本尊問答抄
弘安元年(ʼ78)9月 57歳 浄顕房
問うて云う。末代悪世の凡夫は何をもって本尊と定めるべきか。
答えて言う。法華経の題目をもって本尊とすべきである。
問うて云う。その根拠はどの経文、またどの人師の釈に出ているのか。
答えて言う。法華経の巻第四の法師品第十に「薬王よ、いかなる場所においても、この法華経をあるいは説き、あるいは読み、あるいは誦し、あるいは書写し、もしくはこの経巻が存在するところはすべて七宝の塔を建てて、最高に高く、広く荘厳して供養しなさい。そして別に仏舎利を安置する必要はない。なぜなら、この法華経の中に如来の全身がおわしますからである」とある。
涅槃経の第四如来性品には「また次に迦葉よ、諸仏が師とするのはいわゆる法である。この故に、仏は法を敬い供養するのである。法が常住であるから、それを悟った諸仏もまた常住なのである」と説かれている。天台大師の法華三昧懺儀には「道場の中に立派な高座を設け、ただ法華経一部を安置しなさい。また必ずしも仏像や仏舎利、法華経以外の経典を安置してはならない。ただ法華経一部を安置しなさい」と述べられている。
疑つて云う。天台大師の摩訶止観巻第二上に説かれている四種三昧の本尊は阿弥陀仏である。また不空三蔵の訳した観智義軌では釈迦・多宝をもって法華経の本尊としている。それなのに、あなたはどうしてこれらの義と相違する義を立てるのか。
答えて言う。これは、自分勝手に立てた義ではない。前に挙げた経文、並びに天台大師の御釈によってである。ただし、摩訶止観で四種三昧の本尊を阿弥陀仏としているのは、四味三昧のうち常坐三昧・常行三昧・非行非坐三昧の三種の本尊が阿弥陀仏であるということで、これは、文殊問経・般舟三昧経・請観音経等によって立てたものである。これらの経はいずれも爾前の諸経に収まるものであり、未顕真実の経である。半行半坐三昧には方等三昧と法華三昧の二種があり、第一の方等三昧は、大方等陀羅尼経の七仏や八菩薩等を本尊としているが、これは爾前の経によっている。第二の法華三昧は法華経の釈迦・多宝等を講じ奉っているが、前の法華三昧懺儀の意をもって考えると法華経をもって本尊とすべきなのである。
不空三蔵の法華儀軌で説く本尊は、法華経宝塔品の文によっている。これは法華経の教主を本尊としているが、法華経の正意ではない。前に挙げたところの本尊、すなわち法華経の題目が、釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊であり、そこに法華経の行者の正意があるのである。
問うて云う。日本国に十宗ある。いわゆる倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗である。これらの諸宗は、すべて本尊がまちまちである。例えば、いわゆる倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦を本尊とし、法相・三論宗の二宗は勝応身の大釈迦仏を本尊としている。華厳宗は蓮華台上の廬遮那報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏をそれぞれ本尊とし、禅宗にも釈尊を立てている。どうして天台宗のみが法華経を本尊とするのか。
答えて言う。彼ら諸宗が仏をもって本尊としているのに、天台宗が経を本尊とするのは、根拠となる道理があるからである。
問うて云う。その根拠となる道理とは一体何か。
答えて言う。本尊とは勝れたものを用いるべきである。たとえば儒家では三皇五帝をもって本尊としており、そこからいえば仏家においては、釈迦をもって本尊とすべきである。
問うて云う。そうであればなぜあなたは釈迦を本尊としないで法華経の題目を本尊とするのか。
