種々の御書の現代語訳

宗教

西山殿御返事(雪漆御書)

青鳧五貫文をいただきました。

雪はきわめて白いものであるから染めようにも染めることができません。漆はきわめて黒いものであるから白くなることはありません。

雪や漆とちがって移り易いものは人の心です。善にも、また悪にも染められるのです。

真言宗・禅宗・念仏宗等の邪悪の者に染められてしまうならば必ず地獄に堕ち、反対に法華経に染められるならば必ず仏になることができます。法華経の方便品第二には「諸法実相」と説かれ、また譬喩品第三には「若し人信ぜずして、この経を毀謗せば(中略)其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と説かれています。

心して法華経の御信心を白い雪、黒い漆のなにものにも染められないように堅固に持たれるがよいでしょう。恐恐。

建治二年丙子            日 蓮  花 押

西山殿御返事

 

松野殿御消息(宝海梵志の事)

むかし、釈迦が過去世において因位の修行をしていたときのことですが、珊提嵐国という国がありました。その国に大王がおり、名を無諍念王といいました。その王に千人の王子がいました。また、王の第一の大臣を宝海梵志といい、その梵志に子がいて、名を法蔵といいました。

ところで、無諍念王の千人の太子はみな、この娑婆世界を穢土といって嫌って捨て去り、浄土を求めたのです。そのわけは、この娑婆世界はどんなところであるかといえば、十方の国土で、父母を殺し、正法を誹謗し、聖人を殺した者が、それぞれの国々からこの娑婆世界へ追い入れられてきて住むところだからです。たとえば、この日本国の人は、大罪を犯した者が牢獄に入れられているようなものです。それゆえ、自身の力ではおよばないので、千人の太子は憐れみをかけずに、穢土を捨ててしまわれたのです。ところが、宝海梵志一人がこの難事をひきうけて、娑婆世界の人々の導師となられました。宝海梵志の願いにいうには「我は未来世の穢悪土の中において、必ず成仏するであろう。そのときには、十方浄土から追い出された衆生を集めて、必ず、これらの衆生を成仏へと導く」と誓われました。このときの無諍念王とは阿弥陀仏であり、その千人の太子とは今の観音・勢至・普賢・文殊等です。また、宝海梵志というのは、今の釈迦如来です。この娑婆世界のいっさいの衆生は悪心強盛で、十方の諸仏から抜き捨てられたのを、釈迦仏がただ一人だけで、これらの衆生を仏道に導くことを決意し扶けられたのです。このことを法華経譬喩品には「唯我れ一人のみ能く救護を為す」と説かれているのです。

松 野 殿          日 蓮  花 押

 

兵衛志殿女房御書

先日は仏器を御供養なさいましたが、このたびは、この尼御前が登山されるに当たって大事な御馬に乗せて下さったとうかがいました。過分の供養と思います。これは兵衛志殿のお志はいうまでもありませんが、むしろ女房殿のお心づかいであろうかと思います。

昔、儒童菩薩という菩薩は、五茎の蓮華を五百の金銭で買いとり、定光菩薩に七日七夜供養しました。そのとき瞿夷という名の女人がおりました。瞿夷は二茎の蓮華をもって、儒童菩薩をとおして錠光仏に供養していうには「凡夫であるときは生まれるたびに夫婦となりましょう。仏になるときは同時に仏になりましょう」と。この誓いが違うことなく、九十一劫の長い間夫婦となったのです。

その儒童菩薩というのは今の釈迦仏であり、昔の瞿夷は今の耶輸多羅女で、耶輸多羅女は法華経勧持品で具足千万光相如来との記別を受けているのです。

悉多太子が檀特山に入られたときに乗った金泥駒は帝釈天の化身であり、摩騰迦・竺法蘭が釈尊の経文を漢土に伝えたときは、十羅刹女が化して白馬となったのです。今、この馬も法華経(御本尊)への道を来たのですから、あなたが上品の百二十の長寿を生きたのちに、霊山浄土へいかれるとき、お乗りになる馬となることでありましょう。恐恐謹言。

建治三年丁丑三月二日    日 蓮 花 押

兵衛志殿女房

 

六郎次郎殿御返事

白米三斗と油一筒を受け取りました。今にはじまったのではない御志、申し述べがたく存じます。日蓮が悦こんでいるだけでなく、釈迦仏もきっと御悦びでありましょう。法華経見宝塔品第十一に「我は歓喜する。諸仏もまた同様である」とあるのはこれです。

明日、三位房を派遣する予定です。その時に委しく言いましょう。恐恐。

建治三年丁丑三月十九日               日蓮 花 押

六郎次郎殿

次郎兵衛殿

 

乗明聖人御返事(金珠女の事)

相模の国の鎌倉から銭二結を甲斐の国・身延の嶺まで送り遣わされました。

昔、金珠女は黄金の銭一文を木像の金箔にした功徳によって、九十一劫の長い間、金色の身となりました。その夫の鍛金師は今の迦葉・未来の光明如来です。

今の乗明法師妙日と妻は銅銭二千枚を法華経に供養しました。かの金珠女は仏への供養であり、この夫妻は法華経への供養です。経は師であり、仏は弟子です。涅槃経には「諸仏が師とするのは法である。それ故に諸仏は経を敬い尊んで供養する」と、法華経の第七の巻には「もしまた人が七つの宝を三千大千世界に満たさせ、仏と大菩薩・辟支仏・阿羅漢を供養しても、この人の得る功徳は、この法華経の一四句偈を受持することによって得る福徳の多いのに及ばない」とあります。

そのように、法華経より劣った仏を供養しても、なお九十一劫の長い間、金色の身になったのですから、すぐれた法華経を供養した施主が一生の間に仏の境界に入らないことがありましょうか。

 

阿仏房御返事

お手紙の旨をくわしく承りました。大覚世尊は「生老病死.生住異滅」等と説かれています。日蓮も既に生を受けて六十歳になります。老いていることもまた疑いない。ただ残るところは病と死の二句のみです。

ところが正月から今月、六月一日にいたるまで、ずっとこの病が癒えることがありません。死ぬことも疑いないといえよましょう。涅槃経には「生滅滅已・寂滅為楽」とあります。今は三毒におおわれた凡身を捨棄して、後生には金剛不壊の仏身を受けるのであるから、どうして嘆くことがありましょうか。

弘安元年丁丑六月三日                日蓮 花 押

阿仏房

 

下山御消息

「例時においては何よりも阿弥陀経を読誦すべきではないか」との仰せでございましたが、このことにつきましては、それ以前から父の代官としましても、私と致しましてもこの四・五年の間は怠ることなく、例時には阿弥陀経を読誦してまいりましたが、去年の春の末、夏の始めから阿弥陀経を止めて、もっぱら法華経のうちの如来寿量品の自我偈を読誦しております。また同じことから、法華経一部のすべてを読誦しようと努力しております。これもまたひとえに現当二世の御祈禱のためであります。但し阿弥陀経及び念仏を止めてしまったことにつきましては、つぎのような経緯がございます。

近頃日本国で評判になっております日蓮聖人が去る文永十一年の夏の頃、同じ甲州の飯野御牧のうち波木井郷にある身延の嶺という深山に御隠居されたのでございますが、しかるべき人々が聖人の御法門をお聞きになりたいと申しましても許されず中には入れません。それでよほどの縁がなければ聴聞は叶わないとおもっておりましたところ、ある人が聖人にお目にかかるということでしたので、信仰しようという考えで参ったわけではありませんでしたが、ただ様子を見てみようと人目につかないところから忍んで参りまして、庵室の後ろに隠れ、聖人が人々の疑問について、あらあら御法門を説かれるのをうかがっておりました。

まず法華経と大日経・華厳経・般若経・深密経・楞伽経・阿弥陀経などの経経との勝劣・浅深等などから説きになったのを承っておりましたところ、その内容はおおよそ次のようでありました。

法華経と阿弥陀経などの勝劣は一重二重の差にとどまるのではなく天地雲泥の差であり、それは譬えてみれば、帝釈天と猿、鳳凰とカササギ、大山と微塵、日月とホタル火の差に匹敵するほどの高下勝劣である。それらの経文と法華経とを引き合わせてくらべられれば、愚者にもはっきり分かるほど、その勝劣は明々白々である。従って法華経と他経との差が天地雲泥であるというこの法門は、大体は人も既に知っていることであり、改めて驚くべきことでもない。

また仏法を修行する方法については、必ず経典の大小・権実・顕密を分弁すべきで、そのうえによくよく時を知り、機根を考えて説くべきものである。

それなのに今の日本国はすべての人が阿弥陀経や弥陀の名号などを根本として法華経をおろそかにしている。世間から智者として仰がるる人々は、自分こそは時と機根を熟知していると思っておられるようであるけれども、実際には小善をもって大善を打ち、権経を以て実経をそこなわしめているので、小善はかえって大悪となり、薬は変じて毒となり、親族がかえって怨敵となるように、救いがたい状況となってしまっている。

また仏法についてわかっているように見える人であっても、仏法をどのように実践すべきかは時・機・国・先後の弘通によるべきことを弁えなければ、身心を苦しめて修行しても効果はないのである。たとえ専ら小乗経を流布する国に大乗経を弘通することはあっても、大乗経のみを弘めるべき国に小乗経を弘めるならば国に災いが起こり、人も悪道を免れないであろう。

また、初心の人には小乗経と大乗経の二法を並行して修行させることは許されない。月氏の習慣として専ら小乗のみを修行する寺の僧は王路を行かず、専ら大乗の身を修行する寺の僧は逆に左右の両端の路を踏むことはない。井戸の水や河の水を両者が一緒に飲むことはない。まして一つの房に住むことはありえない。

この故に、一向大乗の寺で修行する人に対して、仏は法華経で「ただ大乗経典を受持することを願って、他の経典の一偈たりとも受けてはならない」と説かれ、また「声聞を小乗の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親しみ近づいてはならない」、また 「問いたずねてもならない」と言われているのである。たとえ父親であっても一向小乗の寺に住む比丘・比丘尼を一向大乗の寺に住む子息は礼拝しないし親しみ近づくこともない。まして小乗経の法を修行したりすることがあろうか。大小兼行の寺は後心の菩薩のためである。

さて今の日本国についていえば、最初に仏法が伝来した頃は、大小雑行の状態であった。人王四十五代聖武天皇の御世に、唐の揚州竜興寺の鑑真和尚という人が中国から日本に法華経天台宗を渡されたが、衆生の円教を受け入れる機根が未熟であると思われたのであろうか、この法門については胸中にとどめて口にもだされなかった。かくて唐の終南山の豊徳寺に住した道宣律師の小乗戒を日本の三ヵ所に建立された。これはひとえに法華宗を流布するための方便であって、大乗教出現の後には肩を並べて修行せよということではなかった。

例えば儒家の本師である孔子・老子等の三聖は仏の御使いとして中国に遣わされ、仏教への入門として礼楽の文を人々に教えたようなものである。このことを摩訶止観巻第六には経文を引用して「私は三聖を遣わして彼の中国を教化せしめよう」とあり、妙楽大師は「礼楽が先に広まり、真実の法は後に流布する」と述べているのである。

これと同じように、仏は大乗教への入門としてしばらく小乗戒を説かれたのであるが、時が過ぎて後、小乗の教えを戒めて涅槃経に「もし如来は無常であるという者がいるならば、この者の舌は必ず堕落するであろう」と言われているのである。

その後、人王第五十代桓武天皇の御代に伝教大師といわれる聖人が出現された。初めは華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習い極められただけでなく、達磨宗の奥底をも究められ、そのうえいまだ日本国に弘められていなかった天台法華宗・真言宗の二宗をも探究し顕照して、その浅深勝劣を心中に深く究められた。

去る延暦二十一年正月十九日、桓武天皇は高雄山に行幸された折、南都七大寺の長者であった善議や勤操等の十四人を伝教大師に召し合わせ、六宗と法華宗との勝劣を糾明されたところ、六宗の碩学はそれぞれ我が宗こそは釈尊一代の教えの中で際立って勝れていると申し立てられたが、伝教大師の一言によって、ことごとく破折されてしまった。

その後、桓武天皇は重ねて勅宣を下し和気弘世を使者として糾弾されたので、七大寺・六宗の碩学は一同に謝表を上呈した。十四人の謝表には「この世界の衆生は、今から後はことごとく妙法蓮華経の船に乗ってすみやかに悟りの境地に渡ることができるでありましょう」とある。

伝教大師は後に「小乗の二百五十戒は直ちに捨ててしまった」と宣し、また「正法・像法は終りに近ずき、いよいよ末法が近づいている」、また「法華一乗の家ではいっさい権教を用いない」、更に「穢食を宝器に盛ってはならない」、また「釈尊在世の偉大な阿羅漢でさえすでに呵嘖を受けている。まして滅後の小さな蚊虻のごとき衆生がどうしてこれに従わないでいられようか」と述べている。

これもまた伝教大師が勝手に責めて言っていることではない。法華経方便品第二には「正直に方便の経々を捨てて但無上道を説く」とあり、涅槃経には「邪見の人」と説いている。「邪見」「方便」というのは、「華厳経・大日経・般若経・阿弥陀などの四十余年の爾前の諸経典のことでる。「捨」とは天台大師の言われるには「廃することである」と、また「謗とは正法に背くことである」と。

正直の初心の行者が法華経を修行する方法は、以上に挙げた方便の経典や宗派をなげうって専ら法華経を修行することであり、それが真の正直の行者なのである、しかるに初心の行者が修行の進んだ深位の菩薩と同じ様に爾前の諸経典と法華経とを並行して修行すれば、不正直の者となる。世間の法においても、「賢人は二君に仕えず、貞女は二人の夫に嫁がず」といっているのはこのことである。

また、自分勝手に異議を唱えるべきではない。

如来は未来を見通されて自らの亡き後、正法一千年・像法一千年・末法一万年の間、自らの法門を弘通すべき人々と弘めるべき経を一つ一つ明確に当てられている。これに背く人が世に現れたならば、たとえ智者・賢王であってもその教えを用いなければならないのである。

いわゆる「我が滅後の次の日から正法五百年の間は専ら小乗経のみを弘めるべきであり、その人は迦葉・阿難から富那奢に至る十余人である。その後の五百年には権大乗経の内の華厳経・方等経・深密経・般若経・大日経・観経・阿弥陀経などを弥勒菩薩・文殊師利菩薩・馬鳴菩薩・竜樹菩薩・無著菩薩・天親菩薩等の四依の大菩薩等の大論師が弘通すべきである」と説かれている。

これらの大論師は法華経の深義を知っておられないのではなく、法華経を流布の時もいまだ来ていないのと、釈尊からも命じられていない大法なので、心の中には知っていても口にはだされなかったのである。ある時は概略このことを口に出されるようなことがあっても、仏の真意はひたすら隠して説かれなかったのである。

像法の一千年に入ると、インドの仏法は次第に中国・日本へと伝えられてきた。釈尊は明らかに薬王菩薩等の迹化、及び他方の大菩薩に法華経の半分、迹門の十四品を授けられた。これはまた地涌の大菩薩が末法の初めに出現されて本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせるためのその序にあたる。いわゆる迹門弘通の人とは南岳・天台・妙楽・伝教等の人たちである。

今末法の時代は既に上行菩薩等が出現される時に当たっている。私の愚眼をもって見るにその瑞相は既に現れているようである。

しかるに、諸宗が依りどころとしている華厳経・大日経・阿弥陀経等の諸経は、その流布の時を論ずれば正法一千年の後半五百年かあるいは像法時代の初めの諍論の時のためのものである。しかるに諸宗の人師らは経典の浅深とか勝劣などに迷うのみでなく、釈尊の弘通の付嘱も忘れ、時や機根も考えないで勝手に宗派を起こし、像法や末法の修行としたのである。これは畑に種を植えて冬に収穫を求め、下弦の月が出る頃に満月を期待し、夜中に太陽を探すようなものである。

まして律宗などという宗は専ら小乗の教えであり、インドでは正法一千年の前半の五百年の小法であり、日本にあっては像法時代の中頃、法華経天台宗が流布する前にしばらく衆生の機根を整えるために立てられた教えなのである。これを譬えるならば日の出前に明けの明星が輝くようなものであり、また雨が降る前にまず雲が生じるようなものである。日が出て後の星、あるいは雨が降った後の雲に何の意味があるであろうか。

今は正像の時は過ぎてしまっている。末法に入ってから小乗の教えを行じるのは、例えば重病の人に軽い薬を与え、あるいは大石を小船に乗せるようなものである。これを修行すればその身は苦しく、時間がかかるだけで結果もあらわれない。花だけ咲いて果実が実らないようなものである。

故に伝教大師が像法時代の末に現われ、法華経迹門の戒・定・慧の三学の内の円頓の戒壇を比叡山に建立された時、小乗の二百五十戒を直ちに捨て去ったのである。したがって、鑑真の末流の南都七大寺の僧十四人・三百余人も承伏状に署名して大乗の人となって、日本の国を挙げて小律儀を捨て去ったのである。その授戒の記録を見ればそのことは明らかである。

