妙密上人御消息
建治2年(ʼ76)閏3月5日 55歳 妙密
銭五貫文を確かにいただきました。いったいに、小乗経で説く五戒の始めは不殺生戒である。大乗経で説く六波羅蜜の行法の始めは檀(布施)波羅密である。十善戒、二百五十戒、十重禁戒等の一切の諸戒の始めは全て不殺生戒である。上は仏から下は蚊やあぶにいたるまで自分の生命を財宝としないものはない。この命を奪えば、第一の重罪となるのである。仏は世に出現されて、生命を慈しむことを根本とした。生命を慈しむしるしとして、命を奪わず食物を施す修行をすることが第一の戒である。
人に食物を施すのに三つの功徳がある。一には生命をたもつことができる、二には色艶を増す。三には力を与えるのである。
命をたもつということは、人間界、天上界に生まれては長寿の果報を得、仏となっては法身如来とあらわれて、その身は虚空と等しい境涯となるのである。力を授けるということは、人間界、天上界に生まれては、威徳を具えた人となって多くの人々がその周りに集まるのである。仏となっては報身如来と顕れて蓮華台に常座し、ちょうど八月十五夜の満月が晴れた天に出たようなものである。色を増すということは、人間界、天上界に生まれては三十二相を具えてその相の端正なことは華のように美しく、仏となっては応身如来と顕れて釈迦仏のようになるのである。
そもそも須弥山の始めを尋ねれば一つの塵であり、大海の初めは一滴の露である。一を重ねれば二となり、二を重ねれば三となり、このようにして十、百、千、万、億、阿僧祇となっても、その生みの母はただ一なのである。
そこで、日本国の仏法の始まりについていうと、天神七代、地神五代の後、人王百代その初めの王を神武天皇という。その神武天皇から第三十代の欽明天皇の御代に、百済国から経文並びに教主釈尊の御影像と僧尼等が共に渡された。第三十一代用明天皇の第二皇子である上宮太子(聖徳太子)という人は、仏法を読みはじめ、法華経を中国から取り寄せ、法華経義疏等を著わして仏法を弘めたのである。それから後、人王第三十七代、孝徳天皇の御代に観勒僧正という人が、新羅国から三論宗・成実宗を日本へ伝えた。
同時代に道昭という僧が、中国から法相宗・倶舎宗を伝えた。また同時代に新羅国の審祥大徳が華厳宗を伝えた。
第四十四代元正天皇の御代に、インドの上人である善無畏三蔵が大日経を伝えた。第四十五代聖武天皇の御代に鑑真和尚と云う人が、中国から日本へ律宗を伝え、そのついでに天台宗の法華玄義、法華文句、摩訶止観、浄名疏等を伝えたのである。しかし、真言宗と法華宗の二宗はまだ弘めなかった。
その後今日まで四百年になる。総じて日本国に仏法が伝来してから今日まで七百余年になる。その間、ある時は阿弥陀如来の名号を、ある時は大日如来の名号を、ある時は釈尊の名号等を唱えなさいと一切衆生に勧めた人々はいたけれども、いまだかつて法華経の題目である南無妙法蓮華経を唱えなさいと勧めた人はいないのである。
日本国に限らずインド等にも釈尊滅後一千年の間、迦葉、阿難、馬鳴、竜樹、無著、天親等の大論師が仏法を全インドに弘通したけれども、また中国に仏法が渡って数百年の間、摩騰迦・竺法蘭、羅什三蔵、南岳、天台、妙楽等があるいは疏をつくり、あるいは経文を解釈したけれども、いまだに法華経の題目を阿弥陀の名号のように勧めることはなかった。 ただ自分一人だけで唱え、あるいは法華経を講義する時、その講師だけが唱える事はあった。しかし、八宗九宗等、その教義はまちまちであるが、その多くは阿弥陀の名号を唱え、次には観音の名号を唱えたり、次には釈迦仏の名号を唱えたり、次には大日如来、薬師如来等の名号を唱えた高祖や先徳はいたけれども、どんな理由があってか釈尊一代諸教の肝心である法華経の題目だけは唱えなかったのである。その理由をよくよく求め学ぶべきである。例えば名医が一切の病の根源や薬の効能の浅深はわきまえていても、やたらと大事な薬を使う事はしないで病気によって使い分けるようなものである。
故に釈尊滅後正像二千年の間は、煩悩の病も軽かったので、釈尊一代のうちの第一の良薬である法華経二十八品の肝心・妙法蓮華経の五字を、人々に勧めなかったのであろうか。
今は末法に入っている。人はそれぞれみな重病にかかっている。その病は阿弥陀如来、大日如来、また釈尊等の軽い薬では治すことは難しい。月は素晴らしいけれども秋でなければ光が冴えないし、花は美しいけれども春でなければ咲かない。全てのものは、時によるのである。故に正像二千年の間は題目の流布する時に当たっていないのであろう。また仏教を弘めるのは仏の御使である。したがって弟子が仏から譲り受ける法門が、めいめい異なるのである。正法千年に出現した論師、像法千年に出現した人師達は、その多くは、小乗教や権大乗教または法華経のあるいは迹門、あるいはその他の枝葉を付嘱された人々である。まだ法華経本門の肝心である題目を付嘱された上行菩薩は世に出現されていない。この上行菩薩は末法に出現して、妙法蓮華経の五字を世界中の国ごと、人ごとに弘めるのである。例えば、今、日本国に阿弥陀の題目が流布しているようになるのである。