答えて言う。前に挙げた経釈を見なさい。法華経の題目を本尊とするのは、私が勝手に立てた義ではない。釈尊と天台大師とが法華経をもって本尊と定められたのである。末代今の日蓮も仏と天台大師と同じように、法華経をもって本尊とするのである。なぜなら、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目であり、釈迦如来・大日如来をはじめとして、総じて十方の諸仏は法華経より出生されたからである。故に今、能生の法たる法華経をもって本尊とするのである。
問うて云う。法華経が諸仏を出生する法であるという証拠はどこにあるのか。
答えて言う。普賢経には「この大乗経典は諸仏の宝蔵であり、十方三世の諸仏の眼目であり、三世の諸仏を出生させる種である」とある。また同じく普賢経に「この方等経は諸仏の眼であり、諸仏はこの経によって五眼を備えることができたのである。また三種の身は大乗経から生ずる。この大法印は、仏の涅槃という成仏の大海を証明したのであり、この大涅槃海の中から、よく三種の仏の清浄な身を生ずるのである。この三種の身は、人界・天界の衆生が縁して善根を生ずる福田であり、また人天から供養を受ける資格を持つもののなかで最高のものである」と。
これらの経文の意味するところは、仏は所生であり、法華経は能生である。また仏は身であり、法華経は神である。故に、木像・画像の開眼供養は、ただ法華経に限るのである。にもかかわらず、今の真言宗が、木像・画像の二像をもうけて大日仏眼の印と真言とをもって開眼供養を行っているのは最も道理に背いた姿である。
問うて云う。法華経を本尊とするのと大日如来を本尊とするのとは、どちらが勝れているのか。
答えて言う。弘法大師・慈覚大師・智証大師の義の通りであれば、大日如来が勝れて法華経は劣っていることになる。
問うて云う。その義はどのようなものか。
答えて言う。弘法大師の秘蔵宝鑰・十住心論には「第八法華経・第九華厳経・第十大日経」等とある。これは浅い教えから深い教えへと入っていくとしたものである。また慈覚大師の金剛頂経疏・蘇悉地経疏、智証大師の大日経旨帰等には、「大日経第一・法華経第二」などと説かれている。
問うて云う。あなたの考えはどうなのか。
答えて言う。釈迦如来・多宝仏、総じて十方の諸仏の御評定には已今当の一切経の中で法華経が最もすぐれていると説かれている。
問うて云う。今日本国中の天台宗・真言宗などの各宗の僧達、並びに王臣・万民が、日蓮法師ごときが弘法・慈覚・智証大師よりも勝れているのだろうかと非難しているが、この点はどうか。
答えて言う。では逆に質問するが、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏より勝れているというのか。これが第一である。
今日本の国王から民衆に至るまですべて教主釈尊の子である。その釈尊の最後の遺言である涅槃経には「法に依って人に依ってはならない」等と説かれている。日蓮が「法華最第一」と言っているのは法に依っているのである。それにもかかわらず、日蓮法師が三大師等に勝るわけがないと言っている各宗の僧達、王臣・万民更には従者・牛馬等に至るまで、親不孝の子ではないか。これが第二である。
問うて云う。弘法大師は法華経を見なかったのであろうか。
答えて言う。弘法大師も一切経を読んだのである。その中で法華経・華厳経・大日経の浅深・勝劣を判ずるにあたって、法華経を次のように読んだのである。すなわち「文殊師利菩薩よ、この法華経は諸仏如来の秘密の蔵であり、諸経の中において最もその下位に位置している」と。また「薬王菩薩よ、今汝に告げよう、私が説いた所の諸経がある。しかも、この経の中において法華経が第三である」と。
また、慈覚・智証大師は、「諸経の中において法華経は最もその中位に位置している」と、また「法華経は最為第二である」等と読んだのである。