しかし、今日、邪智の持斎の法師らの中には、昔捨てられた小乗経を取り出して、一戒も持たないで二百五十戒の法師とは名ばかりのものどもが、公家・武家を誑惑し、自ら国師であると僭称しているのである。

のみならず慢心を起こし、大乗戒を持つ人に対して破戒・無戒の者であると恥辱している。これは、例えて言えば犬が師子を吠え、猿が帝釈を恥辱するようなものである。

今日の律宗の法師どもは世間の人々には持戒実語の人のように見えるけれども、その実は天下第一の大不実の者である。その理由は、彼らが依文とする四分律・十誦律等の文は大乗・小乗の中では専ら小乗教に属し、小乗教の中でも最下級の小律だからである。釈尊在世にあっては、阿含時十二年の後、方等時で説かれる大乗教へ移るまで、しばらくの間、仮に説いた教えであり、釈尊入滅後では、正法時代の前半の五百年にあって専ら小乗教の寺で持った戒律である。これもまた専ら大乗のみを行ずる寺では毀謗の対象となすべきためのものである。故に日本国では像法の中頃に鑑真和尚がこの小乗教を、大乗教に入るための手習いとされたのである。

伝教大師がかの律宗を破折され、その人々をば天台宗へ帰伏された折、宗派としては廃止すべきところであったが、後世にこの経緯を知らしめるために自身の大乗の弟子を遣わして助けおかれたのである。ところが今日の僧たちはこの経緯を知らないで、六宗はもとより破折されていないと思っている。実にはかないことである、はかないことである。

また、律宗の一部のものどもは、天台の才能と学識からみると、我が律宗が幼弱なので次第に梵網経へ移り、結局は法華経の大戒を自宗の小乗戒に盗み入れ、かえって法華円頓の行者を破戒・無戒と嘲笑したので、国主は当時の律僧のいかにも高貴そうな外見に惑わされて、天台宗の寺に寄進していた田畠等を奪い取って彼らに与え、また万民も大乗の寺への帰依を止め、小乗である律宗の寺に移ってしまったのである。

これは自ら火はつけなくても日本一国の大乗の寺を焼失させたも同様であり、抜目鳥ではないけれども一切衆生の眼を抜いたのも同様である。仏が記し置かれた“阿羅漢に似た一闡提”とは実に彼らのことである。

涅槃経には次のように説かれている。「私が入滅して後、無量百歳という長い年月を過ぎると、四道の聖人もまたことごとく入滅するであろう。正法が滅して後、像法時代になると次のような僧が現れるだろう。すなわち戒律を持っているように姿を似せ、わずかばかりの経文を読誦し、飲食をむさぼってその身を長養するような僧である。…袈裟を着ているとはいえ、布施を狙うさまは猟師が獲物を狙って細目に見ながら静かに近付いて行くような姿であり、猫が鼠を狙っているような姿である。外面はさも賢者で善良である如く見せかけ、内心には貪り・嫉みを懐き、法門のことについては唖法を行じている婆羅門の行者のごとく黙りこくっている。彼らは真の僧侶でもないのに外面は僧侶の姿をし、邪見が強盛で正法を誹謗するであろう」と。

この経文に世尊は未来を記し置かれたのである。

もそも釈尊は我らにとっては賢父であるうえに明師であり、聖主である。一身にこの主・師・親の三徳を備えておられる仏が仏眼をもって未来の悪世を鑑みられて記し置かれた文に「私が入滅した後の無量の百歳」と言われているのである。これは仏入滅後二千年已後を指すと思われる。また「四道の聖人もまたことごとく入滅する」とは付法蔵の二十四人を指しているか。「正法が滅して後」とは像法・末法の世と思われる。

「戒律を持っているように姿を似せた出家の比丘がまさに現れるであろう」とあるが、今の末法の時代にこの「比丘の似像」を選び出すとすれば、日本国においてはいったい誰を引き出して大覚世尊を不妄語の人であると言えるであろうか。世俗の男女・比丘尼のことはこの経文に記しておらず、ただ比丘とのみある。比丘は日本国には無数にいる。しかし、そのなかで三衣一鉢を身に帯していなければ「似像」とはいえない。持斎をもった法師のみが該当するのである。一切の持斎の僧の中ではその次の文に「持律」と説いていることから律宗以外にはいない。

更にその続きの文に「わずかばかりの経文を読誦し」とあるが、これは相州鎌倉の極楽寺の良観房でなければ、いったい誰を指し出して経文の真実を証明することができるであろうか。また続きの文に「布施を狙うさまは猟師が獲物を狙って細目にみて静かに近づいて行くような姿である。外には賢善そうな姿を現し内心には貪りと妬みを懐く」等とある。両火房でなければいったい誰を三衣一鉢の猟師伺猫の比丘として仏説を信じたらいいのか。

哀れにも、今日の俗男・俗女・比丘尼・檀那等は山の鹿・家の鼠となって猟師・猫に似た両火房にたぶらかされて、今世においては国土を守護する天照太神・正八幡等にも見捨てられ、他国の兵軍に攻めやぶられて、あたかも猫が鼠をおさえ取り、猟師が鹿を射殺すように、俗男・武士等は矢で射伏せられ刀で切り伏せられ、俗女は押え取られて、他国へ連れていかれるであろう。そして、王昭君・楊貴妃のようになって、後生には無間地獄に一人ももれなく赴くであろう。

しかるに私がこのことを知るが故に良観の檀那等の大悪心をおそれず強盛にせめたので、両火房はひそかに諸方に讒言して私の口を塞ごうと図ったのである。

また経には「あなたに供養する者は三悪道に堕ちるであろう」とある。釈尊在世の阿羅漢に供養した人ですらなお三悪道はまぬかれがたい。まして仏滅後の世間を惑わす小律の法師どもに供養すればなおさらである。小乗戒に執着する大科はこの文によって知られるであろう。あるいはまた小乗の戒を驢乳にも譬えており、小乗の戒を持つ者は大乗の人の糞を食らうようなものである。そして更には猿とか瓦礫などにも譬えている。

したがって、時をわきまえず機を知らないで小乗戒を持つならば大乗の障害になり、その戒を破れば必ず悪果を招くことになる。そのうえ、今の小乗戒を持つ者どもは大乗戒を小乗戒に盗み入れ、驢乳に牛乳を入れるようにして大乗の人をあざむいている。これは大盗賊の者であり大謗法の者である。その罪を論ずるならば提婆達多も肩を並べがたく、瞿伽利尊者などは足元にも及ばない閻浮第一の大悪人である。これに帰依してその国土が安穏でありえようか。

私がこのことを見るに、自分さえわきまえていれば済むことであったが、日本国に智者と思われる人々が一人もこのことを知らず、国はいよいよ滅びようとしている。そのうえ、仏の諌暁を重んじなければならないし、また一分の慈悲に動かされて国のために身命を捨てて諌暁したのである。にもかかわらず、国主らは彼らにだまされて私の諌言を用いる人が一人もいない。かえって熱く焼いた鉄に冷水を注ぎかけた如く、眠れる師子に手を触れた如くに激しく反発し迫害を加えてきたのである。

ここに両火房という法師がいる。身に三衣をつけて、自分の皮膚のように離すことがない。一鉢を自分の両眼のように大切にしている。二百五十戒を堅く持ち、三千の威儀をととのえている。世間の無智な僧俗は国主から万民に至るまで、良観をまるで地蔵尊者が伽羅陀山より出現したか、迦葉尊者が霊山よりやってこられたかのように思っている。私が法華経第五の巻の勧持品第十三を拝見するに、末代に入って法華経の大怨敵の三類が現れるであろうとあるが、その中の第三の強敵こそはこの者であると見定めたのである。

折あらば、国敵たる良観房を責めてその大慢の心を倒して仏法の威力をあらわそうと思っていたところ、両火房は常に高座において嘆いて言うには「日本国の僧尼には二百五十戒・五百戒・在俗の男女には五戒・八斎戒などを一同に持たせようと思っているのに、日蓮がこの願いの障害となっている」と。それに対して私は「現証をもって決着をつけようと思っていたところ、良観房は常に雨を心のままに降らせると世間に宣伝している。昔もまた祈雨をもって優劣を決した例は多くある。かの伝教大師と護命、守敏と弘法の例などである。ちょうどこの時にあたって両火房が幕府より祈雨を仰せつけられたという」と思案したのである。

そこで両火房は去る文永八年六月十八日より二十四日まで祈雨を行った。日蓮は使いを極楽寺へ遣わし「あなたの年来のお嘆きの因は私のうちにあるとの由、あなたの祈雨により、もし七日のうちに一雨でも降るならば、あなたの弟子となって二百五十戒をことごとく持ち、そのうえまた、『これまで念仏無間地獄等と言ってきたことは誤りであった』と申しましょう。私さえあなたに帰伏すれば、私の弟子等をはじめとして日本国のほとんどがあなたに帰伏することになるでしょう」と申し伝えたのである。

そして、その七日の間に三度、使いを良観のもとに遣わしたのである。ところがどうしたことであろうか一雨も降らないうえに頽風・颷風・旋風・暴風などの八風が昼夜十二時にやむことなく、あげくのはては二週間たっても一雨も降らず風も止むことがなかった。

いったいこれはどうしたことであろうか。和泉式部という色好みや能因法師という無戒の者は、両火房が嫌う和歌で雨を降らせたのである。かのインドの大盗賊は「南無仏」と称えて天頭を得た。二百五十戒や真言法華の小法・大法をもった、かの両火房ならびに諸僧ら数百人が祈った仏法の霊験が、どういうわけで婬女らの誑惑の和歌や大盗賊の祈りに劣るのか。まことに不可解なことである。

幕府はこのことをもって彼らの大罪をしるべきであるのに、そうではなくかえって彼らの讒言を用いられているのは本当のこととは思えない。結局、日本国が亡国となるべき時期が来たのであろうか。また祈雨のことについては、たとえ雨を降らせたとしても、どのような雨であるかによって祈る者の賢・不賢を知ることができる。雨といっても様々である。あるいは天雨、あるいは竜雨、あるいは修羅雨、あるいは麤雨、あるいは甘雨、あるいは雷雨等がある。今の祈雨はまったく一雨も降らないうえに二週間、以前よりはるかにすさまじい大旱魃が続き、大悪風が昼も夜もやむことがなかった。

両火房が真実の人であるならば、すぐさま邪見をひるがへし、山林に姿を隠すべきであるのに、そうではなく臆面もその顔を 弟子檀那等にさらすだけでなく、こともあろうに讒言を企んで、「日蓮の首をきってしまわれよ」と幕府に申し上げ、日蓮の身柄を預かっている佐渡の国の代官にまで書状を申し出して、日蓮を亡き者にしようと企んだ大悪人である。にもかかわらず無智の檀那等は良観をたのみにして、現世には国を滅ぼし、後生には無間地獄に堕ちるであろうことは何と哀れなことであろうか。

起世経には「諸の衆生があって放逸をなし、清浄な修行を汚す故に天は雨を降らさない」とあり、また「正法に背き慳貪・嫉妬・邪見・顛倒であるために天は雨をふらさない」とある。また経律異相には「五つの理由があって雨が降らないのである。(一二三之は略す)四番目には雨師が婬乱のため、五番目には国王が理をもって国を治めず、雨師が瞋るために雨が降らない」とある。これらの経文の所説を鏡として両火房が身にあてはめてみよ。少しの曇りもなく符合するではないか。一つには名は持戒の僧と世に聞こえるけれども、実は放逸であるか、二には慳貪であるか。三には嫉妬であるか、四には邪見であるか、五には婬乱であるか。まさに、その実態は経文に説く五時に尽きるではないか。

また、これらの経は両火房一人だけでなく、今日の例にもあてはまる。弘法大師が祈雨をした時、二週間の間、一雨も降らなかったことも不可解なことである。しかるに彼は誑惑の心が強かった人なので、天子自からの御祈雨によって降った雨を盗み取って自分の祈雨による雨であると言いふらしたのである。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時も、小雨は降ったけれども、三師の場合には共に大風が長々と吹いて、その故に勅使を遣わされて追放されたのである。

その浅ましさに比べると、天台大師や伝教大師が須臾の間、あるいは三日のうちに帝釈により雨を降らせて、少しの風も吹かなかったことこそまことに貴く思われる。

法華経勘持品第十三には「或いは山林の閑静なところにいて、ぼろを継ぎ合わせた法衣を着て、人のいない所にいて…自らの利益に執着するが故に、在家の人々のために法を説いて、世間の人々から六神通を得た羅漢のように尊敬される者があるであろう」とあり、また「常に大衆の中にあって我らを毀ろうとするが故に、国王や大臣・婆羅門・在家の有力者、及び他の比丘達に向かって我々を誹謗・中傷し…悪鬼が彼らの身に入って我らを罵り辱めるであろう」とある。また「濁悪の世の悪比丘は、自分の信ずる教えは仏が人々の機根に随って方便として説いた教えであることを知らずして、悪口を言い、顰蹙し、しばしば追放されるであろう」等と説かれている。涅槃経には「一闡提の徒が阿羅漢の姿を装って静かな所に住し、方等大乗経典を誹謗するであろう。もろもろの凡夫は皆そうした人を見て、彼らこそ真の阿羅漢であり大菩薩であると思うであろう」等と記されている。

今、私がこの法華経と涅槃経の金言を鏡として現在の日本国を映し出してその姿を見ると、国主に六通の羅漢のように尊敬され、しかも法華経の行者を讒言して頚を切らせようとした僧はいったい誰であろうか。また万民から大菩薩と仰がれている僧はいったい誰であろうか。一方、法華経の故に度々所を追われ首をきられようとし、弟子を殺され、二度まで流罪にあい、最後には斬首されようとした智者はいったい誰であろうか。

眼がなく耳のない人はともかく、眼があり耳のある者であれば経文をよく見、聞きなさい。今の人々は誰もが「私も経を読んでいる、経を信じている」と言いながら、ただ憎むところは日蓮ばかりである。経文を信ずるというなら経文に明確に記されている三類の強敵を呼び起こし、これをもって経文を信じているという証拠とせよ。もしそうでなく、経文の通りに読誦している日蓮に対してか怒るのは、経文そのものを怒ることではないのか。それは仏の使いを軽んじていることになるのである。

現在の両火房が法華経の第三の強敵とならなければ、釈尊は大嘘つきの仏であり、多宝如来や十方の諸仏も不実の証明をしたことになろう。また経文が真実であるならば、両火房に帰依する国主は、現世においては守護の善神に捨てられて国は他国のものとなり、後生においては阿鼻地獄に堕ちることは疑いない。にもかかわらず国主が両火房らの大悪法を崇めている故に理不尽な政道がまかり通っている。

かの国主の僻見の心を推すれば「日蓮は阿弥陀仏の怨敵であり、父母の建立した堂塔の仇であるから、たとえ政道を曲げることになったとしても、仏の意に背くことはならないであろうし、そのことは天神も許してくださるであろう」と思っておられるであろうか。まことに浅はかなことである。さらに詳細に語るべきであろうが、これは小事であるから延べない。心ある人は推して知るべきであろう。

この伝教大師は六宗を責め落とされただけでなく、禅宗をも習い極められていた。更には日本国にいまだ広まっていなかった法華宗・真言宗をも研究され、その勝劣を仏法の鏡に照らして判じ、顕教と密教の相違を明らかにされた。しかしながら、それだけでは世間の人々の疑いを晴らすことが難しかったので、去る延暦年中に入唐された。

中国の人々も他の教理については通じていたけれども、法華経と大日経、天台宗と真言宗の二宗の勝劣・浅深については明確に知らなかったので、伝教大師は中国から帰朝されて後、もともと見抜かれていた通り、妙楽大師の法華文句記巻第十に記された不空三蔵が改悔して述べたという含光の話を依憑集に引用し、天台宗が勝れ真言宗が劣っているという明らかな文証とされた。

それだけではなく真言宗の「宗」の一字を削られたのである。その理由は善無畏・金剛智・不空の三人が、天台僧であった一行阿闍梨をあざむいて、もともと一念三千の法門が記されていない大日経に天台大師の己心の悟りであるこの法門を盗み入れ、他人の珍宝を自らのものとした大誑惑の者いたからである。このことは、例えば澄観法師が華厳の教えにはない天台大師の十法成乗の観法を華厳宗の教義に盗み入れ、逆に天台宗を末節の教えと見下したようなものであると見抜かれて、真言宗の、宗の一字を削って、比叡山は南都の六宗に天台法華宗を加えてただ七宗であるべきであるとされたのである。