ところが日蓮は、いずれの宗も元祖でもない。またその流れを汲むものでもない。持戒破戒の者でもなく、無戒の僧であり、有智、無智という概念からもかけ離れた牛羊のような者である。それがどういうわけでいい始めたのか、上行菩薩が出現して弘められるべき妙法蓮華経の五字を、その出現に先立って寝言のように心にもなく南無妙法蓮華経と申し始めたように唱えているのである。所詮、このことはよいことであろうか。また悪いことであろうか。私自身も知らないし、人も判定はできないであろう。
ただ法華経を披見すると、この経は等覚の菩薩である文殊、弥勒、観音、普賢といえども、たやすく一句一偈も持つ人はない。法華経方便品に「ただ仏と仏のみが知る」と説かれている。それゆえ華厳経は釈尊が最初に悟りをそのまま示した円満な経であるけれども法慧等の四菩薩に説かせたのである。般若経はまた華厳経ほどではないけれども、それまでの中では、最もすぐれた経である。しかしながら須菩提が仏に代わってこの経を説いている。ただ法華経だけが三身円満の釈迦如来の金口から出た妙説である。
故に普賢、文殊であっても簡単に一句一偈をも説かれなかったのである。まして末法の凡夫の我等衆生は、たとえ一字二字であっても自身には持ち難いのである。
諸宗の元祖等が法華経を読み奉っているので、それぞれの弟子達は、我が師匠は法華経の肝心を証得されていると思っている。しかし所詮は、慈恩大師は深密経や唯識論を師匠として法華経を読み、嘉祥大師は般若経や中論を師匠として法華経を読んでいる。杜順や法蔵等は華厳経や十住毘婆沙論を師匠として法華経を読んだ。善無畏、金剛智、不空等は大日経を師匠として法華経を読んだ。これらの人々は、それぞれ法華経を読んだと思っていても、まだ一句一偈たりともよんだ人ではないのである。
所詮を論ずれば、伝教大師は注釈して「法華経を讃めていても、かえって法華の心をころす」と。例えば外道が仏経を読んでも、その義を外道と同じものとして理解するようなものであり、蝙蝠が昼を夜と見るようなものである。また赤い顔をした者は、白い鏡でも赤いと思い、太刀に顔を映した者は、丸い顔でも細長いと思うのに似ている。
今日蓮はそうではない。法華経こそ已今当において最も難信難解であり最勝であるとの信念を深く守り、一経の肝心である題目を自分も唱え、人にも勧めている。ちょうど麻の中に生えた蓬や黒線を印した木が、それ自体は曲がっていても自然に真っすぐになるようなものである。法華経の教える通りにしたがって題目を唱えているから、曲がった心がないのである。まさに仏の御心が我らが身にお入りにならなければ唱えることはできないであろう。
また、他の人が弘められた仏法は、皆師匠から習い伝えたものである。例えば、鎌倉の御家人の知行や、地頭の所領が一町、二町ほどのものであっても、みな故源頼朝の御恩の故である。ましてや、百町、千町また一国、二国を知行する人達が御恩をこうむっていることはいうまでもない。
世に賢人というのは、よい師匠から習い伝えた人をいうのであり、聖人というのは、師がなくて自ら悟った人をいうのである。仏滅後インド、中国、日本国の三国に二人の師匠が出現した。いわゆる天台大師と伝教大師の二人である。この二人をこそ聖人というべきであり、また賢人ともいうべきである。天台大師はその師南岳大師から教えを伝え受けた。この点では賢人である。また道場において自ら仏乗を悟られた。この面からいえば聖人である。伝教大師は道邃・行満を師として摩訶止観と即身成仏の大戒の教えを伝授された。この面では賢人である。中国に渡る前に、日本で真言宗と天台宗の二宗を師匠なくして悟りきわめ、天台宗の教が六宗、七宗より勝れていると悟られたのは聖人である。
それゆえ外典には「生まれながらにして知っている者は上である、学んでから知る者は次である(次とは賢人の名である)」とあり、仏典には「我が修行には師のたすけがない」と説かれているのである。
教主釈尊は娑婆世界第一の聖人である。
天台、伝教の二人は聖人であると同時に、賢人にも通ずるのである。馬鳴、竜樹は小乗教の聖人賢人であり、無著、天親は権大乗教の聖人、賢人であり、老子、孔子等は外典の聖人、賢人である。法華経の聖賢ではない。