釈迦如来・多宝仏・大日如来・一切の諸仏は法華経を他の一切経と相対して「法華経は最第一である」と説き、また「法華経が諸経の中で最も上位にある」と説いている。所詮、釈迦如来・十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といずれを根本とすべきであろうか。日蓮に事よせて、釈迦如来・十方の諸仏に永く背いて三大師を根本としてよいものであろうか。
問うて云う。弘法大師は讃岐の国の人で勤操僧正の弟子である。三論宗・法相宗等の南都六宗を究められ、去る延暦二十三年五月に桓武天皇の勅宣をこうむって中国へ渡り、順宗皇帝の勅命によって青竜寺に入って、慧果和尚から真言の大法を相承された。慧果和尚は大日如来から数えて真言宗の第七祖に当たる。人は代わっても法門は同じである。譬えば、瓶の水を更に瓶に移すようなものであり、大日如来に始まって金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・慧果・弘法と、瓶は異なっても伝えられた智水は同じ真言である。
弘法大師はその真言を習って、三千里の波涛をわたり日本国に帰られ、平城・嵯峨・淳和の三帝に真言の法を授け奉った。去る弘仁十四年正月十九日に、東寺を建立するよう勅命を賜り、真言の秘法を弘通された。したがって、五畿・七道・六十六箇国・二つの島に至るまでの日本全土において真言の金剛鈴を振り、金剛杵を持って、弘法大師の末流でない人がいるであろうか。
また、慈覚大師は下野の国の人で、広智菩薩の弟子である。大同三年、御歳十五の時に伝教大師の御弟子となって比叡山に登り、十五年の間、南都六宗の教義を習うと共に、天台法華宗・真言宗の二宗を学び伝えた。承和五年に入唐されたのが、中国の会昌天子治世であり、法全・元政・義真・法月・宗叡・志遠等の天台・真言の碩学に会って顕密の二道を習い究められたのである。そのうえ、とりわけ真言の秘教は十年間にわたってその功を尽くされ、慈覚大師は大日如来より数えて九代目に当たる。嘉祥元年に仁明天皇の御師となり、仁寿・斉衡年間に金剛頂経・蘇悉地経の二経の疏を著し、比叡山に総持院を建立して天台宗第三代の座主となられた。天台宗の真言密教はこの時から始まったのである。
また智証大師は讃岐の国の人で、天長四年、御年十四歳にして比叡山に登り、義真和尚の弟子となられた。日本国においては、義真・慈覚・円澄・別当等の諸徳に八宗を習い伝えた。去る仁寿元年に文徳天皇の勅命を賜って中国に渡り、宣宗皇帝の大中年間に法全・良諝和尚等の諸大師に七年間師事して、顕密の二教を習い究められ、去る天安二年に帰朝されて、文徳・清和等の皇帝の御師となられた。
このように三大師は、いずれも現世のため未来のために月のように太陽のように尊い御方として、代々の国主や時代時代の臣民から篤く信仰され、帰依を受けたのである。故に、一般の愚癡の人々は皆ひとえに信ずるばかりである。誠に「法に依つて人に依らざれ」の金言を背かない限りは、仏によらないで弘法等の人に、どうして依らないでいられようか。所詮その点について、どのように弁えたらいいのか。
答えて言う。教主釈尊の御入滅後一千年の間に、インドに仏法の弘まっていった順序は、初めの五百年はまず小乗が、そして後半の五百年は大乗が弘まって、小乗と大乗・権教と実教との間に論諍があったけれども、顕教と密教の区別についてはほとんど明確にされてはいなかった。
像法に入って十五年目という時に、中国に仏法が渡り、当初は儒教・道教と釈尊の教えとの間に諍論が起こったが、その勝劣もはっきりと判定することは困難であった。しかし、仏法が次第に弘まっていくと、小乗と大乗・権教と実教との諍論が起きたのである。
