法蓮抄
建治元年(ʼ75)4月 54歳 曽谷教信
法華経第四の巻法師品第十には「もし悪人があって、不善の心で一劫という長い間、仏の面前で常に仏を罵っても、その罪はまだ軽い。もし人がただの一言でも、在家・出家の法華経を読誦する者を毀るならば、その罪は非常に重い」と説かれている。妙楽大師は「この法華経の功力は高く、教理は勝れているから、このようにいうことができる。余経はこのようにはいえない」と釈している。
この経文の心について述べよう。一劫とは、人の寿命が八万歳であった時から、百年に一歳ずつ短くなり、千年間に十歳短くなる。このように次第に減っていって、人の寿命が十歳になる。この十歳の時は今時の八十歳の翁に当たるのである。また人の寿命が十歳の時から、百年たって十一歳となり、また百年たって十二歳となり、ないし一千年たてば二十歳となるのであり、こうして八万歳となる。この一減一増の期間を一劫というのである。このほかに種々の劫の考え方もあるけれども、今はこの劫によって述べよう。
この一劫の間、身口意の三業によって事が起こって、仏を憎む者が出てくる。例えば提婆達多 のような者である。仏は浄飯王の太子であり、提婆達多は斛飯王の子である。兄弟の子息であるから、仏にとって従兄弟であったが、今も昔も、聖人も凡夫も、人の仲を違えるのは、女人のことから起こるのが第一の怨となるのである。
釈迦如来が悉達太子であられた時、提婆達多も同じ太子であった。耶輸大臣に娘があり、耶輸多羅女といった。全インド第一の美女で、その名は四海に聞こえた天女である。悉達太子と提婆達多は、ともに后にしようとして争ったので、仲が悪くなったのである。後に、悉達太子は出家して仏になられ、提婆達多もまた須陀比丘を師として出家したのである。
仏は二百五十戒を持ち、三千の威儀をととのえられていたから、諸々の天人は渇仰し、四衆は恭敬した。しかし、提婆達多を人が貴ばなかったので、どのようにしたら世間の名誉が仏に過ぎることができるかと考えていたが、思案の末に、仏以上に世間から貴ばれることが五つある。四分律にはこれを「一には糞掃衣、二には常乞食、三には一座食・四には常露座、五には塩及び五味を食べない」と説かれている。仏は人の施す衣を受けられるが、提婆達多は糞掃衣を着た。仏は人の施す食を受けられるが、提婆達多はただ常に乞食を行じた。仏は一日に一、二、三度も食事されるが、提婆達多はただ一度しか食事しない。仏は塚間や樹下でも休まれるが、提婆達多は日中は常に露天に坐った。仏はときには塩または五味を食べられるが、提婆達多は塩などを食べない。このようであったから、世間では提婆達多が仏に勝れていることは雲泥であると考え出したのである。
このようにして、仏の威徳をなくそうと狙っていたところに、頻婆舎羅王は仏の檀那である。一日に五百両の車を、数年の間一度も欠かさずに送って、仏ならびに御弟子等に供養されたのである。提婆達多はこれを妬み取ろうとして、未生怨太子を仲間に引き入れて父の頻婆舎羅王を殺させ、自分は仏を殺そうとして、あるいは石でもって仏を打った。これは身の悪業である。仏は人を誑かし惑わす者であると罵詈したのは口の悪業である。内心から宿世の怨と思ったのは意の悪業である。三業相応の大悪はこれに過ぎたものはない。
この提婆達多ほどの大悪人が、三業相応して一中劫の間、釈迦仏を罵詈し、打杖し、嫉妬した大罪はどのように重いことであろう。この大地は厚さ十六万八千由旬である。ゆえに四大海の水をも、九山の土石をも、三千の草木をも、一切衆生をも戴せているけれども、落ちもしないし、傾かないし、破れることもない。しかしながら、提婆達多の身は五尺の人身であるが、わずかに三逆罪を犯して、大地が破れて地獄に堕ちた。この穴はインドに今もなおあり、玄奘三蔵が中国からインドに修行に行った時、これを見たと西域記という書に記されている。
ところが、末代の法華経の行者を、心に悪く思わず、顔色に出して嫉むこともなく、ただ戯れに罵っただけでも、上に述べた提婆達多のように三業相応して、一中劫の間、仏を罵詈した罪よりも過ぎていると説かれている。
まして今日の人で、提婆達多のように三業相応しての大悪心をもって、多年の間、法華経の行者を罵詈、毀辱、嫉妬、打擲し、讒死、歿死に当てようとした者の罪はいうまでもないことである。
問う。末代の法華経の行者を怨嫉した者はどのような地獄に堕ちるのか。
答う。法華経第二の巻に「法華経を読誦し、書写し、受持している者を見て、軽んじ、賎み、憎み、嫉んで結恨を懐くならば……その人は命終えて後、阿鼻地獄に堕ちるであろう。一劫の間苦しんで、劫が尽きればまた死に、繰り返して無数劫に至るであろう」と説かれている。
