聖人知三世事
建治元年(ʼ75) 54歳 富木常忍
聖人というのは委しく過去・現在・未来の三世を知る人をいう。儒家の三皇・五帝や三聖といわれる孔子・老子・顔回等はただ現在のみを知って過去と未来を知らない。外道は過去八万劫、未来八万劫を知るから一分の聖人といえる。小乗教の二乗である声聞、縁覚は過去と未来の因果を知るから外道に勝れた聖人といえよう。さらに小乗の菩薩は三阿僧祇の過去を知り、権大乗の通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴し、同じく別教の菩薩は一つ一つの位のなかにおいてさえ多倶低劫の過去を知る。また法華経の迹門では釈尊が三千塵点劫という長遠の過去を説かれている。これは一代超過の法門である。さらに法華経本門では五百塵点劫という遠々劫の過去を明かし、また未来無数劫の事までも宣べられている。
これらの例証によって考えてみるに、過去と未来を具に知ることこそ聖人の本である。教主釈尊はすでに近くは三月後の入滅を知り、遠くは滅後末法の始めの五百年の法華経の広宣流布を明言されたが、必ず事実となるであろう。もしそうであれば近きをもって遠きを推し量り、現在をもって未来を知ることができるのであり、法華経方便品の「如是相乃至本末究竟等」の文はこのことである。
後の五百歳の末法には誰人を法華経の行者と知るべきか。日蓮は未だ自身の智慧を信じないけれども自界叛逆難と他国侵逼難の二難の的中により、我が智慧を信じないわけにはいかない。これは他人のためではない。また我が弟子達もこのことをよく知って欲しい。日蓮こそまさしくこの末法にあって法華経の行者なのである。不軽菩薩の跡を承継する法華経の行者であるゆえに、軽しめたり毀ったりする人は頭が七分に破れ、信ずる者は福徳を須弥山のように積むのである。
問うて言う。日蓮御房を毀る人がどうして頭が七分に破れないのか、と。
答えて言う。仏を除いて昔の聖人を毀って頭が破れたのはただ一人二人である。今、日蓮を毀ることはその罪が一人二人に限らない。日本国の人々が一同に頭が破れているのである。すなわち正嘉の大地震や、文永の大彗星はだれのために起きたのであろうか。日蓮は一閻浮提第一の聖人である。日本国の上下万民が一同にこの日蓮を軽んじ毀り、刀杖を加え流罪にしているために梵天、帝釈をはじめ日月、四天等がいかりをなし、隣国にいいつけて攻めさせ、これらの謗法を責めているのである。大集経、仁王経、涅槃経、法華経にこのことが説かれている。たとえ、どのような祈禱を行っても、日蓮を用いないならば、日本国は必ず今の壱岐・対馬のようになるであろう。
我が弟子達よ、この言を信じてその時を見なさい。このことは日蓮が貴尊であるのではない。法華経の御力がことに勝れていることによるのである。我が身を挙げれば慢心していると思い、身を下せば法華経をあなどる。松が高ければ松にかかる藤は長く、源が深ければ流れもしたがって長い。なんと幸せなことよ。楽しいことか。穢土にあってこのような喜びを受けるのは、ただ日蓮一人のみである。