妙一尼御前御消息(冬は必ず春となるの事)
建治元年(ʼ75)5月 54歳 妙一尼
天に月や太陽がなければ、草木はどうして成長することができるでしょうか。同じように人は父母があって、そのうち一人でも欠ければ、子供は育ち難いものです。
そのうえ亡くなった御主人の場合は、後に残す子供に、あるいは病気の者がおり、あるいは女の子がおります。そのうえ子供達を育てるべき尼御前も、あまり丈夫ではない。こうした状況せすから、いったい誰が後のことを頼んで冥途に赴かれたことでしょう。さぞ、心残りであったでしょう。
釈尊は入滅の時、嘆いておられました。「自分は入滅するでしょう。ただ、心にかかるのは阿闍世王のことだけです」と。これを聞いて迦葉童子菩薩が、釈尊に「仏の慈悲は平等であって、一切衆生のためにご自身の命を惜しまれるべきであるのに、どうして特別に阿闍世王一人だけが心にかかるといわれたのでしょうか」と問うたところ、釈尊は「たとえばある人に七人の子供があり、その七人の子のうち一人が病気にかかったとします。父母の心は、どの子も平等であるけれども、やはり、病気の子に子に対しては誰よりも、心が傾くようなものです」と答えられました。
天台は摩訶止観にこの経文を解釈して「たとえば七人の子をもった父母は、どの子に対しても平等ではないわけではないが、病気の子に対しては誰よりも、心は重くかけるようなものです」と述べていますが、仏はそのように答えられたのです。
経文の意味は、人には沢山の子供がいますけれども、父母の心は病気する子にひときわ寄せられるということです。仏にとっては、一切衆生はみな我が子です。その中で罪が深くして父母を殺したり、仏や経典を誹謗し、敵対するような者は病気の子のようなものです。
ところで阿闍世王は摩竭提国の王です。釈尊の大檀那であった頻婆舎羅王を殺し、仏に敵対したので天も見捨てて日月の運行に異変が起こり、大地もこの王の上に頂くまいとして振動し、万民は王にしたがってみな仏法に背きました。そのため国は乱れ遂に他国から摩竭提国は攻められたのです。これらは、ひとえに悪人である提婆達多を師とした故です。
その結果、今日二月十五日から全身に悪瘡ができて、三月七日には命がつきて、無間地獄に堕ちるはずです。このことがかなしく、不憫に思われるので、入滅することが心残りなのですと、私はいったのです。もしもこの私が阿闍世王を救うことができれば、その他の一切の罪人も、阿闍世王と同じように、救うことができるのにと、嘆かれたのです。
それについても、亡くなった御主人は、あるいは病気の子があり、あるいは女の子がいます。その子供達を残して死んでいったならば、枯れ朽ちた木のような老いた尼が一人残って、この子供達のことをどれほどいたわしく思うでしょうかと、嘆かれたでしょうと思われます。
亡き御主人は子供たちの行く末を心配されるとともに、その一方では、また日蓮のことが心にかかっておられたのでしょう。仏語が虚妄でないなら法華経は必ず流布するでしょう。とすれば、この日蓮御房は、何か素晴らしいことがあって、立派に敬われるようになられることと思われていたでしょうに、はかなくも佐渡に流罪されてしまったので、いったい法華経や十羅刹の守護はどうなったのかと思われたでしょう。
せめて今まで生きておられたんら、日蓮が佐渡から赦免になった時、どれほどか喜ばれたことでしょう。
また、立正安国論で予言していたことが事実となり、大蒙古国も攻め寄せて、国土も危うくなっているのを眼のあたりに見たなら、いよいよ大聖人の予言が的中したといって、さぞ喜ばれたことでしょう。
しかし、これは凡夫の心です。法華経を信ずる人は冬のようなものです。冬は必ず春となります。いまだかって冬が春とならずに秋に戻ったなどということは、聞いたことも見たこともありません。
同じように、いまだかつて法華経を信ずる人が凡夫になってしまったなどということも聞いたことがありません。法華経方便品には「もし法を聞くことができた者は、一人として成仏しない者はない」と説かれています。
亡くなられた御主人は、法華経のために身命を捨てた方です。わずかの身命を支えていた所領を、法華経の故に召し上げられたということは、法華経のために命をすてたのと同じではないでしょうか。
かの雪山童子は仏法の半偈を聞くために身を捨て、薬王菩薩は七万二千歳の間、ひじを焼いて仏前を照らして仏に供養しました。かの人達は、聖人ですからそれらの修行も火に水をいれるようなものでそれほど厳しいものには感じなかった。しかし、あなたの御主人は凡夫ですから、紙を火にいれるようなもので、その難は厳しくかんじられたでしょう。
このことから考えると、法華経のために所領を没収されたあなたの御主人は、命を捨てて仏になった雪山童子や薬王菩薩と同じ功徳があるのです。大月輪の中か、大日輪の中か、天の鏡に妻子の姿を浮かべて昼夜十二時に見守っておられることでしょう。
たとえ妻子は凡夫ですから、ちょうど耳の聞こえない人が雷の音を聞かず目の見えない人が日輪を見ないように、これを見ることも聞くこともできなかったとしても、決して疑ってはなりません。必ず主人はあなた方を守っていられることでしょう。それだけではなく、さぞかしあなた方のところへ来られていることでしょう。
できることならば、こちらから訪ねようと思っていたところへ、かえって衣を一ついただいたことは、全く思いがけない次第です。
法華経はありがたいお経ですから、もし今生に勢いのある身となったら、尼御前が生きておられるにせよ、もしくは草葉の陰からご覧になっているにせよ、幼い子供達は、日蓮が見守って育てるでありましょう。
佐渡の国といい、この身延の山といい、下人を一人つけられた御志は、いつの世にも忘れることがありましょうか。この御恩はまた生まれ替わって報いるでありましょう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・恐恐謹言。
五月 日 日蓮花押
妙一尼御前
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