この大地の下、五百由旬を過ぎた所に炎魔王宮がある。その炎魔王宮より下、千五百由旬の間に八大地獄並びに百三十六の地獄がある。その中の百二十八の地獄は軽罪の者の住処で、八大地獄は重罪の者の住処である。八大地獄の中の七大地獄は十悪の者の住処であり、第八の無間地獄は五逆罪の者と不孝の者と誹謗正法の者との三人の住処である。今末代の法華経の行者を戯れにも罵詈、誹謗する人々は、無間地獄に堕ちるであろうと説かれた文である。
法華経の第四の巻法師品第十に「人があって仏道を求め、一劫の間法華経を持つ者を賛嘆することは、その福徳は、彼よりもすぐれている」と説かれている。妙楽大師は「もし法華経を持つ者を悩乱する者は、頭が七分に破れ、供養する者は、その福徳は十号の仏を供養するよりもすぐれる」と述べている。
人の中では転輪聖王が第一である。この輪王が出現される時には、前相として大海の中に優曇華という大木が生えて、華が咲き実がなる。
金輪王が出現して、四天下の山海を平らにする。大地は綿のように軟らかく、大海は甘露のように甘く、大山は金山に、草木は七宝となる。
この輪王は須臾の間に四天下を巡る。それゆえ、諸天も守護し、鬼神も来て仕え、竜王も時にしたがって雨を降らす。
劣夫であっても、輪王に従うならば、須臾に四天下を巡ることができる。これはひとえに転輪王が十善を行って感得した大果報である。
毘沙門等の四大天王は、また転輪王には似るべくもない四天下の自在の大王である。帝釈天は忉利天の主であり、第六天の魔王は欲界の頂に住して三界を領している。これは上品の十善戒を持ち、無遮の大善を行って得たものである。
大梵天王は三界の天尊として、色界の頂に住して魔王や帝釈天を従え、三千大千世界を掌握している。有漏の禅定を修行した上に、慈・悲・喜・捨の四無量心を修行した人である。
声聞といって、舎利弗や迦葉等は二百五十戒を持ち、無漏の禅定を修業した上に、苦・空・無常・無我の観念を凝らし、三界の見思惑を断ち尽くし、水火の中でも自在である。ゆえに、大梵天王と帝釈天とを眷属としている。
縁覚は声聞に似るべくもない人である。仏と出世を争う人である。昔、猟師が、飢饉の世に利吒という辟支仏に稗の飯を一盃供養したので、彼の猟師は九十一劫の間、人間界や天上界の長者と生まれた。今生には阿那律という天眼第一の御弟子となった。これを妙楽大師は「稗の飯は少ないけれども、持っているものを出し尽くし、そしてそれを受ける田が勝れていたがゆえに、勝れた果報を得たのである」と釈している。
この釈の心は、稗の飯は少ないけれども、貴い辟支仏を供養したゆえに、このような大果報に度々生まれたのであると書かれたのである。
また、菩薩というのは、文殊や弥勒等である。この大菩薩等は、かの辟支仏には似るべくもない大人である。
仏は四十二品の無明という闇を破り尽くした妙覚の仏である。八月十五夜の満月のようなものである。この菩薩等は、四十一品の無明を断じ尽くして等覚の山の頂に登り、十四夜の月のようなものである。
仏というのは、上の諸人に百千万億倍勝れている大人である。仏には必ず三十二相が具わっている。その相というのは、梵音声、無見頂相、肉髻相、白毫相、ないし千輻輪相等である。この三十二相の中の一つ一つを仏は、百福によって得られたのである。
百福というのは、たとえば大医がいて、日本国、中国、インドの十六の大国、五百の中国、十千の小国、ないしは一閻浮提、四天下、六欲天、ないしは三千大千世界の一切衆生の盲目となっているのを、もとのように一時に開けるような大功徳を一つの福として、この福を百重ねることによって、三十二相の中の一相を得たのである。
それゆえ、この一相の功徳は、三千大千世界の草木の数よりも多く、四天下の雨足よりも過ぎている。たとえ壊劫の時、僧佉陀と申す大風があって、須弥山を色究竟天まで吹き上げて、かえって微塵とする大風があっても、仏の御身の一毛すら動かすことはできない。仏の御胸に大火がある。平等大慧・大智光明・火坑三昧という。涅槃の時、この大火を胸から出して一身を焼かれたところ、六欲天や四大海の天神、竜神等は仏を惜しんで、集まって大雨を降らし、三千大千世界の大地が水に浸り、須弥山が流れるほどになっても、この大火は消えなかった。
仏にはこのような大徳があったゆえに、阿闍世王は十六大国の悪人を集め、一四天下の外道を味方にし、提婆を師として、無量の悪人を遣って、仏弟子を罵り、打ち、殺害するだけでなく、賢王であって失もない父の大王を、一尺の釘でもって七処まで打ちつけて磔にし、生母の玉の簪を切り、刀を頭にあてた重罪が積もって、悪瘡が七処に出たのであった。