それなのに、弘法大師という天下第一の自讃毀他の大妄語の人が、伝教大師御入滅の後に、対論もないまま朝廷をごまかし真言宗を加えて八宗と申し立てたのである。

しかし、本師伝教大師の跡を継ぐ人々であれば、比叡山は唯七宗に限定すべきであるのに、伝教大師の第三の弟子である慈覚大師と比叡山延暦寺第一の座主義真和尚の末弟子である智証大師の二人は中国に渡られた折、天台と真言の勝劣は日本国において一国の大事であり諍論の的であったので、天台・真言の碩学に会われるたびにその勝劣・浅深について尋ねられた。

しかしながら、その時の優れた学者等も、ある人は真言宗が勝れていると言い、ある人は天台宗が勝れているといい、またあるある人は二宗は等しいと言い、またある人は理は同じで事において異なっていると言った。しかしながらいずれも明らかな証文を示すことがなかったから、二宗の学者等は全く憶測で言ったにすぎないのである。

ところが慈覚大師は学を極めないまま帰朝し、二経の注釈書十四巻を作った。いわゆる金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経の疏七巻である。この疏の内容は法華経と大日経の三部経とは理においては同じであり事においては異なるというものである。

この疏の本旨は大日経の疏と義釈の要旨に基づいたものであったが、それでも不審が残ったのか、慈覚大師は、本尊の御前にこの疏を安置し、この疏が仏意に叶っているかどうかと祈請したところ、夢に日輪を射たという。目をさまして吉夢である。真言が勝れていることは疑いないと思い、宣旨を願い出たのである。そして日本国に広く伝えようとされたが、ほどなく疫病にかかり四ケ月もしないうちに跡形もなく亡くなられたのである。

ところが智証大師は慈覚にとっても弟子であったので、慈覚の遺言に従い宣旨を願い出られた。いわゆる「真言と法華は同等であり、例えば鳥の二つの翼、人の両目のようなものであり、また叡山を中心とする七宗に真言宗を加えて八宗とすべきである」というものである。

この二人は、その身は比叡山の雲の上にあるといっても、その心は東寺の里中の塵に交わっているのである。本師伝教大師の遺跡を紹継するように見えて、かえって聖人の正義をないがしろにされたのである。法華経安楽行品第十四の「於諸経中最在其上」の上の字を打ち返して大日経の下に置き、まず伝教大師の怨敵となるのみならず、思いもかけず釈迦・多宝・十方分身・大日如来等の諸仏の仇となってしまったのである。

したがって慈覚大師が夢の中で日輪を射るのを見たとはこのことなのである。日本国における仏法の大科は実にここから始まった。またこれは日本国が亡国となるべき先兆でもあった。棟梁であるべき法華経は既に大日経の椽梠となってしまったのである。

王法の世界においても下剋上の世となり、王位にある者がその臣下の者に従わなければならなくなったのであるが、この時は、まだ厳正にこの法門、すなわち天台・真言の勝劣・浅深について論争を行う一部の学者もいたうえ、天台座主も法華経と大日経とをあわせ持ち、その論争にまだ決着がついていなかったので世もすぐには滅びなかったのであろうか。

それは例えば外典に「大国に諌奏する臣が七人、中国には五人、小国には三人いて、絶えず王君への諌言を行うならば、たとえ政道に誤りが起きても国が破れることはなく…また一家の中に意見する子がいれば、その父が不義に陥ることはない」と述べられている通りである。

仏教においてもまた同じである。

天台と真言の勝劣・浅深について論議が続いて途切れることがなかったので、少々の災難は起きたけれども青天に捨てられることもなく大地に犯されることもなく、災いも一国の内に限られてきたのであるが、人王七十七代の後白河法皇の時代になって、天台座主の明雲が伝教大師建立の止観院に納められた法華経・金光明経・人王経の三部を捨てて、慈覚大師が総持院に安置した大日経等の真言三部経についてしまった。このため比叡山はに天台法華とは名ばかりでその実は真言の山とばり、法華経の所領は大日経の領地となってしまった。

これは天台と真言、座主と大衆との敵対が始まる前兆であり、国においても、王とその臣下とが争い、王がその臣下に従うようになる時代の前兆であり、一国が乱れて他国に破られる前兆でもあった。それ故、明雲は義仲に殺され、院もその臣下たる清盛に従えられてしまったのである。

しかしながら公家も比叡山も共にこれらの災いが法華経を捨てて大日経を立てたためであるということを知らなかったので、世の中は世静にならないままに時が過ぎてゆくにつれて災難は次第に増大し、人王八十二代の後鳥羽院上皇の時代に至って一災起これば二災起こるというように禅宗・念仏宗が相次いで起こったのである。

善導房は法華経によって成仏する者は末代においては「千中無一」であると書き、法然は法華経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と言い、また禅宗は法華経を排するために「教外別伝・不立文字」と主張したのである。これらの三つの大悪法が鼻を並べて一国に出現したために、この国は既に「梵天・帝釈・二天・日天・月天・四天王に捨てられて、国を守護する善神も逆に大怨敵となられたのである。その故に代々・臣下として仕えてきた者に責め従えられて、天皇・上皇共に未開の島に流され、その後帰還されることもなくむなしく島の塵となられたのである。

結局のところ、実経たる法華経の所領を奪い取って権経たる真言宗の領地としたうえに、日本の万民等が禅宗・念仏宗の悪法を用いたために、天下第一の先代未聞の下剋上が起きたのである。しかるに相州守・北条義時は謗法の人ではなく、そのうえ文武を究め尽くした人であったので、しばらく世は平静を保ったのである。

それなのに、また、先に王法を失墜させた真言宗が次第に関東へと落ち下り、思いの外に崇重されたために、幕府は逆に大謗法・一闡提の真言僧・禅僧・念仏僧の檀那となって、新しい寺を建立し、旧寺を捨ててしまった。そのゆえに天神は眼をいからしてこの国をにらみ、地神は憤りをこめて身を震わせた。すなわち彗星が空を覆い、地神は憤りをこめて身を震わせた。地震が四海を動かしたのである。

私はこれらの天変災夭に驚いて、内典五千七千・外典三千等をあらあら通覧して見るに、これらは先代にもまれな天変地夭である。しかしながら、儒者はそれについての記していないのでその原因を知ることはできない。また仏法者は経典に説かれていても迷妄のゆえに理解できないでいる。これらの天変災夭は通常の政道の狂いや世間の誤りから生じたものではなく、まぎれもなく仏法より生じたものであるという考えに至ったのである。

そこでまず、大地震を契機として去る正嘉元年より考えて著した書を一巻を故最明寺入道殿に奉ったのであるが、これに対して御下問もなくお取り上げにもならなかったので、国主が用いられない法師であれば、これを害してもその罪科は問われまいと思ったのであろうか、念仏者並びにその檀那も、またしかるべき人々も同意したと聞いているが、夜中、松葉ヶ谷の小庵に数千人が押し寄せ日蓮を殺害せんとしたのである。

だが、どうしたわけかその夜の害も逃れたのである。しかしながら、しかるべき人々との同意の上なことであったので、押し寄せた者もその罪科を問われることはなかった。これは大事な政道を破ることであった。

しかも、日蓮がまだ生きているのは怪しからぬことと思った幕府は、今度は伊豆の国に流した。してみると人は、あまりにも憎いと、自らを滅ぼす罪さえ顧みないのか貞永式目をも破られるのか、その式目の起請文には大梵天王・帝釈天王・四天王・天照太神・八幡大菩薩等を書き載せ奉っているのである。

私の説く法門が彼らの理解を超えていてその子細を理解できないというのであれば、帰依しておられる国内の僧等らを召集して私と対決させ、それでも決着しなければ中国・インドにまで尋ねて是非を決するべきである。それでも叶わないならば、何かわけがあるのではないかとしばらく待たれるべきである。その子細も理解できない人々が、自らの身を滅ぼすような罪をさしおいて、大事な貞永式目を破られたことは何とも納得できないことである。

自讃するようではあるけれども、経文に従って述べるならば、私には、上は天子より下は万民に至る日本国の一切の人々に対して三つの故がある。一つには父母である。二つには師匠である。三つには主君の御使である。法華経法師品第十には「即ち如来の使いなり」とあり、見宝搭品第十一には「眼目なり」とあり、如来神力品第二十一には「日月なり」ととある。また章安大師の涅槃経疏には「彼の為に悪を除くのは、すなわち彼の親である」等と述べられている。

そうであるのに北条氏が正法に背く一闡提の国敵である法師らの讒言を信用して、その内容を吟味せずに、何の詮議もなく大事な政道を曲げられたのは、わざとわざ災いを招こうとされたのか、全くはかないことである、はかないことである。しかし、事態が鎮まってみると、無実の罪で罰したことが恥ずかしかったためか、間もなく赦免となり、鎌倉へ戻されたのであるが、最明寺の入道殿もそれから間もなく他界されてしまった。

時代は時宗公の治世に移っても、あるいは身に傷を負い、ある弟子は殺され、あるいは追放され、あるいは住居を攻められたために、一日片時も地上に安心して住むことはできなかった。それにつけても思い起こされるのは、釈尊が法華経安楽行品第十四で「一切世間に怨多くして信じ難い」と説き残され、諸の菩薩が勘持品第十三で「自分は身命を愛さない。ただ無上の道を惜しむ」と誓っているとのことである。

法師品第十の「加刀杖瓦石を加えられ迫害されよう」という文や、勘持品第十三の「しばしば所を追放されるであろう」の文の通りに流罪されたり、刀で切られたならば、これこそ法華経一部を読み奉ったことになると覚悟を決め、あえて不軽菩薩のように、覚徳比丘のように、また竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者のように、いよいよ強盛に正法を訴えたのである。

今、法華経の大怨敵を見て、経文の通りに父母・師匠の敵、朝廷の敵、宿世の敵に対するように激しく訶責するならば、必ず万人も怒り、国主も讒言を聞き入れて流罪に処したり、首を切ろうとするに違いない。

その時、仏前に誓いを立てた梵天・帝釈・日月・四天などの諸天善人の誓いをも果たさせ申し上げ、法華経の行者をあだむ者を瞬時たりとも見逃してはならないと誓ったことを自身の身にあてて試してみせよう。

釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏が法華経の行者と宿所を共にし、或いは衣で覆い、或いは守護すると懇切に説かれたことが、本当か嘘であるかを知って、信心をもさらに深めようと思って退転することなく励んだところ、思っていた通り、去る文永八年九月十二日に、全く科もないのに佐渡へ流されることになった。

表向きは遠流と伝えられていたけれども、内々には首を切ると定められていたのである。私は、このことを前々から予測していたが故に、弟子に向かって言っていたのである。

「我が願いは既に成就した。その悦びは身に余るものがある。人として生を受けることは難しく、また失いやすいものである。過去遠遠劫の昔より無意味なことに命を失っても、法華経のために命を捨てたことはない。私は首を刎ねられることによって、師子尊者で絶えた付法蔵の跡を継ぎ、天台大師・伝教大師の功績をも超えて、付法蔵の二十五人に一を加えて二十六人目となり、 不軽菩薩の修行にも勝って、釈迦・多宝・十方の諸仏に『いったいどのようにしてこの行者を遇すればよいだろか』と嘆かせ申し上げたいものだ」と。

またこの故に、言葉をも惜しまず、これまでにあったこと、これから起きるであろうことを平左衛門尉頼綱に言い聞かせ、警告したのである。この時の言葉は繁多であるから詳しくは記さないことにする。

そもそも日本国の主となってすべては自分の思うがままであり、何事も双方の当事者を召し合わせて勝負を決し裁くべき人でありながら、何故に日蓮一人に限って諸僧たちと対決させることなく大罪に処されたのであろうか。これは全くただ事ではない。たとえ日蓮が大罪の者であったとしても、このような理不尽がまかりとおっては国の安穏があるはずがない。

御成敗式目を見ると五十一箇条を立てて、その最後に起請文を載せている。第一条・第二条には神事・仏事のことが記され、以下五十一箇条となっている。神事・仏事の肝要である法華経を手に持った者を讒言者等にも召し合わせないで彼等の言うがままに斬首しようとしたのである。それゆえ、他にもこの起請文に相違する政道はあるだろうけれども、これこそは最第一の重大事である。日蓮に対する憎さのゆえに国を滅ぼし身を失おうとされるのか。

魯の哀公が物忘れの最もひどい例として、転居の際に自分の移宅に妻を忘れたという故事を記している。孔子がいうには「わが身を忘れる者がいる。すなわち国主となって政道を曲げている者がそれである」と。

それともまた国主はこのことを詳しくはご存知ないのであろうか。しかし、いくら知らないといわれても、法華経の大怨敵となってしまった重罪は免れることができるであろうか。

多宝・十方の諸仏の御前で教主釈尊が末法現在のことを給かれたのに対し、諸菩薩が次のように述べたことが記されている。すなわち「悪鬼がその身に入って我を罵り辱めるであろう、…しばしば対放されるであろう」と。

また四仏が釈尊の所説を証明した最勝王経では「悪人を愛し敬い、善人を罰することによって」「他国より怨賊が来襲して、国の人々は災難や喪乱に巻き込まれて命を失うであろう」と説いている。たとえ国主が日蓮のことを軽賎されようとも教主釈尊の金言や多宝・十方の諸仏の証明が虚妄になるはずがない。

あらゆる真言師・禅宗・念仏者等の謗法の悪僧に以前から帰依していたとはいえ、それが大罪であることを知らないでいたために、諸天も国主の罪を少しは許し、善神もこの国をすてなかったのであろう。

しかるに、日蓮が出現して、一切の人を恐れることなく身命を捨てて、その謗法を指摘し諌め申し上げたからには、賢明な国主であれば詳細を聞かれるべきであるのに、聞きもせず用いられないことすら不可解であるのに、まして首を切ろうとしたことはもってのほかである。

こうして、大悪人を用いる大罪と、正法の大善人を辱めるという大罪、二つの悪が鼻を並べてこの国に出現したのである。これらは、例えば修羅を敬って日天を射るようなものである。それ故に前代未聞の重大事がこの国に起きたのである。

これは先例のないことではない。夏の桀王は竜蓬が頭を刎ね、殷の紂王は比干が胸を裂き、秦の二世王は李斯を殺し、優陀延王は賓頭盧尊者を軽んじ、檀弥羅王は師子尊者の頸を切った。北周の武王は慧遠法師と諍論し、唐の憲宗皇帝は白居易を左遷し、栄も徽宗皇帝は法道三蔵の顔に火印をあてて処刑した。

これらは諌暁を聞き入れないばかりか逆に怨みをなして、現世では国を失い身を亡ぼし、後生には悪道に墜ちた人々である。これもまた善人を軽んじ、讒言を聞き入れて道理を尽くさなかった故である。

そして、去る文永十一年二月、佐渡の国より召し返されて同年四月八日に平左衛門尉と対面した時、佐渡流罪がいかに理不尽な罪であったかを詳しく説き聞かせたのである。更に「この国がいよいよ他国に攻め入れれようとしているのは情けないことである」と嘆いて言うと、平左衛門尉が問うて言うには「いつ頃、大蒙古は攻め寄せてくるであろうか」と。

そこで「経文にははっきりと年月を指し示していることはないが、天の様子を拝見してみると、ことのほかこの国を睨んでおられるようである。したがって、今年中には必ず攻め寄せて来ると思われる。もし寄せて来るならば、一人も面と立ち向かう者はいないであろう。これもまた天の責めなのである。日蓮のことをあなたがたが用いないのであるから致し方あるまい。ゆめゆめ真言師等に蒙古の調伏を行わせてはならない。もしそれを行わせたならば、ますます悪い結果になるであろう」という趣旨を申しつけて帰ったのである。

その後も国の上下共に以前と同じく私の讒言を用いそうにない上に、本より私は、国恩を報じるために三度までは諌暁しよう。そええでも用いなければ山林に身を隠そうと決めていたのである。また古代の書の文にも「三度諌めて聞き入れられなければ去れ」とあり、この本文にしたがってしばらくこの身延の山中に入ったのである。

かくなる上は国主が讒言を用いようとしないのだから、臣下等にこの法門を話したところでどうにもならないであろうし、たとえ法門をといたとしても国も助からないし、人々も成仏するとは思われないからである。

また「念仏は無間地獄の業因であり阿弥陀経を読誦してはならない」と主張していることも、わたしが勝手にいっているのではない。そもそも弥陀念仏は、その源をたどれば、釈尊五十年の説法のうち、法華経を説く以前の四十余年の説法中の阿弥陀経等の三部経より出たものである。

しかし、釈尊の金言であるからきっと真実であるに違いないと信じていたところ、最後の八年間に説かれた法華経の序分にあたる無量義経の中で、釈尊は法華経を説かせ給うために、まず四十余年の間に説いた経々とその年数等を具体的に数えあげて「これらの教はいまだ真実を顕していない。(乃至)結局これらによって無上の悟りを得ることはできない」と説かれ、それらの多くの経々とその法門をたったの一言で打ち消されたのである。このことは譬えば大水が小さな火を消し、大風が多くの草木の露を吹き落とすようなものである。

