当体義抄
文永10年(ʼ73) 52歳 最蓮房
問う、妙法蓮華経とは、その実体は、どのようなものであろうか。答う、十界の依報と正報とのすべてが、妙法蓮華経の当体なのである。 問う、もしそうであるならば、われわれのような一切衆生も妙法の全体であるといえるのであろうか。 答う、もちろん、そうである。その証文としては、方便品第二に「所謂諸法・乃至・本末究竟して等しい」とあるとおりである。この文を、妙楽大師は金錍論で次のように解釈している。「実相(不可説なる実智の境であり、万法の理を指す。真実の姿、森羅万象の本質ということ)とは、すなわち諸法(一切の法を指し示した言葉。大宇宙における一切の現象、活動、法則のこと)である。あらゆる現象は十如という因果の理にかなった生命活動である。この十如の生命活動も十界の範疇での活動である。それでいて、その生命体の正報と国土世間の依報が一体不二をなしている」と。天台大師は法華玄義に「生命の完全な本質を明かした十如・十界・三千の諸法は、法華経に説き明かされた法理の本体なのである」と説いている。南岳大師は安楽行義において「いったい、いかなるものを妙法蓮華経というのであるか。それは、妙とは衆生の生命の本質が妙であるが故に、法とは衆生の存在そのものが法であるが故に、衆生が妙法の当体なのである」と述べている。さらにこれを天台が釈して「衆生は法にして、しかもその本質は妙である」と法華玄義でいっている。
問う、一切衆生の当体が、そのまま妙法の全体であるならば、地獄界から菩薩界までの九界の業因業果も、すべて妙法の当体なのであろうか。 答う、諸法の本性の不思議な理として、生命の一念には「染浄の二法」がある。染法が働くならば迷いとなり、浄法が働けば悟りとなる。この悟りが、すなわち仏界であり、迷いは、衆生すなわち九界となるのである。この迷悟の二法は二ではあるけれども、しかもその根底においては共通した法性真如の一理なのである。譬えていうならば、水精の玉は太陽に向ければ(レンズの作用で)火を取り、月に向かってみれば(冷気のため凝結作用によって)水を取る。このように玉は一つであるが、縁によってその効能が異なるのと同じことである。 十界に具わった真如の妙理も、また、このようなものである。法性の理は、ただ一つの妙なる真如の理ではあるけれども、悪縁にあえば迷いとなり、善縁にあえば悟りとなる。その悟りはすなわち法性であり、迷いはすなわち無明である。譬えば、夢の中で、善悪の業についていろいろな夢を見る。しかし、その夢がさめてから、これを思い返してみれば、全部、自分自身の一心の作用であるようなものである。このように各人に本質的に実在している一心こそ法性真如の理であり、夢の善悪は迷いの無明と悟りの法性である。このようにわきまえたならば、悪であり迷いである無明を捨てて、善であり悟りである法性にもとづいて、生活をしていくべきことは当然である。 大円覚修多羅了義経には「一切諸々の衆生の無始以来の幻(迷い)・無明は、すべて諸々の衆生の本質である本覚の法身如来の円覚の心から作り出したものである」といっている。また、天台大師は摩訶止観の巻五に「無明の癡惑(ちわく)は、本来それ自身が法性と一体なのである。しかし、癡の本質上、その働きによる迷いのために法性が変じて、無明となるのである」と述べている。また、妙楽大師の法華玄義釈籖の巻一には「理性といっても別に存在するのではなく、すべて無明の働きによるのである。また無明といっても、無明に別の本体があって実在するのではなく、すべて法性の中に存在するものなのである」と説いている。無明は断じ尽くすべき迷いであり、法性は証得すべき仏法上の道理であって、まったく異なるものである。それなのに、どうして無明と法性とが体一なのであるかという疑問は、以上の数々の経釈の文義によって正しく理解すべきである。大智度論の巻九十五に説かれた夢の譬えや、天台大師の玉の譬えは、共に無明・法性一体であることをよく説明してあり、まことに興味深く思うものである。 正しく、無明と法性と、その本体が同一であるという証拠は、法華経の方便品第二の「是の法は法位に住して、世間の相は常住なり(是の法は即ち九界の衆生である。法位とは法性であり仏である。それによって十界の差別はありながら、そのまますべて衆生、仏ともに永遠に常住となるのである)」の文である。大智度論には「明(悟り)と無明とは、その本質においては何の異もなく区別もないのである。