三週間を経て、三月の七日に大地が破れて無間地獄に堕ちて、一劫の間苦しまねばならなかったが、仏のみもとに詣でたので、悪瘡が癒えただけでなく、無間地獄の大苦を免れ、四十年の寿命を延ばすことができた。
また耆婆大臣も仏の御使いであったので、炎の中に入って瞻婆長者の子を取り出すことができた。これらのことから思うと、一度でも仏を供養した人は、どのような悪人、女人であっても、成仏得道は疑いないのである。
提婆には三十相が具わり、二相が欠けていた。いわゆる白毫相と千輻輪相である。仏に二相劣っていると弟子等が軽んじるであろうと思って、螢火を集めて眉間につけて白毫といい、千輻輪には、鍛冶に菊の形を作らせて、足に付けて歩くうちに、足が焼けて重傷となり、結局は死ぬところであったので、仏にお話ししたのである。仏が御手をもって撫でられると、苦痛は癒えたのである。
ここで悔い改めるであろうと思ったが、そうではなくて、瞿曇が習った医術は小ざかしいものであり、また魔術であるなどと言ったのである。
このような敵にも仏は怨むこともなかった。まして、仏を一度でも信じた者をどうして見捨てられることがあろうか。
このような仏であるから、木像や画像に写すと、優填大王の木像は歩きだし、摩騰迦の描いた画像は一切経を説かれたのである。
このように貴い教主釈尊を一時二時ではなく、一日二日ではなく、一劫の間掌を合わせ、両眼で仏の御顔を見つめ、頭を垂れ、他事を捨てて、頭についた火を消したいと願うように、渇いて水を思うように、飢えて食を思うように、絶えまなく供養する功徳よりも、戯れに一言でも、継母が継子をほめるように、志がなくても、末代の法華経の行者をほめ、供養する功徳は、かの三業相応の信心によって一劫の間、生身の仏を供養することよりも百千万億倍優れていると説かれている。これを妙楽大師は「福十号に過ぐ」と書かれたのである。
十号というのは、仏の十の御名である。十号の仏を供養するよりも、末代の法華経の行者を供養する功徳は勝れると書かれたのである。これは妙楽大師が、法華経の一切経に勝れている事を二十集めた中のその一つである。
以上、この二つの法門は仏説ではあるけれども、信じられないことである。仏を供養するよりも、凡夫を供養することが勝るなどということが、どうしてあろうか。
しかしながらこれを妄語といおうとすれば、釈迦如来の金言を疑い、多宝仏の証明を軽んじ、十方の諸仏の舌相を破ることになる。
もしそうならば、生きながらに阿鼻地獄に堕ちるであろう。巌石に登って荒馬を走らせるようなものである。心は穏やかではない。
しかしまたこれを信ずるならば、妙覚の仏になることができよう。どのようにして、今度、法華経の信心をとるべきであろうか。
信がなくてこの経を行ずることは、手がなくて宝山に入り、足がなくて千里の道を歩こうとするようなものである。ただし近い現証によって、遠い信を取るべきである。
仏は御歳八十の正月一日に法華経を説き終えられて、「阿難・弥勒・迦葉よ、私がこの世に出たのは法華経を説くためであった。すでに本懐を遂げた今は、この世にあっても詮がない。今から三月の後、二月十五日に涅槃するであろう」と仰せられたのであった。
一切の内外の人々は疑いを起こしたけれども、仏語は空しくないものであるから、ついに二月十五日に御涅槃になった。
それゆえ、仏の金言は真実であったかと少しは信心をとるようになった。
また仏は「我が滅度の後、百年という時に、阿育大王という王が出現して、一閻浮提の三分の一の主となって、八万四千の塔を立てて我が舎利を供養するであろう」と予言されたのであった。
人は疑っていたが、予言のとおりに出現したのであった。このことからして、更に信心をとるようになった。
また「我が滅後四百年という時に、迦弐色迦王という大王が出現して、五百人の阿羅漢を集めて大毘婆沙論を造るであろう」と予言されたが、これまた仏記のとおりになった。これらの現証があって初めて、仏の予言は信じられたのであった。もしまえに述べたところの二つの法門が妄語であるならば、この法華経一経は皆妄語となるであろう。
寿量品に「我は過去五百塵点劫の当初の仏である」と説かれている。
我らは凡夫である。過ぎ去ったことは、生まれてからのことさえなお覚えていない。
まして一生二生前のことはなおさらである。まして五百塵点劫の過去のことを、どうして信ずることができよう。
また舎利弗等に授記して「汝は未来世において、無量無辺不可思議劫を過ぎて、当に成仏するであろう。号を華光如来という」と説かれた。