今、日蓮は聖人でも賢人でもない。持戒にも無戒にも、また有智にも無智にもあたらない。しかし、法華経の題目が流布すべき後の五百歳、仏滅後二千二百二十余年を経た末法の時代に生まれて、近くは日本国、遠くは、インド、中国の諸宗の人々が唱え始める前に、南無妙法蓮華経と高声に題目を唱えて、二十余年を経た。その間というものは、あるいはののしられ、あるいは打たれ、あるいは傷を受け、また流罪には伊豆、佐渡と二度あい、更には一度、竜口の法難という死罪に定められたのである。
それ以外の大難は数しれない。例えば、大湯に大豆をひたし、少しの水に大魚をいれたように、いつも生命の危険にさらされていたのである。
法華経に「この法華経は、如来が世におられる時ですら数多くの怨嫉があった。まして如来滅後においてはなおさらである」「一切世間に怨む者が多く、信ずることは難しい」、更に「多くの仏法に無智の人がいて悪口罵詈する」と。あるいは「刀や杖、瓦、石をもって迫害を加え……あるいはしばしばその居所を追い出される」とある。
これらの経文は、日蓮がこの日本国に生まれなかったなら、ただ釈尊の言葉のみあって、その義が虚妄になってしまう。例えば、花が咲いて実がならず、雷が鳴って雨が降らないようなものである。釈尊の金言は虚妄になり、正直捨方便の法華経に大妄語をまじえることになるのである。これらのことをもって思うには、日蓮はおそらく、天台、伝教という聖人にも匹敵し、老子、孔子よりもすぐれているであろう。
また日蓮は日本国でただ一人、南無妙法蓮華経と題目を唱えたのである。このことは須弥山という大山を形成する最初の一塵であり、大海を構成する最初の一露である。二人、三人、十人、百人、一国、二国、六十六箇国まで弘まり壱岐、対馬にまで及ぶであろう。今は日蓮を謗じていた人達も題目を唱えるであろう。また日本国の上一人より下万民にいたるまで、法華経の神力品で説かれているように、必ず一同に声を合わせて南無妙法蓮華経と唱えることがあるだろう。それは木が静かであろうと思っても風がやまないために動くし、春を留めようと思っても必ず夏が来るのと同じようにとどめようのないことである。
日本国の人々が、法華経は尊いけれども日蓮が憎いので、南無妙法蓮華経とは唱えないと拒んでいるとしても、もう一度、二度と大蒙古国から兵が押し寄せて壱岐・対馬のように男を打ち殺し、女を無理に捕え、京都、鎌倉までも攻め入って、国主ならびに大臣、百官等を搦め取り、牛馬の前にけたて強く責めたてるような時は、どうして南無妙法蓮華経と唱えないでいられようか。以前、小輔房が法華経の第五の巻をもって日蓮の顔を数度打ったとき、日蓮は何とも思わず、かえってうれしく思ったのである。不軽品に説かれているように迫害を受け、また勧持品に説かれてあるように自分を責められることは、非常に貴いことである。
ただし、法華経の行者を悪人を打たせまいと、仏前において誓いを立てた梵天、帝釈天、日天、月天、四大天王等の諸天善神などは、どんなにか悔しいことであろう。
法華経の誓いにそむいてこの謗法の悪人達に天が罰をあてないのは、小事ではないので過去、現在、未来にわたってその身を亡ぼすだけでなく、釈尊等の前で問題にされているであろう。これは全く日蓮の失ではない。諸天が謗法の法師等を助けようとして、彼らの大きな禍いを自身に招き寄せたのである。
これらのことから考えてみると、あなた(妙密上人)が便りごとに送ってくださる青鳧五連の御供養の志は、日本国に妙法の題目を弘められる人にあたるのである。国中の人々が一人、二人、ないし千万億の人が題目を唱えるようになれば、しらずしらずのうちに功徳が妙密上人自身にあつまることであろう。その功徳は、ちょうど大海が露をあつめ、須弥山の微塵を積んで大きくなっていくようなものである。
ことに十羅刹女は、法華経の題目を唱える人を守護すると誓いを立てている。このことから推量するに十羅刹女は、妙密上人ならびに女房殿を、母親が一子を思い、犛牛がその長い尾を大事にするように、昼夜にわたって守られているであろう。本当に頼もしいことである。
いろいろ申し述べたいことがあるが、くわしく述べるひまがない。夫人にもよく伝えてください。これは、へつらっていっているのではない。
金(こがね)は焼いて鍛えれば、いよいよ色がよくなり、剣はとげばいよいよよく切れるようになる。と同じように法華経の功徳は讃嘆すればするほど、ますます勝れるのである。
法華経二十八品は正しい道理を説いたところはわずかで讃めた言葉が多いということを心得ていきなさい。
閏三月五日 日 蓮 花 押
楅谷妙密上人御返事