このように知ることを中道と名づけるのである」と。 ただ生命の真如の妙理に、染浄の二法が存在するという証文は多いけれども、華厳経の「心と仏と及び衆生とこの三つは、本質上まったく差別がない」という文と、法華経の「諸法実相」の文には、まさるものはない。南岳大師は「心の本体に染法と浄法の二法を具足して、しかも、別に異なった姿はなく、まったく一味平等である」と。また同じく南岳大師の明鏡の譬えは、まことに詳しくこれを説いている。さらに詳しくは大乗止観の釈のとおりである。 また、すぐれた釈文としては、妙楽大師の法華玄義釈籤の六に「一念三千の道理が、ただ衆生の理具としてとどまっているだけであれば、それを無明と名づけ、一念三千が仏果として成就したのであれば、すべてそれを常楽というのである。いずれにしても、一念三千という実相は不変なのであるから、無明即明であり、三千が衆生、仏ともに常住であるがゆえに俱体俱用である」といっている。この解釈によって明瞭であろう。
問う、一切衆生が、皆ことごとく妙法蓮華経の当体であるならば、われわれのように愚癡で道理に闇く、理解も鈍い凡夫も、妙法の当体であるのか。 答う、当世の人々は数多いけれども、全ての人は二種類に収まってしまう。それは、権教を信ずる人と実教を信ずる人である。しかして、権教・方便の念仏等を信ずる人は、妙法蓮華の当体ということはできない。実教の法華経を信ずる人こそ当体蓮華であり、真如の妙体なのである。その文証として涅槃経には次のように説いている。「一切の衆生の中でも、特に大乗教を信ずる故に大乗の衆生と名づけるのである」と。南岳大師の四安楽行義には「大強精進経にいわく、信心によって衆生(九界)も仏(仏界)も同じく共に一つの生命であり、清浄にして妙なること比いなきことを妙法蓮華と称するのである」と。また同じく南岳大師は「法華経を修行する者は、この余念のない信心・修行にあらゆる果徳がそなわる。しかもそれは一時にそなわるのであって、歴劫修行のように次第に得入するのではない。それはあたかも蓮華の華が開くと同時に、一つの華に、多くの果実を一時に具足するようなものである。これを一乗の衆生の義と名づけるのである」と。またいわく「二乗の声聞及び鈍根の菩薩の修行は、方便道の中での歴劫修行である。これに対して利根の菩薩は、正直に方便を捨てて歴劫修行の道を取らない。もしも法華のさとりを証得するならば、一切の果徳がことごとく具足するのである。これを一乗の衆生と名づける」と。 南岳大師のこの釈の中の次第行の三字を、世間一般の学者は別教であると解している。しかし、これは誤りであって、この釈の意は、法華経の因果俱時の完全な教えに相対して、方便道を次第行といっている。故に次第行とは爾前の円、爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経等の一切をいうのである。 その証拠として、法華経の開経である無量義経説法品第二に「次に方等十二部経・大般若経・華厳経を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説した」と説かれている。利根の菩薩は正直に方便を捨てて歴劫修行をしないで、もし法華経を証得するときは、一切の果徳を具足することができる。これを一乗の衆生と名づけるのである。 これらの文の意を考えてみれば、三乗・五乗・七方便・九法界等、四味三教を修行する一切の凡夫・聖人等は、大乗の衆生・妙法蓮華の当体と名づけるべきではないのである。たとえ仏であっても、権教の仏に対しては仏界すなわち真実の仏と名づけるべきではない。なぜならば、権教の三身は、永遠の生命を説いていない故に、いまだ無常を免れないからである。まして、その余の九界に対しては、どうして当体蓮華と名づけられようか。 ゆえに正・像二千年間の国王・大臣よりも、末法に生まれた非人のほうが尊貴であると釈しているのもこの意なのである。 南岳大師は安楽行義に「一切の衆生は法身の蔵を具足しているので、仏と何ら異なることはない」と述べている。また法華経法師功徳品第十九では「父母所生の清浄の常の眼・耳・鼻・舌・身・意もまた是くのごとし」と説いている。さらに安楽行義に「問うていわく、仏は、いずれの経の中で眼等の諸根を説いて名づけて如来としているのか。