そのうえで正宗分である法華経の第一巻、方便品に至って「世尊は法門を長きにわたって説かれた後に、必ず真実の教えを説くであろう」と仰せられ、また「正直に方便を捨てて、ただ無上道のみを説くであろう」と説かれたのである。これは譬えていえば、闇夜に大月輪が現れて他の星が光を失い、大塔を立てた後には不要になった足場を取り除くようなものである。

こうして後に、実義を定めて法華経譬喩品第三に「今この三界は皆我が所有である。その中の衆生はことごとく我が子である。しかも今この世界は諸の艱難辛苦が多く、これを救えるのはただ我一人のみである。また教えを諭したとしてもこれを信受せず…かえって経を読誦し書写しす所持する者を見て軽賎し憎嫉して、しかも恨みを懐くであろう。その人は命が終って阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれたのである。

この経で説いている内容は普通の法理と異なっている。普通は五逆罪や七逆罪を犯した罪人こそ無間地獄に堕ちると定めているのであるが、この経はそうではなく、釈尊在世、及び滅後の一切衆生の内、阿弥陀経等の四十余年の間に説かれた経々に堅く執着して法華経へ移ろうとしない者、法華経に入ったとしても権教への執着を捨てないまま法華経と並行して修行する者、自分が執着している経々が法華経に勝っていると主張する者や法華経を教え通り修行しても法華経の行者を侮辱する者、これらの人々を指して「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と断定されたのである。

このことは、ただ釈尊一仏の仰せであっても、外道でなければ疑うべきではないけれども、已今当の諸経に説かれていることよりもなおいっそう重要であることを示さんがために、宝浄世界の多宝如来が自らはるばる霊鷲山まで来られて釈尊の証人となられたのである。釈迦如来の先判にあたる大日経や阿弥陀経・念仏等を堅く執着して、後伴にあたる法華経へ入ろうとしない人々は必ず阿鼻地獄へ堕ちると証明されたのである。

また、阿弥陀仏等の十方の諸仏がそれぞれの国を捨てて霊鷲山・虚空会の儀式に参られて宝樹の下に座り、広長舌を出して大梵天に付けられた様は、あたかも無量無辺の虹が虚空に現れたようであった。

その意味するところは釈尊が “四十余年に説かれたの観無量寿経・阿弥陀経・悲華経等において、法蔵比丘の諸菩薩が四十八願等をおこして九品の浄土に凡夫を迎えると説いたことは、法華経へ入るまでの気休めの言葉であり、実はそれらの経々に説かれているような十方浄土や西方浄土への来迎などはなく、これを真実と思ってはならない。このことは釈尊が今説かれた通りであり、真実には釈迦・多宝・十方の諸仏が法華経寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信じさせるためである”と出された広長舌なのである。

“我らと釈迦如来は同じように仏ではあるが、釈迦如来は天の月であり我らは水中に映っている月のようなものである。釈迦如来の本土は実は娑婆世界であり、天月である釈尊が動かなければ、その影である我らも他土に移ることはない。我らがこの娑婆世界に居住して法華経の行者を守護することは、臣下が主君を仰ぎ奉るようであり、父母が我が一子を愛するようなものである”と、そのような思いで出した舌なのである。

その時、阿弥陀仏の第一・第二の弟子である観音菩薩と性至菩薩等は阿弥陀仏のあたかも按配であり、鳥の両翼のようなものであった。また左右の臣下であり、両目のようなものであった。この二菩薩は極楽浄土からはるばると阿弥陀仏のお供をしてきたが、釈尊は無量義経において、阿弥陀経等の四十八願等の法門を未顕真実と説かれ、さらに法華経において一名阿弥陀仏とその名を挙げて、これらの法門が真実ではないと説かれたのである。

それを聞いた二菩薩はまさか真実であるとも思わなかったが、阿弥陀仏が来て確かに同意されたのを目のあたりにし、それならば我らが念仏者等を九品の浄土へ迎えるための蓮台と合掌の印とは虚妄であると理解したのである。

それでは、自分達も本土の極楽世界に戻っても仕方がないとして、八万あるいは二万という無数の菩薩の中に入り、観世音菩薩普門品第二十五に「娑婆世界において遊ぶ」と説かれているように、この娑婆世界において法華経の行者を守護しようと懇ろに誓われたのである。日本国に近い一閻浮提の中の南方にある補陀落山という小さな場所を釈迦如来から賜り、そこを住所と定められた。

阿弥陀仏は左右の臣下たる観音菩薩・勢至菩薩に捨てられて、西方世界へ帰られず、この娑婆世界に留まって法華経の行者を守護しようといわれたので、この世界の内の欲界第四の兜率天にある弥勒菩薩の所領の中の四十九院の一院を賜って、そこに阿弥陀院と額を掲げて住まわれているとうかがっている。

その上、仏は阿弥陀経においては舎利弗に対して、凡夫が往生する様子を説かれたのであるが「舎利弗」「舎利弗」「また舎利弗」とその長くもない経典の中で二十数個所にもわたって呼ばれたのは騒々しいばかりであった。しかし、四紙の阿弥陀経一巻の中には、どこにも舎利弗等の声聞たちの往生成仏を許していない。法華経に至って初めて華光如来や光明如来という記別を与えられたのである。

一閻浮提第一の大智者である舎利弗ですら、浄土三部経では往生成仏したという事実の跡はない。まして牛や羊のような末法の男女がこれらの経々によって生死の迷苦を離れることがどうしてできるだろうか。

この次第を弁えない末代の学者等や法華経を修行する初心の人々は、阿弥陀経をありがたがって読み念仏を称え、あるいは阿弥陀経を法華経に鼻を並べ、あるいは法華経の後に阿弥陀経を読んで法華経の後に阿弥陀経を読んで法華経の肝要であると考え、阿弥陀経等の功徳をたよりにして西方極楽浄土へ回向しようと思っている。

これらは、譬えば驢馬を乗り物とし、師子が野干を頼りとするようなものである。また阿弥陀経は太陽が出た後の星の光・大雨が降っている時の一滴の露のようなものである。

故に伝教大師は「大白牛車を賜った暁には羊車・鹿車・牛車は必要なく、また長者の家業を継いだ後にどうして糞掃除の仕事が必要であろうか。故に法華経方便品には『正直に方便を捨てて但無上道を説く』と説かれている」といい、また「太陽が出れば星はかくれ、巧みなものを見れば拙なさがわかる」と述べている。

法華経が出現した後は已今当の諸経が捨てられることは当然である。たとえそれらの諸経を修行するとしても法華経の所従として位置づけられるべきであるのに、今の日本国の人々は道綽の「未有一人得者」、善導の「千中無一」、慧心の往生要集の序、永観の「往生十因」、法然の「捨閉閣抛」等を堅く信じて、ある者は法華経をなげうってただひたすら念仏を称え、ある者は念仏を正行として法華経を助行とし、またある者は阿弥陀経と法華経とを同等なものとして鼻を並べる如く、ともに念じて二行とし、またある者は念仏と法華経とは名が異なっても同じ一つの法であると思って修行している。

 これらは、皆、教主釈尊の御屋敷内にいながら、師でもあり主でもある釈尊をさしおいて、阿弥陀堂を釈迦如来の御所領内の各国ごとに各郷ごとに、また各家ごとに並べ建てて、あるいは一万遍・二万遍、あるいは七万遍と念仏を称え、あるいは一生の間ひたすらに念仏の修行をしているのである。このように主師親を忘れることさえ不可解なことであるのに、それに加えて親父である教主釈尊の御誕生の日と御入滅の両日を奪い取って、御入滅の十五日は阿弥陀仏の日、また御誕生の八日は薬師仏の日である等と言っている。

 釈尊の御誕生と御入滅の両日を東方の薬師如来と西方の阿弥陀如来の誕生と入滅の日にしてしまったのであり、これはまさに不孝の者ではないか。師敵対・七逆罪を犯す者ではないか。彼らはそれぞれの重罪を犯しておりながら、しかもそれが自分には罪はないと思っている。まさに恥知らずで一闡提の輩なのである。

 釈尊は法華経巻第二に主と親と師という三大事を説かれており、これがまさにこの一経の肝心なのである。その経文には「今この三界は皆我が所有である。その中の衆生は悉く我が子である。しかも今この世界は諸の苦悩に満ちている。これを教えるのは唯我一人である」と説かれ、また、この経に背く者に関しては「またいかに教え諭してこれを信受しない。(乃至)こも人の死後は必ず阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれている。

それでは、念仏者の本師である善導はいわゆる「其の中の衆生」に入らないのか。彼は「これを教えるのは唯我一人のみである」という法華経の経文を破棄して「千中無一」と言ったために現身に狂人となって柳の木にに登り身を投げ、堅い地面に落ちて死に切れず、十四日から二十七日までの十四日間、もだえ苦しんで狂い死にしてしまった。

また真言宗の元祖である善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等は親父を兼ねている教主釈尊という法王を軽んじて大日如来という他仏を崇めたために、善無畏三蔵は閻魔王の責めをうけたばかりでなく、無間地獄へ堕ちてしまったのである。あなたがこのことを疑うのであれば、閻魔堂の画を眼前に見よ。金剛智三蔵や不空三蔵のことは繁多になるので書かないことにする。

また禅宗の三階教を開いた信行禅師は法華経等の一代聖教を別教と下し、自分が作った経を普経として崇重したために、世間から四依の大士のように仰がれていたのであるが、法華経の信者であった在家の女人に詰問され、返答に困り声を失い、そのまま大蛇となって数十人の弟子を呑み込んでしまった。

 

一昨日御書

一昨日(九月十日)、見参したことを喜ばしく思っている。
 そもそもこの世に生きている人で、誰か後世を思わない者があろうか。仏が世に出られたのは、専ら衆生を救うためであった。ここに日蓮は比丘となってからこのかた、種々の法門を学び、すでに諸仏の本意を覚り、早く出離の大要を得たのである。その要とは妙法蓮華経である。法華一乗の妙法は、三国にわたって崇重され、したがって三国が繁昌したことは眼前に明らかなことであって、誰かこれを疑う者があろうか。
 しかるに(人々は)専ら法華経の正しい路に背いて、偏に法華経以外の邪な途を行っている。したがって、聖人は国を捨て去り、善神は瞋りをなし、七難が並び起こって、四海は穏やかでない。
 今、世はことごとく関東に帰し、人々は皆、武士の風を貴んでいる。とりわけ日蓮はこの国に生を受けて、どうして我が国のことを思わないでいられようか。そのために立正安国論を述作して、故最明寺入道殿(北条時頼)に、宿屋入道を通して見参に入れたのである。
 しかるに近年の間、しばしば西戎蒙古国は牒状を届けて、我が国を窺っている。先年(文応元年)に勘え提出した立正安国論の予言と全く符合したのである。
 かの太公望が殷の国に攻め入ったのは、西伯が礼をもって迎えたからであり、張良が謀をめぐらして秦の国を亡ぼしたのは、漢の高祖の誠意に感じたからである。これらの人は皆、その当時にあって、賞を得ている。謀を帷帳の中に回らし、千里の外に勝利を決した者である。
さて、未萠を知る者は、六正の聖臣である。法華経を弘める者は、諸仏の使者である。しかるに日蓮は、かたじけなくも法華経・涅槃経の文を開いて、仏の本意を覚った。そればかりか日本国の将来を勘えたところ、それがほぼ符合している。これは先哲に及ばないと雖も、後人には希な者である。
法を知り、日本国を思う志は、もっとも賞されるべきところであるのに、邪法・邪教の輩が讒奏・讒言するので、久しい間、大忠を懐いていても、未だ小さな望みも達することができないでいるのである。そればかりか、一昨日の不快の見参においては、国を救うことはひとえに難治の次第であると、憂えた次第である。
伏して思えば、泰山に登らなければ、天の高いことが分からない。深い谷に入らなければ、地の厚いことが分からない。よって(我が志を)承知してもらうために、立正安国論一巻を進覧する次第である。この書に勘え載せたところの文は、九牛の一毛であり、未だ微志を尽くしていない。
そもそも貴殿は、当今の天下の棟梁である。その人がどうして国中の良材を損するのか。早く賢明な考えをめぐらして、異敵の蒙古を退治すべきである。世を安んじ、国を安んずるのが忠であり、孝である。
これは偏に我が一身のために申すのではなく、君のため、仏のため、神のため、一切衆生のために、申し上げるのである。恐恐謹言。
文永八年九月十二日         日 蓮  花 押
謹上 平左衛門殿

 

 

上野殿御返事(孝不孝の事)

故上野殿の御忌日の僧饍料として、米一俵、たしかに頂戴した。御仏前に御供えして、自我偈一巻を読みまいらせよう。

孝養ということについては、まず不孝を知ってこそ、孝を知ることができる。不孝といえば、酉夢という者が父を打ったところが、雷が落ちて身を裂かれ、班婦という者は母をのりしったところ、毒蛇が来て呑んでしまった。阿闍世王は父王を殺したために白癩病の人となった。波瑠璃王は親を殺したため、河の上で焼死し、生きながら無間地獄に堕ちた。他人を殺した者にはいまだにこのような例はない。

これらの不孝の報いから、孝養の功徳の大きいこともわかる。

外典三千余巻はただ父母への孝養を教えたのであり、他の事は何もない。しかし、現世だけの孝養で、親の後生を助けることはない。父母の恩の重く深いことは大海のようであり、現世だけを養い、後生を助けないのは一渧のようなものである。

内典五千余巻もまた、他事はない。ただ父母の孝養の功徳を説いたものである。しかし、法華経以前の四十余年の釈尊の説教は、孝養を説いているようであっても、未だ真実義を顕していないから孝のなかの不孝というべきであろう。

目連尊者が母の餓鬼道の苦しみを救ったことも、わずかに人界、天界まで救い上げただけで、未だ成仏の道には入れていない。釈尊は御年三十の時、父王の浄飯王に法を説いて第四の阿羅漢果を得させられ、三十八歳の時に母の摩耶夫人に阿羅漢果を得させられた。しかし、これらは孝養に似ているがかえって不孝の失をまぬかれない。なぜかなら、これによってわずかに六道の苦を離れさせたけれども、かえって父母を永不成仏の道に入れてしまわれたからである。たとえば太子を凡下の民に下したり、王女を身分の賤しい男に嫁がせたようなものである。

それゆえに仏は法華経方便品に「もし真実の法を説かなかったら自分は慳貪の罪に堕ちるであろう。このことは何としてもよくない」と説かれている。仏は父母に甘露を惜しんで麦飯を与えた人であり、清酒を惜しんで濁酒を飲ませた不孝第一の人である。波瑠璃王のように生きながら無間地獄に堕ち、阿闍世王のように即身に白癩病をも受け継ぐべきところであったが、成道して四十二年に法華経を説かれ、「滅度の想いを生じて涅槃に入った二乗も、彼の土で仏の智慧を求めて、是の経を聞くことができるであろう」と。父母の御孝養のために法華経を説かれたので、宝浄世界から来られた多宝仏も、「真の孝養の仏である」と称歎され、十方の諸仏も来集されて「一切の諸仏のなかで孝養第一の仏である」と定められたのである。

このことから考えるに、日本国の人は皆、不孝の人というべきである。仏は涅槃経の文に不孝の者は大地微塵よりも多い、と説かれている。それゆえに天の日月、八万四千の星が、それぞれ怒りをなし、眼をいからして日本国を睨みつけているのである。今の陰陽師が、天変がしきりに起こっていると奏上しているのはこのことである。また地夭が日々に起き、   日本国はちょうど、大海の上に小船を浮かべたようなものである。今の日本国の小児が魂を失い、女人が血を吐くのはこのためである。

貴辺は日本国第一の孝養の人である。梵天・帝釈等は下り来って、左右の羽となり、四方の地神は貴方の足をいただいて、父母と仰ぐことであろう。なお申し上げたいが、これで筆を止める。恐恐謹言。

弘安三年三月八日           日 蓮 花 押

進上 上野殿御返事

 

曾谷二郎入道殿御返事

先月の七月十九日の消息が、同月の三十日に到着した。

世間の事はしばらく置くとする。ただ仏法に逆らうことについていえば、法華経の第二の巻譬喩品第三には「其の人命終して阿鼻獄に入らん」等と説かれている。

問うていう。法華経で説かれる「其の人」とはどのような人をさすのであろうか。

答えて云う。その経文の少し前に「唯我一人のみ能く救護を為す。復教詔すと雖も、而も信受せず」と説かれ、また「若し人信ぜずして」と説かれ、また「或は復顰蹙して」と説かれ、また「経を読誦し書持すること、有らん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐かん」と説かれている。また法華経第五の巻従地湧出品第十五には「疑を生じて信ぜざること有らん者は、即ち当に悪道に堕つべし」と説かれている。また、法華経第八の巻の普賢菩薩勘発品第二十八には、「若し人有って之を軽毀して言わん。汝は狂人ならくのみ。空しく是の行を作して、終に獲る所無けんと」等と説かれている。譬喩品の「其も人」とは、これらの経文に説かれている人々をさすのである。中国では天台大師は南北の十人の学匠をさし、日本国では伝教大師は南都六宗の人々をさして譬喩品の「其の人」に当たるとしている。