仏法が中国に渡って六百年にして、玄宗皇帝の時代に、善無畏・金剛智・不空の三三蔵がインドから唐に入って真言宗を立ててからは、華厳宗・法華宗等の諸宗はひどく下され、上は天子から下は万民に至るまで真言と法華経とでは雲泥の差があると思ってしまったのである。
その後、徳宗皇帝の時代に妙楽大師という人が出現して真言は法華経にはるかに劣っていると思っておられたけれども、その義を強いてはっきりと立てる事がなかったので法華・真言の勝劣を弁える人がいなかったのである。
日本国には、人王第三十代欽明天皇の御時に、百済の国から仏法がはじめて渡ってきたが、はじめは神道と仏教の諍論が激しく、三十年余り過ぎてしまった。第三十四代推古天皇の時代に入って、聖徳太子がはじめて仏法を弘通された。そして慧観と観勒という二人の上人が百済国より日本に渡来して三論宗を弘め、孝徳天皇の時代に道昭が禅宗を伝えた。文武天皇の時代に新羅国の智鳳が法相宗を伝え、第四十四代元正天皇の時代には善無畏三蔵が大日経を伝えたが、弘まらなかった。聖武天皇の御時には、審祥大徳・朗弁僧正らが華厳宗を伝え、人王四十六代孝謙天皇の時代に唐代の鑒真和尚が律宗と法華経を伝え、律を弘めたが法華経は弘めなかった。
第五十代桓武天皇の代になって、延暦二十三年七月に伝教大師が勅宣を賜り、中国に渡り、妙楽大師の御弟子の道邃・行満に会い奉って法華宗の定と慧を学び、道宣律師から菩薩戒を授けられ、順暁和尚という人からは真言の秘教を習い伝えて日本国に帰ってこられた。
伝教大師は、真言・法華経の勝劣についてはこれら中国の諸師の教えによっては定め難いと思ったので、帰国して自ら大日経と法華経、そしてそれぞれの釈とを引き並べて勝劣を判じられたところ、大日経は法華経に劣っているのみならず、それを釈した大日経の疏は天台大師の意を取ってその法門を自分達の宗に取り入れたものであると見ぬかれた。
その後、弘法大師は真言の経が法華経に劣っていると下されたことを恨みに思われたことであろうか。真言宗を立てようとして法華経は大日経に劣るのみならず華厳経にも劣っているなどと唱えたのである。
残念なことに、もし慈覚・智証が叡山・園城寺にこの邪義を許さなければ、弘法大師の僻見が日本国に弘まることはなかったであろう。しかしかの両大師は、華厳教と法華教との勝劣については弘法の考えをゆるさなかったものの、法華教と真言の勝劣については、一貫して弘法大師の考えに同調したため、思いのほか開祖である伝教大師の大怨敵となってしまったのである。
その後、日本国に碩徳達が出て、それぞれ智慧も優れていたけれども、弘法・慈覚・智証の三大師を超えることはなかったので今に至る四百余年の間は、日本一同に真言は法華経に勝れていると決めこんでしまったのである。
たまたま天台宗を習った人々も真言は法華に及ばないことがわかっていても天台宗の座主や仁和寺の御室等の高貴な人々を恐れて何も言い出すことができなかった。あるいはまた、その勝劣を弁えないために、かろうじて真言と法華経は同等であると言って、真言宗の諸師はそのようなことは思いもよらないことであると一笑にふしたのである。
かくして、日本国中に数十万の寺社があるが、皆真言宗となってしまった。たまたま真言とともに法華宗を並び立ててはいても、真言を主のようにし、法華を家来のようにしている。あるいは真言宗と法華経を兼学した人も心中では、一同に真言になっている。
寺により山によって座主・長吏・検校・別当と住持の名称は違っていても、すべて真言師であるうえ、地位の高い人たちが好むところにはその下の者も皆従うというのが世の常であるから、一人ももれなく真言師となっている。したがって日本においては、ある者は口では法華経最第一と読んでいても、心の中では最第二・最第三と読んでいる。またある者は身口意ともに最第二・第三と読んでいる。