また摩訶迦葉に授記して「未来世において……最後の身として仏となるであろう。名づけて光明如来という」と説かれた。
これらの経文は、また未来のことであるから、我ら凡夫は信じられるとは思えない。したがって、過去・未来を知ることができない凡夫は、この経を信ずることはむずかしい。また修行しても、何の意味があるであろう。
このことをもって思うには、現在に眼前の証拠を現せる人がこの経を説かれるときは、信じる人もいるであろう。
今、法蓮上人から送られた諷誦文には「慈父の聖霊の第十三年の忌日に当たり、一乗妙法蓮華経五部を読誦した」とある。
さて教主釈尊を大覚世尊と申し上げる。世尊という尊の一字を高という。高という一字はまた孝と訓ずるのである。一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なので、世尊と申し上げるのである。
釈迦如来の御身は金色であって、三十二相を備えている。その三十二相の中の無見頂相というのは、仏は丈六の御身であるけれども、竹杖外道もその御長を計ることができず、梵天もその頂を見ることができないので、無見頂相というのである。これは孝養第一の大人であるので、このような相を備えておられるのである。
孝経というのに二つある。一には外典の孔子という聖人の書に孝経がある。二には内典の今の法華経である。内典、外典の違いはあっても、その意は同じである。
釈尊が塵点劫の間、修行して仏になろうと励まれたことは何のためか、孝養のためである。ところで六道四生の一切衆生は、皆我が父母である。孝養を終えないうちは、仏になられなかったのである。今、法華経というのは、一切衆生を仏にする秘術がある御経である。いわゆる地獄界の一人、餓鬼界の一人、ないし九界の中の一人を仏にすることによって、一切衆生が皆、仏になることができるという道理が顕れたのである。譬えば、竹の節を一つ破れば、他の節もそれにしたがって破れるようなものである。また囲碁という遊びに四丁という事がある。一つの石が死ぬならば、多くの石が死んでしまう。法華経の道理もまたこれと同様である。
金というものは、木草を切る力用を備え、水は一切の火を消す徳がある。法華経もまた一切衆生を仏にする力用がある。
六道四生の衆生に男女がある。この男女は皆我等の先生の父母である。一人でも成仏に漏れるならば、自分も仏になることはできない。
ゆえに、二乗を不知恩の者と定めて、「永く仏には成れない」と説かれたのである。孝養の心が他の人に行き渡らないからである。
仏は法華経を悟られて、六道四生の父母への孝養の功徳を身に備えられている。
彼の諷誦には「慈父が亡くなった日から十三回忌の日まで、釈迦如来の前で自ら自我偈一巻を読誦し奉って聖霊に回向してきました」等とある。
今の日本国の人々は仏法を信じているようにみえるけれども、昔まだ仏法が渡ってきていなかった時は仏ということも法ということも知らなかったのであるが、物部守屋と聖徳太子との合戦の後は信ずる人もおり、また信じない人もいた。
中国も同様であった。笠の摩騰迦が中国に入って後、道士と論争があり、道士が負けたので初めて信ずる人も出てきたけれども、不信の人が多かった。
ところで、烏竜という能書家は字を書くことが上手であったので、人々はこれを用いた。しかしながら、仏経だけはどのように頼んでも書かなかった。最後臨終の時、息子の遺竜を呼んで「おまえは我が家に生まれて芸を受け継いだ。私の孝養のためには仏経を書いてはならない。とくに法華経を書くことのないように。我が本師である老子は天尊である。天に二つの日はない。それなのに彼の経には『唯、我一人のみ』と説いている。けしからぬこと甚だしい。もし遺言をたがえて、書くようなことがあったならば、すぐに悪霊となって命を断つであろう」といって、舌が八つに裂けて頭が七分に割れ、眼耳鼻等の五根から血を吐いて死んでいった。しかしながら、その子は法の善悪をわきまえていなかったので、我が父が謗法のゆえに悪相を現じて阿鼻地獄に堕ちたとも知らず、遺言に従って仏経を書くことはしなかった。ましてや口に誦することはなかった。
こうして時が過ぎるうちに、時の王を司馬氏といった。仏事があった時に経を書写することになり、中国一の能書家を尋ねられた結果、遺竜に決定した。
召して命じられたところ再三にわたって辞退したので、やむをえず他の書家に一部の経を書かせられたが、帝王は気に入られなかった。なおも遺竜を召して「おまえが親の遺言だからといって私が命ずる経を書かないということは理由にならないことであるけれども、一応それは許そう。ただ題目だけは書くように」と再三、命じられた。遺竜はなおも辞退した。