答えていわく、大強精進経の中に、信心によって衆生(九界)と如来(仏界)は共に同じ一法身(生命)であって、その清浄妙なること比類がない。それを妙法蓮華経と称するのである」と説いている。 この大強精進経は方便権教の文ではあるが、法華経がすでに説きあらわされているから会入の立ち場から引用することができるのである。この大強精進経の同共の二字に習って相伝するのであるが、法華経(御本尊)に同共(境智冥合する)者は妙法の当体であり、法華経に不同共の、法華不信の念仏者等は、すでに衆生所具の仏性・法身如来に背くゆえに妙経の当体ではない。 所詮、妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮の弟子檀那等の父母所生の肉身そのものをいうのである。正直に方便の教えを捨て、ただ法華経(御本尊)のみを信じ、南無妙法蓮華経と唱え行ずる人は、煩悩・業・苦の三道が、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦がそのまま一心に顕われ、その人の所住の処は、常寂光土となるのである。能居所居・身土・色心・俱体俱用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮の弟子檀那等のなかの正しい信心をする者のことである。これすなわち妙法蓮華経の当体であり、妙法に具わっている自在神力の顕わす功徳なのである。決してこれを疑ってはいけない。これを疑ってはならない。
問う、天台大師は法華玄義で、妙法蓮華を、当体蓮華と譬喩蓮華の二つの立義で説き明かしている。それでは、その当体蓮華と譬喩蓮華とはどのようなものであろうか。 答う、譬喩の蓮華とは、施開廃の三釈に詳しくあるから、これを参考にしなさい。当体蓮華の解釈については、法華玄義巻七に「蓮華は譬えではない。当体そのものの名前である。たとえば住劫の初めには万物に名がなかったが、聖人が道理にのっとって、その理にふさわしい名をつけていったようなものである」と。また法華玄義巻七に「今、蓮華という呼び名は、何かを喩えていったものではない。これこそ法華経の法門を指しているのである。法華の法門は、清浄そのものであり、因果が奥深くすぐれているので、この法華の法門を名づけて蓮華とするのである。すなわちこの蓮華こそが、法華三昧という純一無雑な法華の当体そのものの名前であり、決して譬喩ではないのである」と。またいわく「問う、蓮華というのは、はっきりさせれば、これは法華三昧の蓮華であろうか、草花の蓮華のことだろうか。答う、明らかに、これこそ法華経の当体蓮華のことである。だが法蓮華といっても理解しがたいので、草花を譬えとして使用している。利根のものは蓮華の名前を聞いて、直ちに妙法を理解し、譬喩は必要としないで法華経を悟る。ところが中根・下根の者は、それだけでは悟れず、譬を用いてはじめて知ることができる。そこでわかりやすい草花の蓮華をもちいて難解な当体蓮華の譬えとしたものである。それ故、迹門において、釈尊は三周の説法に妙法の実相を説くとき、上根・中根・下根の機根にしたがって、それぞれの説法を行なった。しかして、この妙法蓮華は、上根の者にとっては当体蓮華であり、中根・下根の者にとっては譬喩蓮華なのである。このように三根合論し、ならべて法説と譬説をあらわしたのである。このように理解すれば、この問題でどうして論争する必要があろうか」と。 この釈の意は、妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人(仏)がその理を勧じて万物に名をつけるとき、因果俱時の不思議な一法があり、これを名づけて妙法蓮華と称したのである。この妙法蓮華の一法に十界三千の一切法を具足して一法も欠けるところがない。よってこの妙法蓮華を修行する者は、仏になる因行と果徳とを同時に得るのである。 聖人は、この法を師として修行し、覚道したことによって、妙因・妙果を俱時に感得した故に、妙覚果満の如来となられたのである。 ゆえに伝教大師は守護国界章の中の巻に「一心の妙法蓮華とは、因華・果台が俱時に増長するものである。仏の三周の説法に、おのおの当体蓮華・譬喩蓮華がある。総じて法華経一経を通じて皆、当体蓮華・譬喩蓮華がある。その中でも別しては、七譬・三平等・十無上の法門があって皆、当体蓮華があるのである。この当体蓮華の理を詮ずる教を名づけて妙法蓮華経というのである」と述べている。