いま日蓮は弘法・慈覚・智証等の三大師並びに、三階禅師信行・道綽・善導等を指して「其の人」といっているのである。

また「阿鼻獄に入らん」ということについては、涅槃経第十九に「仮使い一人独り是の獄に堕ち、其の身長大にして八万由延なり。その中間にヘン満して空しき所無し。其の身周匝して種種の苦を受く。設い多人有つて身亦ヘン満すとも相い妨碍せず」と説かれている。同じ三十六には「沈没して阿鼻地獄に在つて受くる所の身形・縦広八万四千由旬ならん」等と説かれている。仏説普賢菩薩行法経には「方等経を謗し、十悪業を具せらん。是の大悪報応に悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎん。必定して当に阿鼻地獄に堕つべし」等と説かれているのは阿鼻獄に入らん」の文のことである。

日蓮がいうのには、日本国というのは道は七道、国は六十八ヵ国、郡は六百四、郷は一万余であり、長さは三千五百八十七里あり人口は四百五十八万九千六百五十九人・あるいは四百十九十九万四千八百二十八人である。寺院は一万一千三十七所・社は三千一百三十二社である。いま法華経にとかれている「阿鼻獄に入らん」というのはこれらの人々をさすのである。

問うて云う。衆生には悪人と善人の二種類がある。ゆえにその生まれる所にもまた善と悪との二道があるはずである。どうして日本国の一切衆生が一同に「入阿鼻獄」の者と定めるのであろうか。

答えて云う。人数は多いけれども、造る業は一つである。ゆえに同じく「阿鼻獄」と定めるのである。

疑って云う。日本国の一切衆生の中には、あるいは善人、あるいはは悪人がいる。善人とは五戒・十戒・乃至二百五十戒等の戒律を持つ人である。悪人というのは殺生・偸盗・ないし五逆・十悪等を犯す人である。どうしてそれを一つの業というのであろうか。

答えて云う。小善と小悪の異なりはあっても法華経の誹謗においては善人・悪人・智者・愚者の違いはない。このゆえにみな同じく「入阿鼻獄」というのである。

問うて云う。何をもって日本国の一切衆生をおしなべて法華誹謗の者であるというのか。

答えて云う。日本国の一切衆生衆は数が多いといっても四百五十八万九千六百五十九人にすぎない。これらの人々に貴賎上下の勝劣があるといっても、この人々がたのみとするところは、ただ三大師である。師とするところはただ三大師を離れることはないのである。三大師以外の者があったとしても、信行・善導等の流派を出ることはない。

問うて云う。三大師とは誰のことか。

答えていう。弘法・慈覚・智証の三大師のことである。

疑つて云う。この三大師にどのような重大な科があって、日本国の一切衆生を譬喩品の文の「其の人」の内に入れたのか。

答えて云う。この三大師は大小乗の戒を持った人であり、八万の威儀を備え、あるいは三千の威儀等を備えた顕密兼学の智である。そうであるから、日本国のこれまでの四百余年の間、上一人から下万民に至るまで、この三大師を仰ぐことはちょうど日月のごとく、尊ぶのは世尊のごとくであった。そのうえ、徳の高いことは須弥山にも超え、智慧の深いことは青い海にも過ぎるほどであった。ただ、残念なことは法華経を大日真言経に相対して勝劣を判ずる時、法華経をあるいは「戯論の法」といい、あるいは「第二の劣」「第三の劣」といい、あるいは教主を「無明の辺域」とづけ、あるいは行者を「盗人」と名づけているのである。

かの大荘厳仏の末の六百四万億那由佗の四衆の場合は、おのおの業因は異っていたけれども師の苦岸比丘等の四人とともに同じく無間地獄に堕ちてしまった。また、師子音王仏の末法の無量無辺の弟子等のなかにも貴賎の異なりがあったけれども、同じく勝意比丘の弟子となったために一同に阿鼻大城に堕ちてしまったのである。今、日本国の人々もまた同じである。

去る延暦から弘仁年間に伝教大師が南都六宗の弟子檀那等を呵責して言った言葉として守護国界章に「其の師の堕つる所、弟子亦堕つ、弟子の堕つる所、檀越亦堕つ。金口の明説慎まざる可けんや慎まざる可けしんや」等とある。

疑つて云う。汝がような分斉で何をもって三大師を破すのか。

答えて云う。予はあえてかの三大師を破しているのではない。

問うて云う。汝が先に述べた義はどういうことか。

答えて云う。インドより中国・日本に渡った経論は五千七十余巻である。日蓮がほぼこれらの経論を見ると、弘法・慈覚・智証においては、世間の科はしばらく置くとして、仏法によって見るならば謗法第一の人々であるというのである。「大乗を誹謗する者は箭を射るより早く地獄に堕す」とは如来の金言である。そしてまた謗法の罪の深重であることについては弘法・慈覚等もまた同じく定められているところである。人の言葉はしばらくこれを置くとして釈迦・多宝の二仏の金言が虚妄でないならば、弘法・慈覚・智証は必ず無間大城に入り、十方分身の諸仏の舌が堕落しないならば、日本国中の四百五十八万九千六百五十九人の一切衆生は、かの苦岸比丘等の弟子檀那等のごとく阿鼻地獄に堕ちて、熱鉄の上に仰ぎ臥して九百万億歳、伏臥して九百万億歳、左脇に臥して九百万億歳、右脇に臥して九百万億歳、このように熱鉄の上にあって三千六百万億歳を送ることになるのである。その後、この阿鼻阿鼻地獄に転じて他方の世界に生まれては大地獄に在って無数百千万億那由佗歳の間、大苦悩を受けるであろう。苦岸比丘は小乗経をもって権大乗を破っただけで、このような罪を受けたのである。いわんや今、三大師は未顕真実の経をもって三世の仏陀の本懐の説を破るのみでなく、更には一切衆生成仏の道をなくしているのである。この深重の罪は、過去・現在・未来の三世の諸仏もどうしてこれを窮められようか。どうしてこれを救うことができようか。

法華経の第四の巻の法師品第十には「已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も難信難解なり」と説かれ、また安楽行品第十四には「最も其の上に在り」と説き、並びに薬王菩薩本事品第二十三は「十喩」等が説かれている。

他経においては、華厳経・方等経・般若経・深密経・大雲経・密厳経・金光明経等の諸教の中に勝劣を説くとはいっても、あるいは小乗経に対して「此の経は第一」といい、あるいは真俗二諦に対して「中道は第一」といい、あるいは印と真言等を説くことを第一としているのである。このような説があっても、そこで言っていることは全く「已今当の第一」ではない。そうであるのに、末の論師・人師等は長年にわたって誤った教えに執着し、また多くの人々が門徒となったのである。

このようなときに、日蓮はかの依経に成仏の道がないことを責めたので、いよいよ瞋恚を懐いて、その是非を糺明しないで、ただ大妄語を構えて国主・国人等を誑惑して日蓮を損じようとしたのである。そして多くの難を蒙むらせただけでなく、伊豆と佐渡の二度の流罪と、あまつたえ竜の口の頚の座におよんだのがこれである。これらの大難の忍び難いことは、不軽菩薩の杖木にも過ぎ、はたまた勧持品の刀杖の難にも超えている。

また法師品第十には「末代に法華経を弘通する者は如来の使いである。この人を軽賎する者の罪は教主釈尊を一中劫蔑如するに過ぎている」等と説かれている。

今、日本国には提婆達多・大慢婆羅門等のように無間地獄に堕ちることになっている罪人が三千五百八十七里の国中に四百五十八万九千六百五十九人もいるのである。かの提婆・大慢等の無極の重罪もこの日本国の四百五十八万九千六百五十九人の罪に対するならば、軽罪中の軽罪である。

問うて云う。それはどうゆう道理によるのであろうか。

答えて言う。彼等は悪人であるといっても、全く法華を誹謗した者ではないのである。また、提婆達多は恒河第二の人である。第二の一闡提なのである。今、日本国の四百五十八万九千六百五十九人は皆、恒河第一の罪人である。したがって、提婆が三逆罪は軽毛のようなものであり、日本国の上に挙げたところの人々の重罪は大石のようなものである。梵天・帝釈も日本国を捨て、同生天・同名天も国中の人々の肩を離れることは間違いないであろう。天照太神・八幡大菩薩もどうしてこの国を守護するであろうか。

治承等の代に、八十一代・八十二代、八十三代、八十四代、八十五代の五人の大王と源頼朝・北条義時とがこの国を争った。それは天子と民との合戦であった。けだし鷹駿と金鳥との勝負のようなものであったから、天子が頼朝等に勝つことは間違いないはずであった。しかし、五人の大王は負けてしまったのである。兎が師子王に勝ったようなものである。それも、ただ負けただけではなく、あるいは蒼海に沈み、あるいは島々に流されたのであった。法華経誹謗の年月がそれほどに積もらない時ですらこのようなものであった。今度はそのときの比ではない。彼はただ国の中での災いだけであった。そのわけをあらかた考えるに、蒙古国の牒状以前に、正嘉・文永等の大地震・大彗星の瑞相を見ることによって再三奏上していたが、国主はあえて用いることをしなかった。しかし、日蓮の勘文がほぼ仏意にかなうかのゆえに、蒙古国との合戦が既に起こっている。この国の人々は今生には一同に修羅道に堕ち、後生には皆、阿鼻大城に入ること疑いないのである。

思えば貴辺と日蓮とは師檀の一分である。しかしそうではあるが、有漏の依身は国主に随うものであるがゆえに、貴辺もこの蒙古襲来の難に値おうとしているのか。

その貴辺の立場を思うと感涙を押さえることができない。いずれの代に対面をとげることができるであろうか。ただ一心に霊山浄土に往くことを期されるべきであろう。たとえ身はこの難に値つたとしても、貴辺の心は仏心と同じである。今生は修羅道に交わったとしても後生は必ず仏国に居住するであろう。恐恐謹言。

弘安四年閏七月一日                  日蓮花押

曾谷二郎入道殿御返事

 

富城入道殿御返事(弘安の役の事)

今月十四日の御手紙は同じく十七日に到着、またさる閏七月十五日の御手紙も同じく二十日ごろに到着した。そのほかたびたび御手紙をいただいたが、老病の身の上であり、また食事が進まないので、まだ返事をさしあげていないことを恐縮に思っている。

それらのなかで、なによりも閏七月の御手紙のなかに「鎮西には大風が吹いて、浦浦・島島に破損の船が充満している」、また「京都で思円上人の調伏の祈禱によって蒙古が敗れたといわれている。またそのような道理があるでしょうか」等とあった。このことは、別しては日蓮一門の大事である。総じては日本国の凶事である。そのため、病苦を忍んでそのことについて一端を申し上げよう。

思円の祈禱によって蒙古を調伏したなどということは、ただ、日蓮を葬ってしまおうとして、ないことを造り出したこととかねてから知っている。それは日本国の真言宗等の七宗・八宗の人々の大悪事の謀は今に始まっ たことではない。しかし、ここで一例を挙げてすべてをお知らせしよう。

去る承久三年に隠岐法皇が北条義時を除くために、義時調伏を比叡山の座主・東寺・仁和寺・七寺・園城寺に命ぜられ、同じ三年の五月十五日、鎌倉幕府の代官・伊賀太郎判官光末を京都の六波羅で殺害させたのである。

そうする間に同じ五月十九日二十日にその報が届き、鎌倉中が大騒ぎとなって、北条義時は、同五月二十一日東山道・東海道・北陸道の三道から十九万騎の兵を京都に向けて出発させた。同じく六月十三日、その夜の戌亥の時から青天がたちまち曇って雷電が鳴りわたって、武士達の頭の上に懸ったうえ、車軸のような激しい雨は篠を立てたようであった。

十九万騎の兵達は、遠い道を行軍して、兵乱のために米は尽き、馬は疲れていた。付近の住民は皆逃げ隠れてしまった。冑は雨に打たれて綿のようだった。武士達が宇治・瀬田に押し寄せてみると、いつもなら三丁・四丁の幅の川なのが、大雨のため六丁・七丁・十丁の川幅にもなっている。しかも、一丈・二丈もある大石が枯葉のように浮かび、五丈・六丈の大木によって流れが塞がれることも間がない。昔、足利利綱と佐々木高綱等が渡った時とは比べることもできなかった。武士はこれを見て、皆臆したようにみえたが、きょうを過ごしてしまうと皆心を飜して京都方に堕ちてしまうだろう。そのために、馬筏を作って向こう岸に渡ろうとしたところ、あるいは百騎、あるいは千騎、万騎と、そのようにして皆われもわれもと川を渡ったのだが、あるいは一丁、あるいは二丁、三丁と渡りかけても、向こう岸に着く者は一人もいない。こうして緋綴・赤綴等の甲、そのほか弓や箭や刀や薙刀、白星の冑等が川の中に浮かぶ姿は、まるで九月十月ころの紅葉が吉野・立田の川に浮かぶようであった。

このことを聞いた比叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等は、真言の秘法・大法の験と喜んだのである。宮中の紫宸殿では、比叡山の座主・東寺・仁和寺の高僧が、真言密教の五壇・十五壇の修法をいよいよ盛んに行じたので、後鳥羽院上皇は感嘆されることこの上もなく、玉の飾りを地につけ、修法の大法師等の足をその手で摩でられたので、そのほかの大臣・公卿等は庭の上へ走り落ちて五体を地につけ高僧等を敬った。

また宇治・瀬田に出陣した公卿・殿上人は関東武士に対し冑を震いあげて大音声を放っていった。「義時の家来のいなかもの達よ、心して聞け。昔より今にいたるまで王法に敵対した者で安穏であった者がいるか。犬が師子を吼えてその腹が破れなかったことがなく、修羅が日月を射てかえってその箭が自らの眼にあたらなかったことはなかった。遠い外国の例はしばらくおいて、近くは日本がはじまって以来、人王八十余代の間の例を挙げれば、大山の皇子、大石の小丸をはじめとして二十余人が王法に敵対したが、誰一人として謀叛の目的を達した者はいない。皆獄門に頚をかけられ、骸を山野に曝した。今や関東の武士等、あるいは源氏と平氏、あるいは家柄の良い家々が先祖から相伝えた大君を捨てて、伊豆の国の民である北条義時の命令に随うために、このような災難が起こったのである。王法に背き民の命令に随う者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北に駈けまわっているようなものである。これこそ一生の恥であり、これをどうするのか。急ぎ急ぎ冑を脱ぎ、弓弦をはずして降参せよ、降参せよ」と招いた。ところがどうしたことか。申酉の時にもなると、関東の武士等は川をかけ渡り、勝ちほこって攻撃したので、京都方の武者達は、一人のこらず山林に逃げ隠れてしまった。そこで、関東の武士達は四人の王を四つの島へ流罪にしてしまい、また高僧・御師・御房達は、あるいは住む寺を追われ、あるいはさまざまな恥辱にあって、それから今まで六十年の間、いまだにその恥をすすいでいないと思われているのに、今また、それらの祈禱を修した僧侶の弟子達が祈禱を仰せつけられたようである。そして、いつも吹く秋風によるわずかの波浪で蒙古の船が破損したのを、蒙古の大将軍を生け取りにしたなどといい、祈りが成就したなどと吹聴しているのである。また、祈りが叶ったというならば、蒙古の大王の頸が届いたのかと反問すべきである。そのほかのことはどのように言っても、返事をしてはならない。知っておかれたほうがよいと思うので、あらあら申したのである。なお、このことは一門の人々にも伝えておきなさい。

また、椎地四郎のことは承知した。

日蓮はすでに齢六十にもなったので、天台大師の御恩を報じようと思って、見苦しくなっている房を修繕、改築する費用に御供養の銭を下して使用した。

銭四貫文を供養して、一閻浮提第一の法華堂を造ったと、霊山浄土に行かれた時には申し上げられるがよい。恐恐。

十月二十二日             日 蓮  花 押

進上 富城入道殿御返事

 

小蒙古御書

小蒙古の人が大日本国に攻め寄せくるのことについて、我が門弟や檀那等のなかに、もし他人に向かって、あるいはまた自らも、日蓮の諌言を用いないで罰であるなどという言葉をはいてはいけない。もしこの旨に違背するならば門弟を離すということを承知しておくように。この旨を弟子門下に示すべきである。

弘安四年太歳辛巳六月十六日                花押

人 人 御 中

 

