。母がまた他の男と関係したので母をも殺してしまった。つぶさに三逆罪を犯したので近隣の人にいみきらわれ、身の置きどころがなくなって、祇洹精舎に行き、出家を願ったが、諸僧が許さなかったのでさらに悪心強盛になって多くの僧坊を焼いてしまった。しかしながら、釈尊に値って出家を許されたのである。
また北インドに城があって細石といい、その城に竜印という王がいた。かつて父を殺したのであったが、のちにこのことを恐れて国を捨てて仏のもとに行ったので、仏は懺悔を許されたのである。
阿闍世王は生まれつき貪瞋癡の三毒が熾盛であり、十悪を犯しつづけた。そのうえ、父を殺し母をも殺そうとし、提婆達多を師として無量の仏弟子を殺した。こうした悪逆が積もった果に二月十五日、ちょうど仏の御入滅の日にあたって無間地獄に堕ちる先相として七箇所に悪瘡ができ、身体はもはや安穏ではなかった。その苦しみは大火に身を焼かれるようであり、熱湯を汲み浴びるようであったので、六大臣が参上して六師外道を召されて悪瘡を治されるように言上したのである。ちょうど今の日本国の人々が禅師・律師・念仏者・真言師等を善知識とたのんで蒙古国を調伏し後生を助かろうと思うのと同じである。またそのうえ、提婆達多は阿闍世王の本師である。提婆達多は外道の六万蔵、仏法の八万蔵を諳んじて、世間の学問と、出世間の仏法の事については、明るいこと日月と明鏡とに向かうようであった。それはあたかも今の世の天台宗の大学者といわれる徒輩が、顕密二教を胸にうかべ一切経を諳んじたと同じである。
これらの提婆達多や邪見の六師外道や諸の大臣達が阿闍世王を指導していたので、阿闍世王は仏に帰依しなかったのである。ところが、摩竭提国に天変が度々起こり、地夭しきりであるうえ、大風・大旱魃・飢饉・疫癘が絶え間なく発生したうえに他国からは攻められて、事態が悪化してゆくばかりか悪瘡すら王の身に出て、国土は一時に亡びるかにみえたときに、王もにわかに改心し、仏の前にきて、懺悔したのでその罪は消えたのである。
これらはさておいて、人の親は悪人であっても子が善人であれば、親の罪を許すこともある。また子が悪人であっても親が善人であれば、子の罪を許されることもある。であるから、故弥四郎殿はたとえ悪人であっても、生みの母が釈迦仏の御宝前で昼夜になげき・追善供養するならば、どうして弥四郎殿が成仏できないことがあろうか。ましてや弥四郎殿は生前は法華経を信じていたのであるから、悪道へ堕ちるどころか、親を成仏へ導く身となられているであろう。
法華経を信ずる人は、用心に用心を重ねて、法華経の敵を恐れていきなさい。念仏者と持斎と真言師とそのほかいっさいの南無妙法蓮華経と唱えない者は、どんなに法華経を誦んでも法華経の敵であると知っていきなさい。なにが仏道修行の敵であるかを知らなければ敵にだまされてしまう。なんとかして面会して詳しくお話したいものである。またこちらから行く三位房や佐度公等に会う度ごとに、この手紙を読ませて聞かせるがよろしい。またこの手紙を、明慧房に預けておきなさい。多分、大して智慧のない者が、日蓮をあるいは悪口したり、あるいはこの手紙を日蓮の才覚であるとして謗ったりするであろう。あるいはまさかこの御房は弘法大師には勝ることはないとか、まさか慈覚大師には超えることはない、などと人くらべをするに決まっている。こんなことをいう人は仏法の道理を知らぬ者であると、思っていきなさい。
建治二年太歳丙子三月 日
日 蓮 花 押
甲州南部波木井の郷山中