また、妙楽大師は法華玄義釈籤の巻一に「すべからく七譬を解釈するときには、蓮華が権実の義を顕わしているのと同じ義をもってしなければならない。何となれば、蓮華はただこれ実の為に権を施し、次にその権を開いて実を顕わすことを譬えたものであり、七譬もことごとく同様であるからである」と説いている。 また住劫の初めに、草花があり、聖人はその理を観察して蓮華と名づけた。この草花は花という因と実である果が一時にそなわっているところが、因果俱時の妙法蓮華に似ている故に、この草花を同じく蓮華と名づけたのである。水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華がこれである。譬喩の蓮華とは、この草花の蓮華を指しているのである。この草花の蓮華によって難解なる妙法蓮華をあらわしているのである。天台大師が法華玄義の巻一に「妙法は解し難いが、譬えを仮りれば理解しやすい」と釈したのはこの意である。
問う、劫初からこれまでの間に、いったい誰人がこの当体蓮華を証得したのであろうか。 答う、教主釈尊が五百塵点劫の当初、すなわち久遠元初に、この妙法の当体蓮華を証得してその後、迹を垂れて世々番々に成道を行ない、能証所証の本理を顕わし給うたのである。 そして今日(在世)、また釈尊は、中天竺摩訶陀国に出世して、この当体蓮華を顕わそうとしたが、いまだ時いたらず、また衆生の機も熟していなかったので、一法の当体蓮華ではあっても、三つの草花に分けて、それを三乗の権法すなわち、仮の教えとして衆生に施し、四十余年の間、擬宜誘引していったのである。この期間中は、衆生の根性が万差であったので、種々の草花の譬えをかりて権教に顕わし示して、ついに妙法蓮華を示されなかった。故に、法華経の開経である無量義経には「我先に道場菩提樹の下で乃至四十余年間真実は顕わさなかった」と示している。そして法華経にいたって、四味三教である方便の権教・小乗等に説かれた種々の譬喩の草花を捨てて、唯一の妙法蓮華を説き、三つの草花の譬喩蓮華を開いて一の妙法蓮華を顕わす際に、四味三教に従っていた権教の人達に、初住の蓮華を授けることから開始して、開近顕遠の蓮華にいたって、二住・三住乃至十住・等覚・妙覚の極果を得たのである。 問う、法華経では、どの品の、どの文に正しく当体・譬喩の蓮華を説き分けているのであろうか。 答う、もし三周の声聞に約してこのことを論ずれば、方便品は全部、当体蓮華を説いており、譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説いているのである。ただし、方便品にも譬喩蓮華がないというのではなく、他の品にも当体蓮華が説かれてないというのではない。
問う、もしそうだとすると、正しく当体蓮華を説いた文は何か。 答う、方便品の諸法実相の文がこれである。
問う、どうしてこの文が当体蓮華の文であるということを知り得るのであるか。 答う、天台・妙楽が、今の諸法実相の文を引いて法華経の法体を解釈しているからである。また、伝教大師が釈して「問う法華経は何をもって法体とするのであるか。答う諸法実相をもって体とするのである」といっている。この釈で明白である。 また現証は宝塔品の釈迦・多宝・分身の三仏がこれである。あるいは湧出品の地涌の菩薩、提婆品の竜女の即身成仏がこれである。地涌の菩薩を現証とすることは、涌出品第十五に「世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」という故である。これは菩薩の当体蓮華であると説かれているのである。竜女を現証とする理由は、提婆品の中に霊鷲山に詣でて、千葉の蓮華で車輪のように大きな蓮華に坐し、と説かれている故である。また観音菩薩の三十三身、妙音菩薩の三十四身がその現証である。これを妙楽は止観輔行伝弘決に「法華三昧の不思議自在の業を証得しなかったならば、どうしてよくこの三十三身を現ずることができようか」と説いている。あるいは方便品第二に「世間の相常住なり」と。以上の諸文は皆当世の学者の勘(かんが)えた文証である。しかしながら日蓮は方便品の十如実相の文と、神力品の如来一切所有之法等の四句の要法の文とを当体蓮華の正しき証文とするのである。この神力品の文を天台大師も引いて法華経の五重玄を釈している。故にこの神力品の一文はことさらに正しき当体蓮華の証文である。