身口意の三業相応して、最第一と読んでいる法華経の行者は、伝教大師以後四百余年の間、一人もいないのである。まして「能持此経」の行者がいるとは思えない。法華経法師品第十に「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」とあるとおり、今の衆生は上一人より下万民に至るまで法華経の大怨敵である。
ところが日蓮は東海道十五箇国のうち第十二番目に当たる安房国長狭郡東条郷の片海の海師の子である。十二歳の時に、同じ東条郷にある清澄寺という山に登って住した。しかし、安房は京都から遠く離れた所であるうえに、寺といっても学ぶべき人がいなかった。そこで、随分と諸国を巡って修学し学問を続けたが、自分は不肖の身であるし、しかも人は教えてくれず、十宗の起源やそれらの勝劣を容易にわきまえがたかった。
そうしたところに、たまたま仏菩薩に祈請し、一切の経論を研究し、十宗の教義と照らし合わせてわかったことは、倶舎宗は浅近な教えであるが、その一分は小乗の経典に相当しているようである。成実宗は大乗の教えと小乗の教えを混合させてしまい、誤りがある。律宗は、もともとは小乗の教えであったが、次第に権大乗の教えとなり、今は皆が大乗の宗派だと思っている。このほかに伝教大師の習い伝えた律宗があるが、これはその律宗とは別である。
法相宗は、初めは権大乗経のなかでも浅く低い法門であったが、次第に増長して、華厳・法華経等の権・実大乗教と肩を並べ、その結句にそれらの諸宗を打ち破ろうとしたのである。これを譬えると、日本の武将である平将門や藤原純友等のように下の身分の者が上の身分の者を破ろうとしたようなものである。三論宗もまた権大乗の空の一分を説いた教えであるが、これも自宗は実大乗だと思っている。華厳宗もまた権大乗の教えであるが、ほかの宗に勝っていることは、摂政・関白のようなものである。ところが、法華経を敵として立てた宗であるから、臣下の身分をもって大王に並ぼうとするようなものである。
浄土宗というのも権大乗の一分であるけれども善導や法然が企みだますことに巧妙で、諸経を誉め上げ、観無量寿経等の三部経を下し、また正法や像法の衆生の機根を上げ、末法時代の衆生の機根を下すことによって、末法の衆生の機根に相応するのは念仏であるとして、機根を中心にして三部経以外の釈尊の一代聖教を排斥し、念仏の一門を立てたのである。これを譬えれば、心がずるがしこくて身分の卑しいものが、身分を持ち上げて、心の愚かなものを敬い、真の賢人を失ってしまうようなものである。禅宗というのは、釈尊一代聖教の外に真実の法があるといっている。これを譬えれば、親を殺して子を用い、主人を殺した所従が、その主人の位につくようなものである。
真言宗というのはまったくの偽りの教えであるが、深くその偽りの根源を隠しているので、考えの浅い人には、それを見破ることは難しく、皆がたぶらかされて年が過ぎてきた。そもそもインドには真言宗という宗派はなかったのであるが、それを有ったといっている。であれば、その証拠を問うべきである。
ともかく、大日経がすでに日本に渡ってきているので、これを法華経と比較して勝劣を考えてみたところ、大日経は法華経より七重下劣っている経であり、その証拠は大日経と法華経を見比べると明らかでるが、ここではその文証を引かない。
ところが、真言宗のある者は、大日経は法華経より三重の優れた主君であるとか、ある者は二重に優れた主君であるといっているが、これはもってのほかの大僻見である。こうした真言の邪義は譬えていえば、劉聡が卑しい身分でありながら愍帝に馬の轡を取らせ、秦の奸臣・超高が民の身でありながら付法に帝位に就いたようなものであり、またインドの大慢婆羅門が釈尊の像を高座の脚として、その上に坐ったようなものである。しかし、真言師の誑惑を中国にも知る人がなく、日本でも不審に思うものはなく、既に四百余年をすぎてしまったのである。
