阿仏房尼御前御返事

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阿仏房尼御前御返事

建治元年(ʼ75)9月3日 54歳 千日尼

あなたのお手紙には「謗法の浅い深い、軽い重いに応じて罪報はどのようになるのでしょうか」とある。そもそも法華経の本意は、一切衆生が皆成仏できる道を説いた御経である。そうではあるといっても、この経を信ずる者は成仏を遂げ、謗る者は無間大城に堕ちるのである。法華経の譬喩品に「若し人が、信じないでこの経を毀謗すれば、この人は即ち一切世間の仏種を断ずるであろう。乃至その人は命を終えて阿鼻獄に入るであろう」とあるのはこのことである。

謗法の者にも浅深、軽重の異なりがある。法華経を持ち信じていても、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれである。これらの人々はごくわずかばかりの謗法はあっても深重の罪を受けることはない。信ずる心は強く謗法は弱いゆえである。譬えば大水で小火を消すようなものである。

涅槃経にいうには「若し善比丘がいて、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処しなければ、当に知りなさい。是の人は仏法の中の怨である。若し能く駆遣し呵責し挙処するならば、この人は我が弟子であり真実の声聞である」と。この経文にせめられて、日蓮は種々の大難にあうといっても「仏法の中の怨である」の誡めをまぬかれるために、謗法を責めるのである。

ただし、謗法について浅深があるのである。愚かをよそおって責めない時もあろう。真言・天台宗などは法華経誹謗の者であるからきびしく呵責すべきである。しかしながら大智慧の者でなければ日蓮の弘通の法門と彼らの法門とを分別しがたい。したがって、しばらくは彼らの呵責は差し置くことがある。譬えば立正安国論がそうである。

言っても言わなくても重罪はまぬかれがたい。言って罪をまぬかれるのを見ながら聞きながら、そのままにして置いて禁めないことは、眼耳の二徳がたちまちに破れて大無慈悲の振る舞いとなるのである。章安大師のいうには「慈がなくて詐り親しむことは、即ち彼のためには怨の振る舞いである」と。重罪は消滅しがたい。いよいよ他を利益しようとする心を盛んにすることが最も大切である。

軽罪の者を責める時もある。また、責めないでそのままにしておくこともある。自然に直る人もある。謗法を責めて自分も相手も罪をまぬかれて、それからゆるす場合もある。その理由は、一向に謗法に染まってしまうならば、より重い大重罪を受けるからである。章安大師の涅槃経疏の「彼のために悪を除けば、即ち是れは彼のための親である」とあるのは、このことである。

日蓮の弟子檀那の中にも、多くこのような事柄がある。きっと尼御前も聞いておられることであろう。一谷入道は、日蓮の檀那であると内々にはそうなっているけれども、外に対しては念仏者として振る舞っている。後生はどう救いようもない。しかしながら、法華経十巻を渡したのである。

いよいよ信心を励んでいきなさい。仏法の道理を人に語ろうとする者を、男女僧尼が必ず憎むであろう。憎むなら憎むがよい。法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身を任すべきである。如説修行の人とはこういう人をいうのである。法華経の見宝塔品には「恐畏の世に於いて、よくわずかの間でも説く」とある。これは悪世末法の時、三毒強盛の悪人達が集まっている時に、正法をわずかの間でも信じ持つ者を天人が供養するであろうという経文である。

此の度、大願を立て後生を願っていきなさい。少しでも謗法や不信の失があるならば、無間大城に堕ちることは疑いないであろう。譬えば海上を船に乗って行くのに、船は粗悪でなくても、水が入ったならば必ず船は沈み、船中の人々は一時に死ぬのである。また、畷は堅固であっても、蟻の穴があれば必ず最後には湛えた水が溜らないようなものである。したがって、謗法不信の水を取り除き、信心の畷を固めるべきである。

浅い罪であるならばこちらからゆるして功徳を得させるべきである。重い過失であるならば信心を励まして、その重罪を消滅させるべきである。

尼御前のお立場で謗法の罪の浅深・軽重の意味を問われた事は、実に希有な女性であられる。竜女にどうして劣るであろうか。法華経提婆品に「我れ大乗の教を闡いて苦の衆生を度脱せん」と説かれてあるのはこのことである。また「その義趣を問うことは、是れ則ち難しいことである」といって、法華経の義理を問う人はなかなか現れがたいと説かれている。心して、力のあるかぎりは、謗法を責めていきなさい。日蓮の義を助けられることは、実に不思議に感じられてなりません。穴賢穴賢。

九月三日              日 蓮  花 押

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