問う、次上に引いた数々の文証・現証は、殊に勝れている。それなのに、どうしてあなたは神力品の一文に執着するのであるか。 答う、この一文には、深い意味がある故に当体蓮華の文として最もふさわしいのである。
問う、その深意とは何か。 答う、この文は、釈尊が、本眷属である地涌の上行菩薩に結要の付属五字の当体を付嘱するとお説きになられた文だからである。久遠実成の釈迦如来は「わが昔の所願は今はすでに満足した。一切衆生を化導して全部仏道に入らしめた」といわれて、その願いである出世の本懐をすでに満足し、ついで「如来滅後・後五百歳の中において広宣流布させよう」という結要付嘱を説かんがために、地涌の菩薩を召し出し、本門の当体蓮華を要をもって付嘱した文である故に、釈尊の出世の本懐であり、道場所得の秘法であり、われらが現当二世の願いである成仏を成就する当体蓮華の誠証はこの文なのである。 故に末法今時において、如来の使い(日蓮大聖人)以外に、この当体蓮華の証文を知って取り出す人は絶対にありえないのである。真実もって秘文であり、真実もって大事であり、真実もって尊いのである。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。爾前の円の菩薩等が法華経の座に連なり、八万の大衆となって具足の道を聞かんと欲すと、仏にお願いしたのは、このことを意味しているのである。 問う、当門流の法門の意は、諸宗の人が来て当体蓮華の証文を問うたときは、法華経のどの文を出していくべきであるのか。 答う、二十八品の始めに妙法蓮華経と題しているが、この文を出すべきである。
問う、何をもって、各々の品の題目が当体蓮華であるということを知ることができるのか。その故は、天台大師が法華経の首題を釈するについて、蓮華とは譬喩をあげているのであるといって譬喩蓮華なりと釈しているではないか。 答う、題目の蓮華は当体・譬喩の両方の蓮華を合説しているのである。天台大師の今の釈は、その譬喩の辺を釈した場合の釈である。玄文(玄義)第一にある本迹の六譬は、この意味なのである。それに対して、玄文第七は、当体蓮華の辺を釈してある。故に天台は、題目の蓮華をもって当体・譬喩の両方を釈している故に失は無いのである。
問う、どうして題目の蓮華が、当体・譬喩の両義を合わせて説き明かしているということを知ることができるのか。南岳大師も妙法蓮華経の五字を解釈する時に「妙とは衆生が妙であるからであり、法とは衆生が法そのものであるからである。蓮華とは、草花の蓮華を借りて、譬えたのである」と安楽行義の中で述べており、このように南岳も天台も共に譬喩蓮華と解釈しているのではないか、この点はどうか。 答う、南岳の解釈も、天台の解釈と同様である。ただ当体・譬喩の両義を合わせ説いたということは、経文上では、明らかではないが、南岳も天台も、すでに天親の法華論と竜樹の大智度論によって当体・譬喩の合説の意を判釈しているのである。 いわゆる天親の法華論には「妙法蓮華とは、二種の義がある。第一は、出水の義である。乃至、蓮華が泥水から水上に出るというのは、諸の声聞が、仏が大衆の中に交わり入って坐し、諸の菩薩たちと同様に蓮華の上に坐って、如来の無上の智慧、清浄の境界を説くのを聞いて、如来の秘密の蔵を証得することに喩えるが故である。二に華開とは、諸の衆生が大乗の中に於いて、その心が忶弱で、信心を生ずることができないので、如来が、自ら、浄妙法身を開示して信心を生ぜしめようとするが故である」と説かれている。この文の諸の菩薩の諸の字は、法華以前の大乗小乗の菩薩が、法華経の会座にきてはじめて、仏の蓮華を証得することができるということが、法華論の文に明らかである。したがって、菩薩が法華以前において、処々で悟りを得たということは方便なのである。天台大師は、この法華論の文を玄義巻七に解釈して、「此の論の意味を解釈すれば、法華論で、仏が衆生に対して浄妙法身を開示して見せしめるというのは、妙因の開発することを指して蓮華とすることなのである。また、仏が大衆の中に入って蓮華の上に坐るというのは、妙報の国土を指して蓮華とすることなのである」といっている。 また、天台大師が、当体・譬喩の両義を合わせ説く状況を詳しく解釈された時、大集経の「我れ今、仏の蓮華を敬い礼拝する」という文と、法華論の今の文とを引証して解釈して、次のようにいっている。