大王は気色ばんだ顔で「天地であっても王の支配するところである。そうであれば、おまえの親はすなわち私の家来ではないか。私事をもって公の事を軽んずることがあってはならない。題目だけは書きなさい。もし、そうしないならば仏事の場であっても、速やかにおまえの頭をはねるであろう」と言ったので、題目だけは書いた。いわゆる〝妙法蓮華経巻第一、……巻第八〟等と。
その夕暮れ、自宅に帰って嘆いて「私は親の遺言に背き、王の命令にしかたなく仏経を書いて不孝の者となってしまった。天の神も地の神もきっと怒り、不孝の者と思っていることであろう」と言って寝た。
夜、夢のなかに大光明が出現した。朝日が照らしているのかと思っていると、天人が一人、庭の上に立たれ、また無数の眷属が連なっていた。この天人の頭上の虚空に六十四の仏がおられた。遺竜が合掌して「いかなる天人でいらっしゃいますか」と問うと、答えて、
「私はおまえの父の烏竜である。仏法を誹謗したために舌は八つに裂け、五根から血を出し、頭は七つに割れて無間地獄に堕ちてしまった。彼の臨終のときの大苦でさえ耐えられるとも思われなかったのに、無間地獄の苦しみは更にその百千億倍である。人間の世界で鈍刀でもって爪をはがされ、鋸でもって頸を切られ、炭火の上を歩かせられ、いばらの中に閉じ込められたりした人の苦しみも、この苦に比べれば物の数ではない。どうにかして我が子に告げ知らせようと思ったけれども、かなわなかった。臨終の時おまえを戒めて、仏経を書くことのないようにと遺言したことの悔しさはいいようのないほどであった。後悔先に立たず、我が身を恨み、舌を責めたけれども、なんの甲斐もなかった。ところが、昨日の朝から法華経の始めの〝妙〟の一字が無間地獄の鼎の上に飛んで来て、変じて金色の釈迦仏となった。この仏は三十二相を具え、顔つきは満月のようであった。大音声を出して『たとえ法界のすべてにわたって善根を断ち切ってしまった諸々の衆生も、ひとたび法華経を聞くならば必ず悟りを成ずるであろう」と説いた。この文字のなかから大雨が降ってきて無間地獄の炎を消し、閻魔王は冠を傾けて敬い、獄卒は杖を投げ捨てて立っており、すべての罪人は何事かとあわてていた。また〝法〟の一字が来て、前と同様であった。また〝蓮〟、また〝華〟、また〝経〟と、このようにして六十四字が飛び来って六十四の仏となった。無間地獄に仏が六十四体おられるので、六十四の日月が天空に出現したようであった。天から甘露を降らして罪人に与えた。『いったい、これらの大善事はどういうことなのでしょう』と罪人らが仏にお尋ねしたところ、六十四の仏が答えていうには『我らの金色の身は栴檀や宝山から出現したものではない。この身は、無間地獄にいる烏竜の子の遺竜が書いた法華経八巻の題目の六十四の文字である。彼の遺竜の手は烏竜が生んだところの体の一分である。遺竜が書いた文字は烏竜が書いたことになるのである』と説いた。それを聞いて無間地獄の罪人らは『我らも娑婆にいたときは子もあり、妻もあり、眷属もいた。どうして弔おうとしないのであろう。また弔っても善根の力用が弱くて来られないのであろうかと嘆いたけれども、効果はなかった。あるいは一日二日、一年二年、半劫一劫と経って、このような善知識に会えて助けられた』といって喜び、ともに眷属となって忉利天に昇ることになり、まずおまえを拝してと思って来たのである」
と語ったので、夢のなかでうれしさが身にあふれた。別れて後、またいつの世にか会おうと思っていた親の姿をも見、仏をも拝することができたのである。
六十四の仏が語っていうには「我らには特別の主はいない。あなたは我らの檀那である。今日からはあなたを親と思って守護しよう。あなたは怠ってはならない。一生の後は必ず来て兜率の内院へ導こう」と約束されたので、遺竜はとりわけ畏まって〝今日以後は外典の文字を書くまい〟と誓った。
彼の世親菩薩が〝小乗経を二度と読誦しない〟と誓い、日蓮が〝弥陀念仏を称えまい〟と誓願したようなものである。
さて、夢が覚めてから、このことを王に申し上げたところ、大王は「この仏事はすでに成就した。このことを願文に書き留めよ」と仰せられたので、そのとおりに行われたのである。かくして、中国、日本は法華経を信ずるようになったのである。この物語は中国の法華伝記にある。
これは書写の功徳である。五種法師のなかでは書写は最も低い功徳である。ましてや、読誦というのは量り知れない功徳があるのである。
今の施主が十三年間、毎朝読誦されてきた自我偈の功徳は、ただ仏と仏のみが能く究められているところのものである。