このように仏法の邪正が乱れたために王法も次第に滅びてしまい、遂には、この国は他国に破られて滅びてしまうであろうことを、日蓮はただ一人考え知っているがゆえに、仏法のため王法のため諸経の要文を集めて一巻の書を著して故最明寺入道殿に奉ったのである。立正安国論と名づけたのがそれである。その書に詳しく述べたけれども、愚人は理解しがたいので、所詮、現証を引いて述べることにしよう。
さて八十二代の天皇に隠岐の法王という天皇がおられた。去る承久三年五月十五日に、伊賀太郎判官光末を打ちとられた。鎌倉の北条義時征伐に向けての門出であった。やがて五畿七道の兵士を集め、相模国鎌倉の権太夫・義時を討とうとされたが、逆に義時に敗れてしまわれた。その結果、自身は隠岐の国に流され、太子二人は佐渡の国と阿波の国へ流罪に処せられた。また公卿七人は即座に首をはねられてしまった。
どうして朝廷側は負けてしまったのか。国王の身として民のような義時を討つのは、鷹が雉を捕り、猫の鼠を捕らえるようなものであるはずなのに、この戦いは猫が鼠に食われ鷹が雉に捕らえられたようなものである。
そればかりでなく朝廷側は幕府調伏の祈禱に大変な力を入れたのである。祈禱をしたのは、いわゆる天台の座主・慈円僧正、真言の長者、仁和寺の御室、園城寺の長吏をはじめ、奈良の七大寺・十五大寺・高僧など、みな智慧と戒行とが日月のように備わった人々である。また用いた秘法は弘法・慈覚等の三大師が心中の深密の大法とした十五壇の秘法である。
五月十九日より六月十四日に至るまで、汗を流し脳を砕いて祈禱を行った。最後には仁和寺の御室が紫宸殿において、日本に渡ってきた三度とは行われていない大法を六月八日始めて行ったところ、その月の十四日に関東の軍勢は宇治・勢多川を一気に渡って京都に打ち入り、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を生け捕り、宮中に火を放って、一気に焼き払ってしまった。
そして三上皇を隠岐・阿波・佐渡の三国へ流罪に処し、また七人の公卿の頸を即座に斬った。それのみならず、御室の御所に押し入って、最愛の弟子であった勢多伽という童子を責め出し、ついにはその頸を切ってしまった。こうして勢多伽の母も勢多伽も死んでしまい、この祈禱を頼りにしていた人は幾千万と数知れないが、すべて死んでしまった。たまたま生き残った人々も、生き伸びた甲斐がないほどであった。御室が祈禱を始めた六月八日より、朝廷が敗れた同じ十四日までを数えると、七日間であった。
この十五壇の秘法というのは、一字金輪法・四天王法・不動明王法・大威徳法・転法輪法・如意輪法・愛染王法・仏眼法・六字法・金剛童子法・尊星王法・太元法・守護経法等の大法である。この秘法の目的は、国敵・王敵となる者を調伏して命を召し取り、その魂を大日如来の住する密厳浄土へ遣わすというものである。しかもこの秘法を行った人々はいずれもその地位が低くなく、天台座主の慈円・東寺・御室・三井の常住院の僧正などの四十一人、ならびに伴僧等三百余人である。
その法といい、行者といい、また時代も天皇・上皇の権威が失われていない時代であったのに、どうして朝廷方は破れてしまったのか。たとえ勝まではいかなくても、あっけなく負けてしまい、このような恥辱に遭うとはいかなる理由によるのか、このことは日蓮以外の人々は誰も知らないのである。
国主として臣下を討つことは鷹が小鳥を捕るようなものであり、たとえ負けるにしても一年・二年・十年・二十年と持ちこたえるところを、五月十五日に戦いが始まって六月十四日には負けてしまい、その間わずか三十余日である。権大夫義時はこのことを前もって知らなかったので、祈禱もせず、その準備もしなかったのである。
しかしながら、日蓮が少々の智恵をもって考えてみると、朝廷側が敗れたのには理由がある。いわゆる真言の邪法に依るのである。