「若し大集経によれば、行法(修行)上の因果を蓮華とする。菩薩が蓮華の上に坐していれば、これは因の華である。仏の蓮華を礼拝するならば、すなわちこれは果の華である。若し法華論によれば、依報の国土を蓮華とするのである。また菩薩が、蓮華の法を修行することによって、その果報として蓮華の国土を得るのである。これによって正に知るべきである。依報の国土も正報の自身も、因である菩薩も果である仏も、ことごとくが蓮華の法であることを。したがって、どうして譬えを借りてあらわすことを必要とするのであろうか。しかしながら、鈍根で、法性の蓮華を理解できない者のために、草花の蓮華を挙げて譬えとすることもまた、何の妨げとなろうか」と。 また「もし蓮華でなければ、何によって、完全に、以上述べた法華の諸法を喩えられるであろうか。法と譬えとを並べ論ずるが故に、妙法蓮華と称するのである」と述べている。 次に竜樹菩薩の大論には「蓮華とは法と譬えとを共に並べあげた表現である」といっている。 伝教大師は守護国界章巻中の中に、この天親の法華論と竜樹の大智度論の文を解釈して「法華論の文は、ただ妙法蓮華経と名づけるのに、二種の義があるといっているのであり、ただ華草の蓮華に二種の義があるといっているのではない。およそ、法と喩えとは、互いに良く似ていることが好ましいのである。もし、似ていなかったならば、どうして、他の人々を理解させられようか。この故に大論には法と喩えを並べ挙げあげたのである。一心の妙法蓮華とは、因の華と果の台とが同時に増長するのである。この義は非常に理解しがたい。しかし喩えを仮りれば理解しやすいのである。この理が教をあらわす故に妙法蓮華経と名づけるのである」と。 これらの法華論・大智度論の文や、天台、伝教の解釈によって明らかである。文についてよく見るべきである。包み隠すところは、まったくなく、法譬合説の義は、完全に説き尽くされているのである。およそ法華経の真意は、譬喩即法体・法体即譬喩なのである。故に伝教大師は、法華経を解釈して「法華経には、譬喩が多くあるけれども、大きな喩えは七つである。この七つの喩えは、そのまま法体であり、法体はそのまま、譬喩である。故に譬喩の外に法体はなく、法体の外に譬喩はない。ただし法体とは法性の理体であり、譬喩とはそのまま妙法の事相の体である。事相がそのまま理体であり、理体がそのまま事相である。故に法譬一体というのである。以上の理由によって竜樹・天親や南岳・天台等の解釈には、皆、蓮華を釈する時は法体と譬喩とを並べあげている」等と述べている。このように釈の意が明らかであるから、これ以上重ねて論ずることはしない。
問う、仏の在世においては、いったい誰が当体の蓮華を証得したのであるか。 答う、法華経以前の四味三教の時は、三乗・五乗・七方便・九法界・権を帯びて説かれた爾前の円教の菩薩や、その教主、さらには、法華迹門の教主にいたるまで、総じて本門寿量品の教主を除く外はすべて、本門の当体蓮華の名目をも聞かなかった。まして証得することがどうしてありえようか。 声聞、縁覚、菩薩の三乗の教えを開いて一仏乗をあらわした、迹門における無上菩提の蓮華の法門さえ、四十余年の間にはこれを顕わさなかった。その故に無量義経に「終に無上菩提を成ずることを得ず」と述べて、迹門で説かれた開三顕一の蓮華は、爾前四十余年の間には、これを説かなかったといっている。まして、開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の文底の当体蓮華を、迹化の弥勒菩薩等が、どうしてこれを知り得るわけがあるだろうか。
問う、いかなるわけで爾前の円の菩薩や、迹門の円の菩薩等が、本門の当体蓮華を証得しなかったということを知ることができるのか。 答う、爾前の円の菩薩は、迹門の蓮華を知らず、また迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らなかった。故に天台大師は「爾前権経の補処である大菩薩でも迹化の衆を知らない。同様に、迹化の衆は、本化の衆を知らない」といっている。また伝教大師が註無量義経巻二に「これは直道ではあるが、大直道ではない」あるいは同巻三に「未だ、菩提の大直道を知らない故に」といっているのは、このことをいっているのである。 