そもそも、法華経は一代聖教の骨髄である。自我偈は法華経二十八品の魂である。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目としている。自我偈の功徳については勝手にいうべきではない。次の分別功徳品第十七に説かれている。この自我偈を聞いて仏になった人人の数を挙げていうには、小千世界や大千世界の三千大千世界を微塵にした数を挙げている。そのうえ薬王菩薩本事品第二十三以下の六品で得道した者は自我偈の功徳の残りであり、涅槃経四十巻のなかに集まってきた五十二類の衆生にも自我偈の功徳を仏は再び説かれたのである。
したがって、最初の華厳経が説かれた寂滅道場に十方世界の微塵の数ほどの大菩薩や天人等が雲のように集まり、大集経や大品般若経の諸聖も、大日経や金剛頂経等の千二百余尊も、過去世に法華経の自我偈を聴いたことのある人々が信力が弱くして三千塵点劫・五百塵点劫を経たけれども、今度、釈迦仏に会って法華経の功徳が進んだがゆえに、霊鷲山での法華経の説法を待たずに、爾前経を縁として得道したものと思われる。
それゆえ、十方世界の諸仏は自我偈を師として仏に成られたのである。世界の人の父母のようなものである。
いま法華経寿量品を持つ人は諸仏の命を継ぐ人である。自分が得道することのできた経を持つ人を捨てられる仏があろうか。
もし、この人を捨てられるならば仏はかえって自分の身を捨てられることになろう。このことから考えてみると坂上田村麻呂や藤原利仁などのような武将を三千人産んだ女性がいたとして、この女性を敵とする人はこの三千人の将軍を敵に回すことになるであろう。法華経の自我偈を持つ人を敵とする人は、三世の諸仏を敵とすることになるのである。
今の法華経の文字は皆生身の仏である。我らは肉眼なので文字と見るのである。例えば餓鬼は恒河を火と見、人は水と見、天人は甘露と見るのである。水は一つであるけれども、果報にしたがって見方はそれぞれ別である。
この法華経の文字は盲目の者はこれを見ず、肉眼は黒色と見、二乗は虚空と見、菩薩は種種の色と見、仏種が十分に熟している人は仏と見るのである。
それゆえ、経文に「もし能く持つことならば、仏身を持つことになるのである」等とあり、天台大師は「稽首妙法蓮華経一帙・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字の一文字一文字が真の仏であり、真の仏が法を説いて衆生を利するのである」等と書かれている。
このことからあなたが自我偈を読誦してきたことを考えてみると、法蓮法師は毎朝、口から金色の文字を出したのである。この文字の数は五百十字である。一つ一つの文字は変じて太陽となり、太陽は変じて釈迦如来となり、大光明を放って大地を突き通し、三悪道や無間地獄を照らし、また東西南北、上方に向かっては非想非非想処へも昇り、いかなる所であっても過去聖霊のおられる所まで尋ねて行かれて彼の聖霊に語られるであろう。
「私をだれだと思われる。私はあなたの子息の法蓮が毎朝、読誦するところの法華経の自我偈の文字である。この文字はあなたの眼となり、耳となり、足となり、手となるであろう」と懇ろに語られているであろう。
その時、亡き聖霊は「我が子息の法蓮は子ではない、善知識である」といって娑婆世界に向かって拝まれるであろう。これこそ真実の孝養なのである。
さて、法華経を持つということは、経は一つであっても持ち方は時にしたがって色々である。あるいは身体の肉を裂いて師に供養して仏に成る時もあり、また身体を床として師に供養し、また身体を薪とし、またこの経のために杖や木で打たれ、また精進し、また戒を持つ、というようにする時もあり、また、以上のようなことをしても仏に成らない時もあり、時によって一定ではない。
それゆえ、天台大師は「時に適うのみ」と書かれ、章安大師は「取捨宜しきを得て一向にす可からず」等と述べている。
質問していう、いかなる時に身体の肉を供養し、いかなる時に戒を持つべきであろうか。
答えていう、智者というのは、そのような時を知って法華経を弘通するのが最も大事なことなのである。例えば喉の渇いた者には水こそが入り用であり、 弓箭や兵仗は用がない。裸の者は衣を求めるのであり、水は用をなさない。一事をもって万事を察しなさい。大鬼神がいて法華経を弘通するならば身を布施とすべきであり、他の衣食は用をなさない。悪王がいて法華経を滅ぼそうとするときには命をすてても従ってはならない。持戒・精進の大僧等が法華経を弘通するかのようにして滅ぼしているならば、これを知って責めるべきである。