八幡造営事

この法門(三大秘法)を、弘通しはじめてすでに二十九年になります。日々の論議折伏、月々に受けた難、それのみか、伊豆、佐渡と両度の流罪で、身も疲れ、心もいたんだ故でありましょうか。この七、八年の間、年毎に衰え病気がちになってきましたが、大事にはいたりませんでした。ところが、今年の正月より体が衰弱してきて、すでに一生も終わりになったように思われます。そのうえ、年齢もすでに六十歳に満ちました。たとえ、十のうち一つ今年は過ごしたとしても、あと一、二年をどうして過ごすことができましようか。「忠言は耳に逆い、良薬は口に苦い」とは、昔の賢人の言葉である。病身の者は、自らの生命を嫌う、心の曲がった人は、人の諫めを用いないといわれています。

このごろは、上下の人にかかわらず、どの便りにも、返事を書くこともありません。何となく気もすすまず、手もだるいためです。しかしながら、このことは、非常に大事なことであるから、苦しいのを忍んで返事を申し上げるのです。あなたにはつらく思われるお手紙でしょうが、ぜひこの一篇は読んで心に入れておいていただきたい。村上天皇が前中書王兼明親王の莵裘賦を投げ捨てたようなことのないように願います。

さて、八幡宮の御造営の事については、必ず、あなた方を讒奏する者があるであろうと心配しておりました。あなた方の親といい、あなた方自身といい、親子二代にわたって主君(鎌倉幕府)につかえられていることであり、あくまでも、御恩を受けている身であります。

たとえ、一つぐらい自分の希望にそぐわないことがあっても、どうして主君をいい加減に思ってよいことがありましょうか。自分が賢人であるならば、たとえ主君より八幡宮造営の工事を仰せつけられても、一往はなにごとにつけても辞退すべきでありましょう。幸いなことに、讒臣たちが、あなた方のことを、いろいろな事をいって排斥するならば、喜ぶのが当然であるはずであるのに、自分から八幡宮造営の工事を望まれることは、一つの誤りです。

このことはさておいて、不殺生戒などの五戒を過去世で持って修行した果報として、今世に人間として生まれることができたのです。したがって、たとえとるに足らない無益な者であっても、国主等が、理由なく罪にすれは、守護の諸天善神は怒られるのです。まして命を奪われるということは諸天善神がその人を見放されたことになるのです。

いわんや日本の四十五億八万九千六百五十九人の男女は四十五億八万九千六百五十九の諸天善神が守護されているのです。そうであるのに、他国(蒙古国)より攻めよせてくる大難をまぬがれるとも思えないのは、四十五億八万九千六百五十九人の人々が、諸天にも、捨てられたうえ、六欲天、四禅天、梵天、帝釈天、日天、月天、四天王等にも見放されてしまったからこそでありましょう。そうであるのに、日本国の国主(鎌倉幕府)等は八幡大菩薩をあがめ奉れば、なに事もなくてすむと思っておられるが、八幡大菩薩は、自分の力では、到底この日本を守ることができないので、きっと宝殿を焼いてかくれてしまわれたのでありましょう。しかるに、日本国の国主等は自らの正法誹謗の重い科を顧みないで、八幡大菩薩の宝殿を造り、八幡大菩薩に日本国を守っていただこうと思っているのです。

日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生が、釈迦・多宝・十方世界の分身の諸仏や、地涌の菩薩や、娑婆世界と他方の世界の諸菩薩や、十方世界の梵天・帝釈、日天・月天、四天王に捨てられてしまうほどのことであるならば、どうしてわずかな日本国の小神たる天照大神や八幡大菩薩の力が及ぶことがありましょうか。

このような時、あなた方が八幡宮を造ったとしても、この日本国が他国にやぶられるならば、くぼんでいる処に塵がたまり、低い処に水が集まるように、日本国の上下万民がさまざまに悪口をいい、噂をするであろうことは、かねてからまた知っています。

世間の人々が「八幡大菩薩の本地は、阿弥陀仏である。右衛門大夫(池上宗仲)は、念仏を無間地獄に堕ちるといい、阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ、その堂を焼き払い、念仏者の首を斬れという者(日蓮大聖人)の、弟子檀那となっている。そのような者が、八幡宮を造ったとしても、八幡大菩薩が用いようとされないゆえに、この日本の国は他国に攻められるのである」といったときは、どのようにするつもりなのですか。しかるに、天はかねてこの事を知っておられたがゆえに、あなたを御造営の大番匠からはずされたのではないでしょうか。また八幡宮の境内にある神宮寺の造営の工事からはずされたのも天の御計いでありましょうか。

その故は、去る文永11412日に大風が吹いたが、これは、その年に他国(蒙古国)より攻めてくるべき前兆であった。風はこれ天地の使いであり、国の政治が粗雑ならば、暴風が吹くというのはこのことです。また今年428日を迎えてこの大風が吹きあれた。しかるに、426日は八幡宮の棟上げであったとうかがっている。3日の内に大風が吹いたことは疑いのないことである。もし蒙古の使者であるかのようにいわれているあなたが、八幡宮を造って、この大風が吹いたのであったならば、世人は笑い、また必ずとやかく言ったであろう。

かえすがえすも、今は穏やかな態度をして、造営の工事をはずされたことをあだんで、うらむような様子もなく、身なりも目だたないようにし、召使いなどもつれず、よい馬にも乗らないで、のこぎり、かなづちを手にもち腰につけて、常ににこやかな姿をしていなさい。もし、この事を一事でもたがえられるならば、今生には身を亡ぼし、未来世は悪道に堕ちるでしょう。かえすがえすも申しあげておきますが、わずかのことで法華経(御本尊)をうらんではなりません。恐恐。

五月廿六日                在 御 判

大 夫 志 殿

兵 衛 志 殿

 

 

上野殿御返事(法華経難信事)

里芋一俵をいただいた。

また神主のもとにいる御乳塩一匹ならびに口付き一人がいる。さて故五郎殿のことは、その嘆きは薄れないとは思うけれども、御見参は遠い昔のことのように感じられる。なおも、法華経をあだむことは絶えたとも思えないので、これからのちも何事かあるであろうけれども、いままで堪えてこられたことは本当とは思えないほどである。仏が説いて言われるには「火に入って焼けない者はあっても、大水に入って濡れない者はあっても、大山は空へ飛んでも、大海は天に上がっても、末代悪世に入ったときは少しの間であっても法華経は信じがたいことなのである」と。

徽宗皇帝皇帝は中国の君主であったが、蒙古国に捕らえられてしまった。隠岐の法皇は日本国の君主であったが、右京権大夫の北条義時に攻められて島で亡くなられた。法華経のゆえでさえあったならば即身に成仏されたことであろう。些細なことには身を破り命を捨てるけれども、法華経のゆえに不当な罪科にあおうと思う人はいないものだ。あなたは、これを身で試みられたのであろう。尊いことである。尊いことである。恐恐謹言。

弘安四年三月十八日         日 蓮  花 押

上野殿御返事

 

 

法衣書

御衣の布と単衣の布をたしかにいただいた。

さて食物は命をつなぎ、衣は身を覆うものである。食物を有情に施す者は長寿の報いを受け、人の食物を奪う者は短命の報いを受ける。衣を人に施さない者は世々存生に裸形の報いを受けるのである。六道のなかで人間界以下の衆生は皆裸形で生まれ、天界の衆生は随生衣である。其の中の鹿等は無衣で生まれるばかりでなく、前世で人の衣を盗んだために、人に身の皮をはがれて、盗んだ衣を償うという報いを得るのである。人のなかでも鮮白比丘尼は生まれる時に衣を被て生まれた。

仏法のなかでも裸形で法を修行することはない。ゆえに釈尊は摩訶大母比丘尼の衣を得て正覚を成ぜられたのであり、諸々の比丘には三衣を着ることが許されたのである。鈍根の比丘は衣食がととのわなければ阿羅漢果を得ることができないといわれている。特に法華経には「柔和忍辱衣」といって、衣を根本としている。また仏が法華経の行者を衣をもって覆われるとあるが、懇ろな義である。

 

 

大夫志殿御返事(付法蔵列記)

小袖一つ、直垂と袴の上下腰三具等たしかに受けとりました。小袖は金子七貫文、直垂と袴の三具は十貫文であるから、以上合わせて十七貫文に相当するものです。

よくよく考えてみるに、天台大師の位を章安大師が顕わしていうには「止観第一に序文を引いていわく『天台大師は安祥として禅定に入って遷化された。その位は法華経分別功徳品に説かれている五品の位に居られる。故に法華経分別功徳品には、四百万億那由佗の国の人に施すのに、一人一人に皆七宝を与え、またこれを教化して六神通を得せしめるとしても、なお未だ五品中第一の初隨喜の人には及ばないこと百千万倍である。况んや五品の位に達している人に及ぶわけがないと。また法華経法師品には、即ち如来の使いである。如来に遣わされて、如来の事を行ずるのである』」といっている。

伝教大師は天台大師について「今、我が天台大師は、法華経を説き、法華経を釈し、特に群を抜きんでて、中国中に独歩して並ぶ者がない」と。又いわく「天台大師が如来の使いであることは明らかに知ることができる。讃めたたえる者は須弥山の如き大いなる福を積み、謗る者は無間地獄に堕ちる罪を得る」といっている。このことはしばらくおく。

仏滅後の第一日から正像二千余年の間に、仏の御使いは二十四人である。いわゆる第一は大迦葉・第二は阿難・第三は末田地・第四は商那和修・第五は毱多・第六は提多迦・第七は弥遮迦・第八は仏駄難提・第九は仏駄密多・第十は脇比丘・第十一は富那奢・第十二は馬鳴・第十三は毘羅・第十四は竜樹・第十五は提婆・第十六は羅睺・第十七は僧佉難提・第十八は僧佉耶奢・第十九は鳩摩羅駄・第二十は闍夜那・第二十一は盤駄・第二十二は摩奴羅・第二十三は鶴勒夜奢・第二十四は師子尊者である。この二十四人は釈尊の記すところの「付法蔵経」に載せられている。ただし、これらの人々は小乗経や権大乗経を弘める御使いであって、いまだ法華経を弘める御使いではない。

しかるに三論宗がいうには「道朗・吉蔵は仏の使いである」と。また法相宗がいうには「玄奘・慈恩は仏の使いである」と。華厳宗がいうには「法蔵・澄観は仏の使いである」と。また真言宗がいうには「善無畏・金剛智・不空・慧果・弘法等は仏の使いである」と。

日蓮がこれを勘えてみるに、このうち三論、法相、真言等の人々は全く仏の使いではない。また大乗・小乗の使いでもない。このような人々を供養すれば、かえって災いを招き、逆にこれを謗ずれば福を得るのである。

問う、それは汝の自義なのか。答う、たとえ自義であっても、文があり、道理があるならば、何の科があろうか。しかりといえども、自義ではなく、これについて釈がある。伝教大師は「誰か福を捨てて、罪を慕うものがあろうか」といっている。この「福を捨てる」とは、伝教大師のいわんとする心によれば、天台大師を捨てることであり、「罪を慕う」とは、上に挙げたところの法相・三論・華厳・真言の元祖等を慕うことである。これらの諸師を捨てて一向に天台大師を供養する人の受ける福について、今から述べてみる。三千大千世界というのは東西南北・一の須弥山・六欲天・梵天を合わせて一つの四天下と名づけ、百億の須弥山・百億の四州すなわち四天下を集めたものを小千世界といい、この小千世界を千集めたものを中千世界、そして中千世界を千集めたのを大千世界といい、また三千大千世界という。

この三千大千世界を一つにして、四百万億那由佗もの国の六道の衆生を八十年間養い、法華経以外の已に説き、今説き、当(まさ)に説かんとする一切経を、一人一人の衆生に読誦させて、三明智六神力を得た阿羅漢や辟支仏や等覚の菩薩となした一人の檀那と、このような世間・出世間にわたる財の施を少しも施さず、法華経計りを一字でも、一句でも、一偈でも持つ人と、この二人を相対して、その功徳を論じてみるに、法華経の行者すなわち法華経の一字・一句・一偈を持つ人の功徳が勝れていること百千万億倍である。

しかも天台大師はこれより勝れていること五倍である。したがって、このような天台大師を供養すれば福を須弥山のごとく積むことになるのであると、伝教大師がはっきりといわれているのである。この仏法の道理をあなたの奥さんにも話してあげなさい。恐恐謹言。

大夫志殿御返事         花 押

 

 

諌暁八幡抄

さて、馬は一歳、二歳の時は、たとえ頸が伸び、関節のところは丸く、細く腕が伸びていても、病気があるであろうとも思われない。
 しかしながら、七、八歳等になって、身も肥え、血管も太く、上体の発達が勝り、四肢の発達が遅れていたときには、小船に大石を積んだように、小さい木に大きな果実がなったように、多くの病気が出てきて、人の役にも立たず、力も弱く、命も短い。
 諸天善神等も、また同様である。成劫の初めには過去世の果報が優れた衆生が生まれてくるうえ、人界に悪もないので、身の光沢も鮮やかに、心も潔く、日や月のように鮮やかに輝き、師子や象のように力強いが、成劫が次第に過ぎて住劫になるにつれて、先の諸天善神等は年をとって下旬の月のようになってしまう。今、生まれてくる諸天善神は果報が衰え減じ、下劣の衆生が多く出現してくる。
 そのため、天下に三災が次第に起こり、世の中に七難の多くが出現したので、一切衆生は初めて苦と楽とを痛感したのである。

このときに仏が出現されて、仏教という薬を天と人と神に与えられると、燈に油を差し、老人に杖を与えたように、諸天善神等は再び威光を増し、成劫の時のように勢力を増長したのであった。
 仏教は、また五種の味に分かれており、釈尊在世の衆生は成劫ほどではなかったけれども、果報がそれほど衰えていない衆生なので、五種の味のなかのどの味を嘗めても威光勢力を増した。
 仏滅度の後、正法・像法の二千年が過ぎて末法になると、元の天も神も阿修羅や大竜等も年もとって、身も疲れ、心も弱くなり、また、今、生まれてくる天人や修羅等は小果報であるか、あるいは悪天人等であり、小乗教や権大乗教等の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味を服しても、老人に粗末な食べ物を与え、高貴な人に麦飯等を差し上げるようなものである。
 ところが、当今の世に、これをわきまえない学者等が昔に倣って、日本国の一切の諸神等の前で阿含経・方等経・般若経・華厳経・大日経等を奉納し、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・浄土宗・禅宗等の僧を護持僧としているのは、ちょうど老人に粗末な食べ物を与え、小児にかたい飯を食べさせるようなものである。

ましてや、今の小乗経と小乗宗と大乗経と大乗宗は、昔の小乗・大乗の経や宗ではない。
 インドから仏法が中国に渡った時、小乗・大乗の諸経は仏の金言に私言が混じってしまった。諸宗もまた、インド・中国の論師や人師が小乗を大乗といって争ったり、大乗を小乗といったり、あるいは小乗に大乗を書きまじえたり、大乗に小乗を入れたり、あるいは先に説かれた経を後といって争ったり、後のを先としたり、あるいは先のを後につけたり、あるいは顕経を密経といい、密経を顕経といったりしている。たとえば、乳に水を入れ、薬に毒を加えるようなものである。
 涅槃経に仏が未来を予言して「その時にもろもろの賊は、醍醐味に水を加える。水を多く加えたために乳味・酪味・醍醐味の一切がともに失われる」等と説いている。
 阿含経である小乗経は乳味のようであり、方等経の大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のようであり、般若経等は生蘇味のようであり、華厳経等は熟蘇味のようであり、法華経・涅槃経等は醍醐味のようである。
 たとえ、小乗経が乳味であるといっても、仏説のとおりに行ずるならば、どうして一分の薬とならないことがあろうか。ましてやもろもろの大乗経、まして法華経においてはなおさらである。

ところが、インドから中国に経典を渡した翻訳者は百八十七人である。そのなかで羅什三蔵一人を除いて前後の百八十六人は、純乳な乳に水を加え、薬に毒を加えた人々である。
 この道理をわきまえない一切の人師や末学等が、たとえ一切経を読誦し、十二分経を学び尽くしているようであったとしても、生死の苦しみを離れることは難しい。
 また、現在に一分の効験があるようであっても、天神地祇が知るほどの効験のある祈りとはなるわけがない。魔王や魔民等が守護を加えて、法に効験があるようであったとしても、最後にはその身も檀那も安穏ではないであろう。
 例えば、先輩の医師が薬に毒を混ぜておいたのを、その医師の弟子らが盗み取ったり、あるいは自然に手に入れて人の病を治そうとするようなものである。どうして安穏でありえようか。
 当世の日本国の真言等の七宗、ならびに浄土宗や禅宗等の諸学者等は、弘法や慈覚や智証等が法華経最第一の醍醐味に法華最第二・第三等の私見の水を入れたのを知らないでいる。仏説のとおりであるならば、どうして「一切倶に失われる」という大罪を免れることができようか。
 大日経は法華経より劣ること七重である。それなのに、弘法等が顛倒して大日経最第一と定めて日本国に弘通したのは、法華経という一分の乳に大日経という七分の水を入れたようなものである。
 それは、水でもなく乳でもないように、大日経でもなく法華経でもない。しかも、法華経に似て大日経に似ている。
 釈尊はこのことを涅槃経に記して「我が滅後に正法が滅尽しようとするときに多くの悪を行ずる僧があるであろう。(中略)牛飼い女が、乳を売るにあたり、多くの利益を得ようと思って二分の水を加えるようなもので(中略)この乳は水気が多い。そのときに、この経が全世界に広く流布するであろう。このときにもろもろの悪僧がいて、この経をかすめ取り、多くに分けて、よく正法の色・香・美味を滅失するであろう。このもろもろの悪人は、また、このような経典を読誦するといっても、仏の深密の根本の教えを滅除することになる。(中略)前の部分を取って後に付け、後の部分を取って前に付け、前後の部分を中に付け、中の部分を前後に付けるであろう。このようなもろもろの悪僧は魔の仲間であると知るべきである」等といっている。