したがって、爾前迹門の菩薩は、一分だけ断惑証理の義があるとはいっても、それらは本門に相対してみたときは、あくまで当分の断惑であって、一重立ち入った跨節の断惑ではないから、結局未断惑の者といわれるのである。 したがって爾前経においても菩薩が処々に得道したと釈しているけれども、それは、声聞、縁覚の二乗を弾呵するために、一往、菩薩に得道の名を与えたまでである。故に、爾前迹門の大菩薩が、仏の蓮華を悟ることができるのは、本門の時である。すなわち、真実の断惑は、寿量品の一品を聞いた時である。 天台大師が、涌出品の「五十小劫という長い年月を、仏は神通力をもって、諸の大衆に、わずか半日の短時日のようにおもわせた」という経文を解釈して、法華文句の巻九の上に「解者(地涌の菩薩)は、短に即して長、すなわち半日の時日を五十小劫という長い年月と悟ることができる。逆に、惑者(迹化の衆)は、すなわち五十小劫の長年月をわずか半日と見れない」と説いている。 妙楽大師は、この天台の解釈を受けて、法華文句記の巻九で「本化の菩薩は、すでに無明惑を破っている。これを称して解とするのである。迹化の大衆は、いぜんとして、無明を破ることができないので、賢位すなわち十信の位にとどまっている。これを名づけて惑とするのである」と解釈している。 この解釈によって意味は明らかである。すなわち爾前迹門の菩薩は惑者であり、ただ地涌の菩薩のみが解者であるということである。 このように両者の差がはっきりしているにもかかわらず、当世の天台宗の学者の中には、本門と迹門の同異を論ずるときに、本迹の相異はないといって、この文を解釈して、解者の中に迹化の菩薩衆も入っているのだというのは大きな僻見である。経文、そして天台等の解釈の義は明らかである。どうして、そのような邪な考えをすることができようか。 涌出品の文は「地涌の菩薩が五十小劫の長い間、仏を讃めたたえたことを、霊山の迹化の菩薩の衆はわずか半日のように謂った」と説き明かされたのを、天台大師が解者と惑者を出してそれを相対して、「迹化の菩薩衆は惑者であるために半日のように思った。これは、僻見である。地涌の菩薩は解者であるために五十小劫の長時日と見る。これが正しい見解である」と解釈されているのである。妙楽大師は、さらにこの天台大師の解釈をうけて、「無明を破した菩薩は解者であり、未だ無明を破すことのできない菩薩は惑者である」と解釈していることは、文についてまさに明らかである。迹化の菩薩であっても初住以上の位に登った菩薩は、すでに無明を破した菩薩であるなどという学者は、無得道の爾前経を得道できると習ったがためである。 爾前、迹門は当分において、一往、妙覚の位があるけれども、それは、本門寿量品の真実の仏に相対したときには、あくまで惑者で、賢位という位をでない者といわれるのである。権教における法報応の三身が、いまだ無常を免れない理由は、夢の中のできごとと同様な架空の仏だからである。 爾前と迹化の衆とは、まだ本門を聞かないうちは、未断惑の者といわれ、本門に来た時に初めて初住すなわち不退地に住することができたのである。故に妙楽大師は法華玄義釈籤の巻一に「迹を開いて本を顕した時に、皆が初住の位に入るのである」といっている。この意と先に述べた「大衆はいまだに賢位に居る」という解釈とを思い合わせてみなさい。爾前・迹化の衆は惑者であって、未だ無明惑を破っていない仏菩薩であるということは、まさに真実である。 故に、本門の寿量品が説き顕わされた後は、霊山の会座の大衆は、皆ことごとく、当体蓮華を証得したと知ることができるのである。声聞、縁覚の二乗も、不信誹謗の一闡提も、定性の者も、女人や悪人等も、皆、久遠本仏の蓮華を証得したのである。 伝教大師は「一大事の蓮華」を守護国界章の巻下に釈して「法華経の肝心である一大事の因縁は、蓮華の顕わすところである。一とは、中道実相であり、大とは、その中道実相が森羅万象にわたってのものであり、事とは法性すなわち本来そなわったところの事実の姿・振舞いという意である。一究竟事は円の理教と教義と智慧と修行と円の身(法身)・若(般若)・達(解達)の三徳とである。これによって一仏乗、三乗、決定性、不定性、内道の者、外道の者、阿闡提の者、阿顛提の者、皆ことごとく一切智地という仏の位にいたることができる。故に、この一大事によって仏の知見を開かしめ、示し悟らしめて一切の者が成仏したのである」と述べている。 これは在世の女人・一闡提・決定性・二乗等の極悪人が霊鷲山において、当体蓮華を証得したことをいっているのである。