法華経に「私は身命を愛惜しはしない。ただ無上道を惜しむのである」と説かれ、涅槃経に「むしろ身命を失っても、終に王の説いた教えを隠すことがあってはならない」等と説かれ、章安大師は「『寧ろ身命を喪うとも……教を匿さざれ』とは、身は軽く法は重い、身を捨てて法を弘めるべきである、ということである」等と述べている。
ところで、いま日蓮は外見からみれば日本一の悪人である。我が国の六十六か国と二つの島の百千万億の四衆、上下万人に怨まれている。
仏法が日本の国に渡って七百余年の間、いまだこれほどに法華経のために諸人に憎まれた者はいない。インドや中国にもいたとは聞いてない。また、いるであろうとも思えない。それゆえ、世界一の憎まれ者である。
このような者なので、上には幕府の権威を恐れ、下には万民の嘲りを懸念して親類も訪れない。他人はいうまでもない。出世間の恩だけでなく世間の恩を受けた人も諸人の眼を恐れて、人々の口を塞ぐためであろうか、心には思っていないけれども謗るそぶりをしている。
数度、迫害にあい、二度、御勘気をこうむったので、我が身が科を受けただけでなく、行き通う人々のなかにも御勘気をうけたり、領地を取り上げられたり、主君の家から追い出されたり、父母兄弟に捨てられたりしている。それゆえ、ついてきた人もすっかり捨て去ってしまい、今また、ついてくる人もいない。
とくに、この度の御勘気は死罪になるはずであったが、なんと思われたのであろうか、佐渡の国に流された。彼の国へ行く者は死ぬ者が多く、生きているのは稀である。かろうじて行き着いたときには殺人や謀叛の者よりも、もっと重罪の者と思われたのである。
鎌倉を出発してから日々に強敵が加わってくるようであった。いる人はみな念仏を持つ者ばかりである。野を行き山を行くにも、かたわらの草木が風に吹かれてざわめくかすかな音も、敵が我を責めているのではないかと思われた。
ようやく佐渡の国に着いた。北国のことなので冬はとくに風が激しく雪は深い。衣は薄く、食べ物は乏しい。根を移された橘が自然に枳殻となったというのも、身につまされて知ることができた。住まいは尾花や刈萱が生い茂る野原のなかの墓所にある落ち破れた草堂で、屋根は雨が漏り壁は風も防げないような所で、昼夜に耳に聞こえるものは枕に冴える風の音であり、朝に目に映るものはあちらこちらの道を埋めている雪である。現身に餓鬼道を経て、寒地獄に堕ちたかのようであった。
彼の蘇武が十九年の間、胡国に留められて雪を食べ、李陵が岩窟に入って六年間、蓑を着て過ごしたのも我が身の上に感じられた。
今、たまたま御勘気は赦されたが、鎌倉中にも少しの間も身をおき跡を留めることのできる所がなかったので、このような山中の岩間の松の下に身を隠し心を静めているけれども、大地を食物とし草木を着るよりほかには食物もなく衣も絶えてない。このような所にどのような御志で、道をかき分けて訪れられたのであろう。
過去の我が父母の魂があなたの身に入り替わられたのであろうか、また、大覚世尊の御恵みであろうか。涙を押さえがたい。
問うていう、いったい正嘉の大地震や文永の大彗星を見て、自界叛逆の難と他国侵逼の難が我が国に法華経を滅ぼすゆえであると知られた理由は何か。
答えていう、この二つの天変地夭は外典の三千余巻にも載せられていない。三墳、五典、史記等に記されているところの大長星や大地震は一尺二尺か、一丈二丈か、五丈六丈である。未だ一天にわたる大彗星は見当たらない。地震についても、また同様である。内典においてこれを考えてみるに、仏の入滅以後はこのような大瑞は現れていない。
インドで弗沙密多羅王が全インドの仏法を滅ぼし、十六大国の寺塔を焼き払い、僧尼の頭をはねた時もこのような瑞相はなかった。
中国で会昌の武宗が四千六百余所の寺院を廃止し、二十六万五百人の僧尼を還俗させた時も出現しなかった。
我が国で欽明天皇の時代に仏法が渡ってきて物部守屋が仏法に敵対した時にも、清盛法師が七大寺を焼き払い、比叡山の僧等が園城寺を焼き払った時にも出現しなかった大彗星である。
これよりも大事なことが一閻浮提のなかに出現するであろうということをまさに知るべきである、と考えて立正安国論を造って最明寺入道殿に上呈したのである。
彼の状に「この大瑞は他国からこの日本国を滅ぼすとの先兆である。禅宗、念仏宗等が法華経を滅ぼしているからである。彼の法師達の頸を切って鎌倉の由比が浜に捨てないならば、国はまさに滅びるであろう」等と述べた。その後、文永の大彗星の時はまた手に握ったように、はっきりとこれを知った。去る文永八年九月十二日の御勘気の時、再び「私は日本国の棟梁である。私を失うことは国を失うことになるであろう」と、その時は用いないであろうけれども後のためにと思って言っておいたのである。また去年の四月八日に平左衛門尉に対面した時「蒙古国はいつごろ攻め寄せてくるであろうか」と問われたので、答えて「経文は月日を指し示してはいない。ただし天眼の怒りがしきりに現れているので、今年を過ぎることはないであろう」といっておいた。