今、日本国を考えてみるに、代が始まってから既に久しい時が経った。昔からの守護の善神は、きっと福運も尽き、寿命も減り、威光勢力も衰えているのであろう。
 仏法の法味をなめてこそ威光勢力も増長するのに、仏法の法味は皆、違ったものとなってしまっている。歳はとってしまった。どうして、国の災いをはらい、氏子を守護することができよう。
 そのうえ、謗法の国であるのを、氏神だからといって大罪を戒めずに守護したので、仏前の誓いを破る神となったのである。
 それでも、氏子なので愛しい子の過ちのように見捨てずに守護してきたので、法華経の行者を怨む国主や国民等を対治を加えずに守護する罪によって、梵天や帝釈天等から八幡大菩薩等は罰せられたのであろうか。このことは一大事であり、秘すべきである、秘すべきである。
 ある経のなかに「仏はこの世界と他方の世界の梵天・帝釈天や日天・月天や四天王や竜神等を集めて『我が正法・像法・末法の持戒や破戒や無戒等の弟子等を、第六天の魔王や悪鬼神等が人王や人民等の身に入って悩まし乱すのを、見ながら聞きながら治罰しないで、しばらくのあいだも過ごすならば、必ず梵天・帝釈天等が使いをやって四天王に命じて治罰を加えよ。もし氏神が治罰を加えないならば、梵天・帝釈天や四天王等も守護神に治罰を加えよ』と仰せられたところ、梵天・帝釈天等も同じく『必ず、この世界の梵天・帝釈天や日天・月天や四天等を治罰するであろう。もし、そうでなければ、三世の諸仏の出世に生まれ合うことなく、永く梵天・帝釈天等の位を失って無間地獄に沈むであろう』と釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の御前で誓いを書き置かれた」とある。

今、このことを考えてみると、八幡が日本という小国の王となり神となられたのは、小乗教では三賢の位の菩薩、大乗教では十信の位の菩薩、法華経では名字即・五品の位の菩薩である。どのような氏神がいて、尽きることのないほどの功徳を修したとしても、法華経の名を聞かず、一念三千の観法を守護しないならば、退位の菩薩となって、永く無間地獄に沈むであろう。
 ゆえに、扶桑略記には「また、伝教大師は八幡大菩薩のために神宮寺で自ら法華経を講じた。そこで、大神は聞き終わって、お告げして『私が正法を聞かなくなって久しく歳月が経っている。幸いに和尚に遇って正教を聞くことができた。まえまえから私のために種々の功徳を修してくれた。心から喜んでいる。どのようにしたら、その徳を謝することができよう。まえから私が所持している法衣がある』と言って、すなわちお告げの主は自ら宝殿を開いて、自分の手で紫の袈裟一つと紫の衣一つを捧げ、『大悲力をもって納めていただければ幸いです』と和尚に差し上げた。このときに、禰宜や祝人等は各々感嘆し不思議がって『今まで、このような珍しいことを見たことも聞いたこともない』と述べた。この大神の施された法衣は、今、山王院にある」と記されている。
 今、思うに、八幡大菩薩は人王第十六代の応神天皇である。その時代は仏経がなかったので、ここに袈裟や衣があるはずがない。
 人王第三十代の欽明天皇の治世三十二年に神と顕れられ、それ以来、弘仁五年までは、禰宜や祝人等が順次に宝殿を守護してきている。どの王の時に、この袈裟を納めたと理解したらよいのか。
 禰宜等は「もとから見たこともないし、聞いたことがない」等と言っている。この大菩薩はどのようにして、この袈裟と衣を持っておられたのか。不思議である、不思議である。

また、欽明天皇以来、弘仁五年に至るまでは、王は二十二代を経、仏法は二百六十余年経っている。その間に三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗・禅宗等の六宗七宗が日本国に渡ってきており、八幡大菩薩の御前で経を講ずる人々は数知れない。また、法華経を読誦する人も、どうしていないことがあろうか。
 また、八幡大菩薩の御宝殿の傍らには神宮寺といって法華経等の一切経を講ずる堂が、伝教大師以前にあったのである。そのとき、きっと仏法を聞かれたことであろう。
 どうして、今始めて「私が正法を聞かないでいて久しく歳月が経っている」とお告げなされたのであろうか。
 どんなにか多くの人々が法華経や一切経を講じられたのに、どうしてこの御袈裟と衣を差し上げられなかったのであろうか。

まさに、伝教大師以前の人は法華経の文字だけは読んだけれども、その義はいまだあらわれていなかったものと理解すべきであろう。
 去る延暦2011月の中旬ごろ、伝教大師が比叡山で南都七大寺の六宗の碩徳十余人を招請して、法華経を講じられたところ、和気広世と真綱の二人の臣下はこの法門を聞いて、嘆いて「法華一乗が権教にさえぎられとどこおっていたのを嘆き、三諦円融の理がいまだあらわれていなかったのを悲しむ」と言い、また「年のいった者も、いかない者も、三界の煩悩を砕き破りながら、いまだ権教で説く歴劫修行の轍を改めていない」等と言っている。
 その後、延暦21年正月19日に高雄寺に桓武天皇が出かけられて、六宗の碩徳と伝教大師とを召し合わされて、宗旨の勝劣をお聞きになられたところ、南都の14人は皆、口を閉じて鼻のようにしてしまい、後に重ねて詫び状を献上したのである。その状には「聖徳太子が仏教を弘め教化されて以来、今に至る二百余年の間、講じられた経論の数は多い。お互いに法理の優劣を争い、その疑問は解けず、しかも、この最妙の円宗は、いまだ明らかになっていなかったのである」等とある。このことから思うに、伝教大師以前には法華経の御心はいまだあらわれていなかったということである。八幡大菩薩が「これまで見たことも聞いたこともない」と言ったのは、まさしくこのことをさしていることが明らかである。
 法華経巻四の法師品第十には「私の入滅の後に、よくひそかに一人のためにも法華経を説くならば、まさに、この人は如来の使である、と知るべきである。(中略)如来はすなわち衣をもって、この人を覆われるであろう」等とある。
 未来の弥勒仏は法華経を説かれるがゆえに、釈迦仏は大迦葉尊者を御使いとして衣を贈られたのである。また、伝教大師は仏の御使いとして法華経を説かれたがゆえに、八幡大菩薩を使いとして衣を贈られたものであろうか。

また、この大菩薩は伝教大師以前には、水を加えて薄めたような法華経を服しておられたけれども、前世の善根により大王として生まれられた。
 その善根の余光で神と顕れてこの国を守護されているうちに、今では前世の福徳の余光も尽きてしまい、正法の法味もなくなった。
 謗法の者等が国中に充満して年久しくなるけれども、日本国の衆生に長いあいだ尊まれ、なじんできたために、衆生に大罪があっても見捨てがたく思われ、年とった者が不幸な子を見捨てないようにしていて、天の責めにあわれたものであろうか。
 また、この袈裟は法華経最第一と説く人こそが懸けられるべきで、伝教大師の後は、第一代座主・義真和尚は法華最第一とした人なので懸けられて当然である。
 第二代座主・円澄大師は、伝教大師の御弟子であるけれども、また、弘法大師の弟子でもあり、少し謗法のようにみえる。子の袈裟を懸けるべき人ではない。
 第三代座主の円仁・慈覚大師は、名は伝教大師の御弟子であるけれども、心は弘法大師の弟子であり、大日経を第一、法華経を第二とする人である。この袈裟は全く懸ける資格がない。たとえ懸けたとしても、法華経の行者ではない。
 そのうえ、また、今の世の天台座主は全く真言の座主である。また、今の世の八幡神社の別当は園城寺の長吏か、あるいは東寺の末流の者である。これらは遠くは釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵であり、近くは伝教大師の讐敵(しゅうてき)である。例えば、提婆達多(だいばだった)が大覚世尊の御袈裟を懸けたようなものであり、また、猟師が仏の衣を着て師子の皮を剝いだようなものである。
 今の世の比叡山の座主は、伝教大師が八幡大菩薩からいただいた御袈裟を懸けて、法華経の領地を奪い取って真言の領地としている。例えば、阿闍世王が提婆達多を師としたようなものである。そうであるのに、八幡大菩薩がこの袈裟を剝ぎ、奪い返されないのは、第一の大きな過ちである。

この大菩薩は法華経の会座で、法華経の行者を守護するとの誓いを書きながら、数年のあいだ法華経の大怨敵を治罰しなかったことは不思議であるのに、そのうえ、たまたま法華経の行者が出現したのに、来て守護をもしないのみでなく、自分の目の前で、犬が猿を噛み、蛇が蛙を飲み、鷹が雉を、師子王が兎を殺すかのように国主等が法華経の行者を迫害しているのを、一度も戒めず、たとえ戒めるようであっても本心からではないゆえに、梵天・帝釈天や日天・月天や四天王等の責めを八幡大菩薩が受けられたのであろう。
 例えば、欽明天皇・敏達天皇・用明天皇という三代の大王が、物部大連・守屋等の勧めによって、命令を下して金銅の釈尊像を焼き、堂に火を放ち、僧尼を責めたので、天から火が降ってきて内裏を焼いてしまった。そのうえ、日本国の万民は罪なくして悪性のできものを病んで、死ぬ者は大半を越えた。結局、三代の大王・二人の大臣・その他、多くの王子や公卿等が、悪性のできものか、あるいは合戦によって滅んでしまわれたようなものである。そのとき、日本国の多くの神が住まわれていた宝殿は皆、焼失してしまった。釈迦仏に敵対する者を守護された大罰である。
 また、園城寺は比叡山延暦寺以前の寺であるけれども、智証大師の真言を伝えている寺で、今は長吏と称している。
 比叡山の末寺であることは疑いないのに、比叡山の得分である大乗の戒壇を奪い取って園城寺に建立して、比叡山に従うまいとしたことは、例えば、小臣が大王に敵対し、子が親に逆らうようなものである。このような悪逆の寺を、新羅大明神が誤って守護するゆえに、たびたび比叡山の僧徒によって宝殿を焼かれたのである。
 同様に、今、八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して、天の火に焼かれたのであろう。例えば、秦の始皇帝の先祖の襄王という王は神となって始皇帝等を守護されたが、秦の始皇帝は大慢心を起こして三皇五帝の典籍を焼き、三聖の孝経等を失ったので、沛公という人が剣をもって秦王朝の氏神である大蛇を切り殺した。その後、秦の代は間もなく滅びてしまった。これも、また同様である。
 安芸の国の厳島の大明神は平家の氏神であるが、平家をおごらせた罪によって、伊勢大神宮や八幡大菩薩等に神罰を受けて征伐され、その後、平家は間もなく滅びてしまった。これも、また同様である。

法華経の第四に「仏の滅度の後に、能く其の義を解する人は諸の天人世間の眼である」等と説かれている。日蓮が法華経の肝心である題目を日本国に弘通しているのは、これすなわち「諸の天人世間の眼」ではないか。
 眼には五ある。すなわち肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼である。この五眼はみな法華経から生ずるのである。ゆえに観普賢菩薩行法経に「この方等経は、これ諸仏の眼である。諸仏はこれによって五眼を具えることができたのである」等と説かれている。このなかで「方等経」とあるのは法華経をいうのである。また同じく観普賢菩薩行法経に「人天の福田であり、応供のなかの最たるもの」等と説かれている。
 これらの経文のごとくであれば、妙法蓮華経は人天の眼であり、二乗や菩薩の眼であり、諸仏の御眼である。ゆえに、法華経の行者を怨む人は人天の眼をえぐる者であり、その人を罰しない守護神は一切の人天の眼をえぐる者の味方をしている神である。
 しかるに弘法、慈覚、智証等は、間違いなくその著書に「法華経は無明の分際で、明の分位ではない」「後の勝れた経に比べれば戯れの論である」「力者に及ばず、履物取りにも足りない」と書きつけている。それ以来四百余年、日本国中の上一人から下万民に至るまで法華経を侮らせ、一切衆生の眼をえぐる者を守護しているのは、八幡大菩薩ではないか。
 去る弘長元年と文永八年九月十二日に、日蓮にはいささかの失もないのに、ただ南無妙法蓮華経と唱えたことを大科に、国主の計らいであるとして八幡大菩薩の御前を引き回し、国中の謗法の者どもに日蓮を嘲笑させたのは、八幡大菩薩の大科でなくてなんであろうか。
 八幡大菩薩が謗法者を戒められたと思われるのは、ただ北条一門の同士討ちぐらいなものである。
 日本国の賢王であったうえ、第一、第二を争う神であるから、八幡大菩薩に勝れた神はよもやいない。また、偏頗であることはよもやあるまいと思うけれども、一切経ならびに法華経の文にある定めに照らせば、謗法の者を厳然と処罰しないこの神は、大科の神である。

日本六十六か国、二つの島にある一万一千三十七の寺々の仏は皆、画像であれ木像であれ、また真言宗以前からの寺であれ、それ以後の寺であれ、すべて、法華経から出生した仏であって、法華経をもって眼とするはずである。このことは「この方等経はこれ諸仏の眼である」等と観普賢菩薩行法経に説かれ、妙楽大師も「しかもこの経は、常住仏性をもって咽喉とし、一乗の妙行をもって眼目とし、再生敗種をもって心腑とし、顕本遠寿をもってその命となす」等といっているとおりである。
 しかるに、日本国で、真言師だけでなく諸宗そろって、仏眼の印をもって開眼し、大日の真言をもって五智を具すとしているのは、法華経によって仏になった衆生を、真言の方便権経をもって供養するのであるから、かえって仏を殺し、眼をくじり、命を断ち、喉を裂いたりしている人々である。このことは提婆達多が教主釈尊の身から血を出し、阿闍世王が提婆達多を師として現罰を受けたのに比べても劣らないであろう。
 八幡大菩薩は応神天皇で小国の王である。阿闍世王は摩竭陀国という大国の大王であり、天と人、王と民ほどの勝劣がある。しかるに、阿闍世王さえ釈迦仏に敵対して身に悪瘡を病んだのである。八幡大菩薩がどうしてその科をまぬかれることができようか。
 去る文永十一年に、大蒙古国が寄せてきて日本国の兵を多数、攻め亡ぼしただけでなく、八幡大菩薩の宮殿も焼かれてしまった。そのときになぜ、蒙古国の兵を罰せられなかったのか。これらのことから推量して、彼の国の大王が日本国の神の力に勝っていたことは明らかである。襄王という神は漢土第一の神であったが、沛公の利剣によって切られてしまった。このことをもって考えるべきである。

道鏡法師が称徳天皇の寵愛を得て天皇になろうとしたとき、和気の清丸が祈請したが、そのときの八幡大菩薩の御託宣に「神にも大小好悪がある。(中略)彼は多く我は寡ない。邪は強く正は弱い。ゆえに仏力の加護を仰いで皇位継承を紹隆すべきである」等とある。このことから八幡大菩薩は正法を力として王法を守護されたことが明らかである。
 承久の乱において朝廷方は比叡山や東寺等の真言の邪法をもって権の大夫殿の調伏を祈願されたので、かえって権の大夫殿が勝ち、隠岐の法皇は負けてしまわれたのである。経文に説かれている「還著於本人」とはこのことである。

今また、日本国の一万一千三十七の寺、ならびに三千百三十二社の神は国家安穏のために崇められているが、それらの寺々の別当等、それらの神社の神主等は皆々、彼らが崇めるところの本尊や神の御心に相違している。
 その仏と神とはさまざまで、その身は異体であるが心は同一で、皆、法華経の守護神なのである。ところが、別当や社主等はあるいは真言師であったり、念仏者であったり、禅僧であったり、律僧であったりして、皆、一同に八幡大菩薩等の敵となっている。
 それなのに、八幡は謗法や不孝の者を守護されて、正法の法華経を持つ行者を流罪、あるいは死罪等に行わせたために、天の責めを被られたのである。