問う、末法今時において、誰人か、当体蓮華を証得したものがあるだろうか。 答う、当今の世相を見る時、正法を誹謗して無間地獄の当体を証得する人は数多いけれども、仏の蓮華を証得した人はまったくいない。その理由は、得道できない権教方便の教えを信じて、法華の当体である真実の蓮華を毀謗するからである。 釈尊は法華経譬喩品第三にこのように説いている。「もし、人がこの法華経を信じないで毀謗するならば、その者は、一切世間の仏の因種を断ってしまうであろう。あるいは、その者は、死んで後、無間地獄に堕ちるであろう」と。 天台大師は「此の法華経は、あまねく、地獄界から天上界までの六道の者の仏種を開くのである。もしも、この経を謗ずるならば、それは六道所具の仏種を断絶することになる」と解釈している。 これをうけて日蓮は、次のようにいいたい。すなわち、この法華経(御本尊)は、ただ六道だけではなく、広く十界の仏種に通ずるのである。もしも、この経(御本尊)を謗ずれば、それは十界の仏種をことごとく断絶することになる。したがって、その者は死んで後、必ず無間地獄に堕ちて、永久にそこから出られる機会は得られないのだと。 しかるに、日蓮の一門は正直に権教方便の邪法・邪師の邪義を捨てて、正直に正法・正師の正義を信ずるが故に当体蓮華を証得して、常寂光の当体の妙理を顕わすことは、本門寿量の教主の金言を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるからである。
問う、南岳大師も、天台大師も、伝教大師も、共に法華経によって一仏乗の円教の法理を弘められたけれども、未だ南無妙法蓮華経とは唱えられなかった。それはどういうわけか。また、もしも、そうであるならば、これらの大師は、まだ真実の当体蓮華を知らないし、また悟ることもできなかったというべきではないか。 答う、南岳大師は観音菩薩の化身であり、天台大師は薬王菩薩の化身であるといわれている。たしかにそうであるが、霊山において本門の寿量品の説法を聞いた時は、この仏の蓮華を証得したけれども、出現した時節が妙法流布の時ではなかったが故に、妙法という名前をかえて、「止観」と名づけて、一念三千、一心三観の法門を修行したのである。ただし、これらの三大師等も、自行のためには、南無妙法蓮華経と唱えることを真実の内証とされたのである。 南岳大師は法華懺法に「南無妙法蓮華経」といい、また天台大師は「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」また「稽首妙法蓮華経」また「帰命妙法蓮華経」といわれている。 伝教大師の最後臨終の十生願の記にも「南無妙法蓮華経」と記され、皆、自行として「南無妙法蓮華経」と唱えられたことがわかる。 問う、たしかに文証は明らかである。では、何故内証の悟りをそのまま弘通されなかったのか。答う、それには二つの理由がある。一には文底の大法弘通の時が来なかった故で、すなわち末法の時でなかったためである。二には迹化の菩薩であって文底の大法を付嘱されなかったためである。 およそ妙法の五字(御本尊)は、末法に流布すべき大白法であって、本化地涌千界の上首たる上行菩薩に付嘱されたのである。それ故、南岳、天台、伝教等は、心の中では、十分知っていたのであるが、末法の導師(日蓮大聖人)に譲られて、弘通しなかったのである。
当体義抄送状
問う、当体の蓮華ということは、理解しがたい。そこで譬喩を仮りて、これを顕わしたというが、その証拠が経文にあるか。 答う、従地涌出品第十五に「本化の菩薩は、世間の法に染まらないこと、あたかも蓮華が泥水の中にありながら、清浄であるのと同じである。しかも、この本化の菩薩は大地から涌出した」と説かれている。これは、まさしく地涌の菩薩が当体蓮華であることを示している。譬喩はおのずと明瞭であろう。これについては後日、改めて書くことにする。 この当体蓮華の法門は、法華経の究極の理であり、釈尊の出世の本懐であって、地涌の大士たる上行菩薩に付嘱したところの末法に弘通すべき法門の肝心である。このことは国主が信心した後に、はじめて申し出すべき秘蔵の法門である。日蓮は、これを最蓮房に一切伝えた。 日 蓮 花 押
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