富木殿御書(止暇断眠御書)
建治3年(ʼ77)8月23日 56歳 富木常忍
妙法蓮華経の第二の巻に「もし人が信じないで法華経をそしり、この経を読誦し書持する者を見て、軽んじ賎しめ憎み嫉んで恨みを懐くならば、その人は死んで阿鼻地獄に入るであろう。(中略)そのように阿鼻地獄に生まれることを繰り返して無数劫にいたるであろう」とあり、第七の巻に「千劫の間、阿鼻地獄において大苦悩を受けた」とあり、第三の巻には「三千塵点劫の間、成仏できずにいた」とあり、第六の巻には「五百塵点劫の間、六道に堕してきた」等とある。涅槃経には「悪象のために殺されたときは三悪道に堕ちない。悪友のために殺されたときは必ず三悪道に堕ちる」等とある。
賢慧菩薩の宝性論には「愚かで正法を信ぜず邪見および憍慢なのは過去の謗法の罪障である。不了義に執着して供養恭敬されることに著し、ただ邪法に眼を向けて善知識から遠ざかり離れて、謗法の者で小乗の法に執着するような衆生に親しみ近づいて大乗を信じない。ゆえに諸仏の法を誹謗するのである。智者は、怨をなす敵人や、蛇、火の毒、雷神、雷、刀や杖、諸の悪獣、虎、狼、師子等を畏れるべきではない。それらはただ命を断つのみで、人を畏るべき阿鼻地獄に入れることはできない。畏るべきは深遠な妙法を謗ることと謗法の友人である。かならず人を畏るべき阿鼻地獄に入れる。仏道修行を妨げる者に近づき、悪心をいだいて、仏の血を出だし、父母を殺害し、諸の聖人の命を断ち、和合の教団を破壊し、諸の善根を断つとしても、一念を正法につなげ置くことによって、よくあの阿鼻地獄を脱れ悟りを得るであろう。またもし、他の人がいて甚深の正法を誹謗するならば、その人は量り知れないほどの長遠の時を経ても苦を脱れ悟りを得ることはできない。もし人が衆生にそのような正法を覚知させ信じさせるならば、彼は父母であり、また善知識である。その人は智者であり、如来の滅後に邪見、顚倒を正して正道に入れるがゆえに、三宝に対する清浄の信をもち、悟りを得させる功徳の所作をなす者である」等とある。竜樹菩薩の菩提資糧論には「五逆罪による無間地獄の業を説かれている。(中略)もし未だ理解していない深遠の法に対して、執着を起こして仏説でないというのは○前の五逆による無間地獄等の罪を集めて、この罪に比べると百分の一にも及ばない」とある。
さて賢人は安全な所に居ても危険にそなえ、よこしまで愚かな人は危険な状態にあっても安穏を願う。大火は少しの水をも畏れ、大樹は小鳥にあっても枝を折られる。智人は大乗を誹謗することを恐れるのである。そこで天親菩薩は舌を切ろうといい、馬鳴菩薩は頭を刎ねようと願い、吉蔵大師は身を橋となし、玄奘三蔵は何が正法かをインドの霊地において占い、不空三蔵はその疑いをインドに行って解決し、伝教大師はこれを求めて中国に行った。みな以上にあげた事柄は経論の正義を守護するためであった。
いま日本国の俱舎・成美・律・法相・三論・華厳・天台・真言の八宗と浄土宗・禅宗等の出家在家の男女は、上は天皇・上皇から下は臣下・万民にいたるまで一人も漏れなく弘法・慈覚・智証の三大師の末孫であり、檀家である。慈覚大師円仁は「華厳等の経は如来の秘密の教えを説き尽くしていないがゆえに真言教とことなるのである」といっている。智証大師円珍は「華厳経や法華経を大日経に対すれば、それらは無益な経論である」といっている。弘法大師空海は「法華や華厳等は後の真言に対すれば無益な経論である」等といっている。この三大師の意は、法華経は已説・今説・当説の諸経の中の第一であるけれども、大日経に相対すれば無益な経論である、ということである。この義を心ある人は信ずべきであろうか。
いま日本国の諸人が悪象・悪馬・悪牛・悪犬・毒蛇・悪刺・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舎・悪妻・悪子・悪所従等よりも百千万億倍超えて恐るべきものは、戒を持つ邪見の高僧等である。
質問していう。上に挙げた三大師の義を謗法と疑うのか。比叡山第二代座主の寂光大師円澄・別当の光定大師・大楽・大師安慧・慧亮和尚・安然和上・浄観僧都・檀那僧正・慧心先徳等の数百人、弘法の弟子の実慧・真済・真雅等の数百人、ならびに八宗・十宗等の大師や先徳は、日と日と、月と月と、星と星とが並んで出でたような方々である。すでに四百余年を経過しているのに、これらの人々は一人としてこの義を疑っていない。あなたはどのような智慧をもって、これを疑難するのか、と。
これらの主旨からこれを考えるに、わが一門の者は夜は眠りを断ち、昼は暇なくこのことを思案しなさい。一生を空しく過ごして、万歳に悔いることがあってはならない。恐恐謹言。
八月二十三日 日 蓮 花 押
富 木 殿
銭を一結受け取りました。志ある人々は一所に集まってお聞きなさい。