これらはどうしてわかるのであろう、と人が疑うであろう。私は不肖の身であるけれども、法華経を弘通する行者を王臣や人民が怨むとき法華経の会座において守護しようと誓いをなした地神は怒りをなして身を震い、天神は身から光を出してこの国を威すのである。そして、いかに諌めても用いないので、結局は人の身に入って自界叛逆させ、他国から責めるのである。
問うていう、このことは何か証拠があるのか。
答えていう、金光明最勝王経に「悪人を愛敬し善人を治罰するがゆえに、星宿および風雨はみな時節どおりに行われない」等とある。
そもそも、天地は国の明鏡である。今この国に天災地夭が起こっている。国主に過失があるということを知るべきである。鏡に映っているのであるから、これを言い争うことはできない。国主に小さな禍があるときは天の鏡に小さな災が見えるのである。今の大きな災は国主に大きな禍があるということを知るべきである。
仁王経には「小難は無数であり、中難は二十九、大難は七つある」とあり、この経を一には仁王と名づけ、二には天天地鏡と名づけるのである。この国の国主をこの天地鏡に映して見ると明白である。また、この経文に「聖人が去るときは七難が必ず起こる」等とある。
この国に大聖人がいるということを知るべきである。また、かの聖人を国主が信じていないということを知るべきである。
問うていう、前の代に仏寺を滅失した時は、どうしてこの瑞相がなかったのか。答えていう、瑞相は過失の軽重によって大小がある。この度の瑞相は不思議に思うべきである。一度二度ではない、一編二編ではない、年月がたつにつてますます盛んである。このことから、前の時代の過失よりもまさる過失が国主にあり、国主の身で万民を殺し万臣を殺し父母を殺す過失よりも聖人を怨むことのほうがまさる過失であるということを察しなさい。
今、日本国の王臣と万民には、インドや中国ひいては全世界において仏滅後二千二百二十余年の間いまだかつてなかった大きな過が、一人一人にあるのである。例えば十方世界の五逆罪の者を一か所に集めたようなものである。
この国の一切の僧は皆、提婆達多や瞿伽利の魂を移し持ち、国主は阿闍世王や波瑠璃王の化身であり、一切の臣民は雨行大臣・月称大臣や刹陀・耆利等の悪人を集めて日本国の民としたのである。
昔は二人や三人が逆罪の不孝の者であったから、その人のいる所は大地も破れ裂けて入ってしまったのである。
今はこの国に逆罪の者が充満しているがゆえに、日本国の大地が一時に裂けて無間地獄に陥らない以外は一人や二人のいる所が裂けて陥るようなことはない。例えば老人の一本や二本の白髪は抜いても、非常に年とった時はみな白髪なので何を分けて抜き捨てることができよう。ただ一度に剃り捨てる以外にないようなものである。
問うていう、あなたの趣旨は自身が法華経の行者であるのにこれを用いないがゆえに天変地夭等があるということだが、法華経第八の巻の陀羅尼品第二十六に「法華経を説く者を悩まし乱すならば、頭が破れて七つになる」とあり、第五の巻の安楽行品第十四に「法華経を読む者を、もし人が憎み罵れば口は閉じ塞がってしまう」等とある。どうして何年間も、罵ったり怨んだりしているのに、そのようにならないのか。
答えていう、反問するが、不軽菩薩を謗り罵り打った人は口が閉じ頭が破れたかどうか。
問う、それならば経文に相違するが、どうなのか。
答えていう、法華経を怨む人に二種類ある。一人は過去世に善根があって今世に仏縁を求めて菩提心をおこして仏になる可能性をもっている者は、罵ったり怨んだりすると、口が閉じたり頭が破れたりする。一人は過去世に謗法の人で今世にも謗法を犯し、生まれるたびに無間地獄の業を積む者であり、これは罵っても口が閉じ塞がることはない。譬えていえば牢獄に入って死罪に定まっている者は、牢獄の中でどのような悪事があっても死罪を行うまでで、別の咎はない。赦される予定の者は獄中で悪事があれば、これを戒めるようなものである。
問うていう、このことは最も大事である。詳しく承りたい。
答えていう、涅槃経に説かれており、法華経に説かれている。
日 蓮 花 押
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