道理に合わない誤ったことは、たとえ一人が行ったとしても万国の災いとなり、ただ一人行じたとしても、一国や二国は滅びるのである。まして三百人あまりの僧が国主とともに、法華経の大怨敵となってしまったのだから、どうして国が滅びないことがあろうか。
このような大悪法が、年月を経て次第に関東に下つて、真言の僧が諸堂の別当や供僧となって、次々と邪法を行じているのである。関東の武士はもともと辺域の武士であるから、教法の邪正をも知らず、ただ三宝を崇めるべきだと思って自然に真言を用いるようになった。
こうして年月を経て、今や他国から攻められて、この国はすでに滅びようとしているのである。関東八箇国のみならず、比叡山・東寺・園城寺・七寺等の座主・別当も皆、関東の鎌倉幕府の用いるところとなったので、北条家もかっての隠岐の法皇のように大悪法の檀那となってしまったのである。
国主となることは、国の大小にかかわらず、皆梵王・帝釈・日月・四天王の御計らいによるものである。これらの諸天は、国主が法華経の怨敵となってしまった時には、直ちに罰を加えると誓っている。したがって、第八十一代の安徳天皇を平清盛の一門が奉じ、兵衛佐源頼朝を調伏するために比叡山を氏寺とし、日吉神社を氏神として信仰し、その力をたのみにしたけれども、安徳天皇は西海に沈み、明雲は木曾義仲に殺され、平家の一門は皆一時に滅びてしまった。このように真言の邪法によって身を滅ぼした承久の乱は二度目の例であり、今度はその三度目に当たる。
日蓮の諌めを用いず、真言の悪法をもって大蒙古を調伏しようとすれば、かえって日本国が調伏されてしまうであろう。法華経観世音菩薩普門品第二十五に「還著於本人」と説かれているのがそれである。そこから、真言の邪法による罰の現証をもって利生について考えてみると、成仏する大道は法華経に勝るものはない。現世の祈禱の証拠としては、兵衛佐殿が法華経を読誦して得た利益が、その現証である。
この道理を知ることができたのは、父母と師匠との御恩であるが、父母はすでに死んでしまわれた。
故道善御房は師匠であったけれども、法華経故の地頭・東条景信に恐れをいだいて、大聖人のことを心中では気にかけておられたようだが、表面上はかたきのように憎んでいた。後に法華経を少し信じられたように聞いたけれども、臨終の時はどうであったろうか心配である。よもや地獄に堕ちたと思えないが、かといって生死の苦しみから離れたとも思われず、中有に漂っておられるかと思うと気の毒に思う。
あなたは東条景信が襲ってきた時、義城房と共に、私を案内して清澄寺から逃がしてくれた人であるから、何か特別なことをしなくてもこれを法華経の御奉公だと確信して生死の苦しみから逃れるようにしなさい。
この御本損は、釈尊が法華経の中に説き置かれて後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内にいまだ弘めた人はいない。中国の天台大師や日本の伝教大師はほぼ知っていたけれども、少しも弘めることはなかった。末法の今こそ弘まる時にあたっている。法華経には上行菩薩・無辺行菩薩等の地涌の菩薩が出現して弘めると説かれているが、いまだに現われてはおられない。
日蓮はその人ではないが、ほぼ心得たので地涌の菩薩が出現されるまでの間、思い浮かぶままにあらあらの所を説いて、法華経法師品第十の「況滅度後」の大難に遭ったのである。願わくはこの功徳をもって、父母と師匠と一切衆生に回向しようと祈っているのである。以上のことをお知らせしたいと思い、あなたの不審について書き送るのであるから、これからは、他事を捨ててこの御本尊の御前でひたすら後世を祈っていきなさい。また後に改めて申しあげようと思っていますが、他の方々にもあなた達からよろしくお伝えください。
日蓮花押。