我が弟子等のなかで、謗法の残りがある者が考えていうのに「この御房は八幡大菩薩を敵にしている」云云と。
 これらの非難は、道理があるのにもかかわらず祈りの法が成就しない場合は本尊を責める、ということを、いまだ知らない者が考えることである。
 付法蔵経という経に大迦葉尊者の因縁を説いていうのに「時に摩竭陀国に婆羅門がいて、尼倶律陀という名であった。過去の世において久しく勝れた業を修した功徳によって、現世に豊かな財宝を有し、巨万の富を蔵していた。摩竭陀国王に比べても、千倍も勝る財宝であった。ところが、財宝は豊かではあったが子供がなかった。彼は〝老衰して死が近づいてきたが、庫に蔵した財宝を譲る者がいない〟と思った。尼倶律陀婆羅門の館の近くに樹林神が祭ってあった。尼倶律陀は子供がほしい一心で、その樹林神に詣で祈請した。ところが年月を経ても、なんの験もなかった。尼倶律陀は大いに怒り、樹林神に向かって『我は汝に仕えてすでに数年を経るが、およそ一つの福報も垂れていない。今また七日間、誠実に汝に仕えてみるが、もしそれでも効験がなければ、汝の祠を焼き払うであろう』と言った。樹林神はこれを聞いて大いに憂え、四天王に詳しく申し述べた。四天王は更に、帝釈天のところに行って言上した。帝釈天が閻浮提のうちを観察したところ、福徳の尼倶律陀の子となるに堪える人が見あたらなかった。そこで帝釈天は梵天王に詣で、詳しくこのことを申し上げた。そのときに梵天王は天眼をもって観るに、梵天でまさに命終に臨む者があった。そこで梵天王はその梵天に告げていうのに『汝がもし梵天界から降りたならば、彼の閻浮提界の尼倶律陀婆羅門の家に生まれよ』と。梵天が答えていうのに『婆羅門の法には悪見、邪見が多いから、私はそのような者の子となることはできません』と。梵天王がまたいうのに『彼の婆羅門は大威徳があって、閻浮提のうちの人で、彼の子となって生まれるに堪える者がいない。汝がもしその子となって生まれたならば、我は汝を護り、汝をして邪見に入らぬようにしてあげよう』。梵天がいう。『承知しました。仰せのとおりにいたします』。そこでこのことを帝釈天に、帝釈天が樹林神に伝えた。樹林神は歓喜して尼倶律陀婆羅門の家に行っていうには『汝は、もはや我を怨んではならない。これから七日後に卿の願を満たすであろう』と。七日して、はたして婆羅門の妻が身ごもり、十月を経て一男児を産んだ。それが今の大迦葉である」云云と。 
 ここに「尼倶律陀は大いに瞋りを生じた」等とある。普通ならば、氏神に向かって大瞋恚を生ずる者は今生には身を滅ぼし、後生には悪道に堕ちるであろう。しかし、尼倶律陀長者は氏神に向かって大悪口、大瞋恚を生じて大願を成就し、賢子を設けられたのである。このことからも瞋恚は善悪に通ずるものであることを知るべきである。

今、日蓮は、去る建長5428日から今年弘安312月に至るまで、28年の間、他事は一切なく、ただ、妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れようと励んできただけである。これはちょうど、母親が赤子の口に乳をふくませようとする慈悲と同じである。
 このような法華経の弘通はこれは時節が到来したからであって、今はすでに仏記の第五の五百年にあたっている。天台大師や伝教大師の御時は、いまだその時期に至っていなかったが、一分の機類があったから法華経を少々、流布したのである。ましてや今は、すでに時期が到来している。たとい機がなくて水火のように反発してきたとしても、どうして法華経を弘通せずにはいられようか。
 ただ不軽菩薩のように、大難に値ったとしても、この大法が流布する事は疑いないのに、真言、禅、念仏者等の讒奏によって無智の国主等が迫害して難を加えている。これを対治すべき氏神の八幡大菩薩は彼ら謗法者を治罰しないので、日蓮が氏神を諌暁するのは道理に背くことであろうか。これは尼倶律陀長者が樹神を諌めたのと道理は同じである。
 蘇悉地経に「本尊を治罰することは鬼魅を対治するごとくせよ」等とある。文の心は、経文のとおり所願を成就するために、数年の間修行をしても成就しない場合は、本尊をあるいは縛り、あるいは打ったりなどして責めよ、というのである。相応和尚が不動明王を縛り上げたのはこの経文をみたからであろう。
 日蓮の場合は、他に比較するものがないぐらいである。日本国のあらゆる善人は、あるいは戒を持ち、あるいは布施を行じ、あるいは父母等の孝養のため寺塔を建立し、あるいは成仏得道のために妻子を養うべき財宝を節約して諸僧に供養したりしているが、その僧が謗法の者であるために、あたかも謀叛人であることを知らずに宿を貸し、不孝の者と知らずに夫婦になったようなもので、今生には災難を招き、後生も悪道に堕ちるべきところを日蓮は助けようと努めているのである。
 それを日本国を守護すべき善神等が彼ら謗法の者に味方をして、正法の敵となってしまっているから、これを責めるのは経文のとおりであり、道理にかなっていることである。

我が弟子のなかに愚かな思案をして「我が師が法華経を弘通しようとして広まらないうえ、かえって大難がきているのは『真言は国を亡ぼし、念仏は無間地獄に堕ち、禅は天魔の所為であり、律僧は国賊である』といわれるからである。たとえば当方に道理がある訴訟のなかに、わざわざ悪口雑言をまじえるようなものである」などという者がいる。
 そうした弟子に反詰して日蓮がいう。「汝、もしそれならば我が問いに答えよ。一切の真言師、一切の念仏者、一切の禅宗等に向かって、南無妙法蓮華経と唱えよと勧めると、彼らのなかの真言師は『我が弘法大師は法華経を戯論といい、釈迦仏を無明の辺域で明の分際ではない、力者に及ばず、履物取りにも及ばないといわれている。そのような物の用に立たない法華経を読誦するよりも、それを唱える口で我が真言の小呪を一遍でも唱えた方がよい』と。一切の在家の者は『善導和尚は法華経を千中無一と下し、法然上人は捨閉閣抛、道綽禅師は未有一人得者と定め置かれた。汝が勧める南無妙法蓮華経は我が念仏の障りとなるから、我らはたとえ悪業をつくることがあっても題目だけは唱えない』といい、一切の禅宗は『我が宗は教外別伝といって、一切経の外に伝えられた最上の法門である。一切経は月をさす指のようなものであり、禅の法門は月そのものである。天台等の愚人は指にとらわれて月を見失っているようなものである。法華経は指であり、禅は月である。月を見て後、指はなんの用があるというのか』などという。このように申すときは、どのようにして南無妙法蓮華経の良薬を彼らの口に入れられるというのか」と。

仏は、しばらく阿含経を説かれて後、阿含経を修行する行者を法華経へ導き入れようと計らわれたとき、一切の声聞等がただ阿含経に執着して、法華経に入らなかったのに対し、どのように計らわれたであろうか。このことについて仏は「たとい五逆の罪をつくっても、また五逆を犯した者を供養するとも、その罪悪が仏になる種子とはなっても、彼らの善根は仏種とはならない」と説かれたのである。小乗、大乗の違いはあっても同じ仏説である。大乗が小乗を破折して、小乗の者を大乗に引き入れようとされたのと、更に大乗を破折して実大乗の法華経に入れようとするのと、破折の対象である法が大乗、小乗の違いはあっても、法華経に導き入れようとする志は一つである。
 したがって無量義経に権大乗経を破折して「未顕真実」と説かれ、法華経には「このことはまことに不可である」と説かれている。仏は自ら「我世に出て華厳、般若等の諸経を説き、法華経を説かないで涅槃に入るならば、愛子に財を惜しみ、病者に良薬を与えずして死ぬようなものである。我は自ら地獄に堕ちるであろう」と仰せられている。ここで「不可」というのは地獄の名である。
 いわんや法華経が説かれた後も、爾前の諸経に執着して法華経に心を移さない者は、大王の命に臣民が従わないようなものであり、親に子が会おうとしないようなものである。たとい法華経を破折していなくても、爾前の諸経を讃嘆するのは法華経を謗ることにあたる。
 妙楽大師は法華文句記で「もし、昔を称嘆するならば、これは今を毀謗することではないか」と、また「発心しようと思っても、偏円の区別をせず、仏の誓いの境を解らなければ、未来に法を聞くとしても、どうして謗法を免れることができようか」といっている。

真言宗の善無畏、金剛智、不空、弘法、慈覚、智証等は、たとえ法華経を大日経と比較相対し、その勝劣を論じないで、ただ大日経を弘通しただけだったとしても、仏滅後に生まれた三蔵であり人師であるから、とうてい謗法を免れることはできまい。
 ましてや善無畏等の三三蔵は、「法華経は略説で、大日経は広説である」として両経を同等にし、しかも法華経の行者を大日経へ欺き入れた者であるし、弘法等の三人は法華経の名を挙げて戯論などと書いており、その大なる誤りを隠して、この四百余年の間に、一切衆生を皆、謗法の者としてしまった。
 例えていえば、大荘厳仏の末の時代の四比丘が、六百万億那由佗の人々を皆、無間地獄に堕としたのと、師子音王仏の末の勝意比丘が、無量無辺の持戒の比丘、比丘尼、うばそく、うばいを皆、阿鼻大城に導いたと、今の三大師の教化に従って日本国の四十九億九万四千八百二十八人、あるいは日本紀に行基がいう人数、男女四十五億八万九千六百五十九人云云の一切衆生、また四十九億等の人々が、四百余年の間に、死んで無間地獄に堕ち、その後他方世界から生まれてきた人々も、また死んでは無間地獄に堕ちてしまったのである。
 このようにして、無間地獄に堕ちた者は大地微塵よりも多い。これらは皆、三大師の科なのである。
 このようなありさまを日蓮が大いに見ながら、知らぬふりをしてこれを言わなければ、ともに堕地獄の者となって、一分の科もない身が十方の大阿鼻地獄を経めぐることになるであろう。どうして身命を捨て、謗法を責めずにいられようか。
 涅槃経に「一切衆生が種々の苦しみを受けるのは、ことごとくこれ如来一人の苦である」等と説かれている。
 日蓮も同じく「一切衆生の同一に受ける苦は、ことごとくこれ日蓮一人の苦である」と言うのである。

平城天皇の治世に、八幡大菩薩の託宣に「我は日本の鎮守の八幡大菩薩である。百王を守護する誓願をもっている」等とある。
 今、人がいうのに「人王八十一代、八十二代の隠岐の法皇、八十三代、八十四代、八十五代の諸王が、臣下のために破られ、その後の二十余代の諸王も今では、捨ててしまわれた。八幡大菩薩の誓願は破られてしまったようである」と。
 日蓮が考えていう。「百王を守護するというのは、正直な王を百人守護すると誓われたのである。八幡大菩薩の御誓願に「『正直の人の頂をもってすみかとし、諂曲の人の心をもって宿らず』等といわれているからである」と。
 月は清水に影を映すが、濁水に映すことはない。王というのは元来、不妄語の人である。右大将家や権の大夫殿は不妄語の人であったから、八幡大菩薩が正直の人の頂にすむといわれた百皇の中に入っているのである。
 正直に二ある。一には世間の正直である。王の字には天、人、地の三を貫くという義があり、それを王と名づけるのである。天、人、地の三は横で、貫いている点は縦である。王というのは黄帝のことで中央の名である。天の主、人の主、地の主を王という。
 隠岐の法皇は名は国王であったが、身は妄語の人で道に外れた人であった。権の大夫殿は名は臣下であったが、身は大王であり、不妄語の人であったから、八幡大菩薩がすみかとしたいと願われた頂であった。

二に出世の正直というのは、爾前の諸経や七宗等の経論釈は妄語であり、法華経ならびに天台宗は正直の経釈である。
 本地はこの不妄語の経を説かれた釈迦仏で、垂迹は不妄語の八幡大菩薩である。八葉の蓮華は八幡大菩薩であり、中台は教主釈尊である。
 四月八日、寅の日に生誕され、八十年を経て二月十五日、申の日に入滅されたことは、教主釈尊が日本国に八幡大菩薩と生まれ給うたものではないか。
 大隅の正八幡宮の石の文に「昔は霊鷲山にあって妙法華経を説き、今、正宮の中にあって大菩薩と示現す」等と記されている。
 法華経の譬喩品第三に「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等と説かれ、また如来寿量品第十六には「常に霊鷲山に在って説法教化す」等と説かれている。
 それゆえ、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子であり、近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子である。
 今、日本国の一切衆生は八幡大菩薩を頼りにして大事にしながら、釈迦仏を捨てているのは、影を敬って体を侮り、子に向かって親を罵っているのと同じである。
 本地は釈迦如来として、月氏国に出現されて正直捨方便の法華経を説かれ、垂迹は八幡大菩薩として日本に生れて、正直な人の頂にすまわれるのである。
 もろもろの権化の人々の本地は法華経の一実相であるが、垂迹の法門は無量である。いわゆる跋倶羅尊者は、三世にわたって不殺生戒を示し、鴦崛摩羅は、生々世々に殺生を示している。舎利弗は外道となった。このように各門が不同であることは、もと凡夫であったときの初発得道の始めを、成仏して化他門に向かうときに、我が得道の門はこれであったと示すためである。
 妙楽大師は「若し本地に従って説くならば、かくのごとく過去世に殺生等の悪業の因縁によって、よく生死を出離したのであるから、垂迹の場合においてもまた、これをもって利他の法門とするのである」等といっている。

八幡大菩薩は本地身としては月支国において不妄語の法華経を説かれ、その垂迹身として、日本国において彼の法華経を正直の二字として「賢人の頂き宿らん」と誓われたのである。
 したがって、この大菩薩は宝殿を焼いて天に昇られても、法華経の行者が日本国にあるならば、その行者の住処をすみかとされるはずである。

法華経の第五の巻・安楽行品第十四に「諸天は昼夜に常に法のためのゆえに、これを衛護する」と説かれている。
 この経文のとおりであれば、南無妙法蓮華経と唱える人を大梵天王、帝釈天、日月、四天等が昼夜にこれを守護されるわけである。
 また第六の巻・如来寿量品第十六には「あるいは己身を説き、あるいは他身を説き、あるいは己身を示し、あるいは他身を示し、あるいは己事を示し、あるいは他事を示す」とある。
 観音菩薩は三十三身を現じ、妙音菩薩はまた三十四身を現じられる。教主釈尊がどうして八幡大菩薩と現じられないことがあるだろうか。天台大師は「すなわち、形を十界に垂れて種々の像を作す」等といわれている。

天竺国を月氏国というのは仏の出現し給うべき国名である。扶桑国を日本国という。どうして聖人が出現されないはずがあろうか。月は西より東へ向かうものであるが、それは月氏の仏法が東のほうへ流布する相である。日は東から出る。日本の仏法が月氏国へ還るという瑞相である。月はその光が明らかでない。それと同じように仏の在世はただ八年である。日の光明は月に勝っている。これは五の五百歳・末法の長き闇を照らす瑞相である。
 仏は法華経を誹謗する者を治されることはなかった。それは在世に謗法の者がいなかったからである。末法には必ず一乗法華経の敵が充満するであろう。ゆえに不軽菩薩の折伏逆化によって利益するのである。おのおの我が弟子等、ますます信心に励まれるべきである。
 弘安三年太歳庚辰十二月  日      日 蓮  花 押

 

 

智妙房御書(八幡天上由来)

銭一貫文を送っていただいて、法華経の御宝前に申し上げた。

なによりも故右大将源頼朝の御廟と御墓が焼けてしまったことを承わって嘆いていたのに、また八幡大菩薩ならびに若宮の焼失されたとのこと、どんなにか人々が嘆いていることであろう。

世間の人々は八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身といっている。それも中古の人々の言であるならば、そういうこともあろうか。 ただし大隅の正八幡宮の石の銘文には、一方には八幡という二字があり、一方には昔霊鷲山にあって妙法蓮華経を説き、今正八幡宮の中にあって八幡大菩薩と示現している等と記されている。インドにおいては釈尊として現われて法華経を説かれ、日本国においては八幡大菩薩と示現して正直の二字をたもつものを守護するとの誓いを立てられたのである。教主釈尊は住劫第九の減劫の中、人寿が百歳の時代の甲寅四月八日中インドに誕生され、八十年を経て壬申二月十五日御入滅なられている。八幡大菩薩は日本国第十六代の応神天皇として甲寅四月八日に誕生されて、御年八十歳の壬申二月十五日に崩御されている。釈迦仏の化身であるということは、だれびとが言い争うことができよう。しかしながら、今日本国の四百五十八万九千六百五十九人の一切衆生は善導・慧心・永観・法然等の大天魔にたぶらかされて釈尊を投げ捨てて阿弥陀仏を本尊としている。あまりにものにとりつかれて生気を失って、釈尊入滅の二月十五日を奪い取って阿弥陀仏の日となし、釈尊誕生の四月八日を紛かして薬師仏の日と言ったり、あまりにも親である釈尊を憎く思って八幡大菩薩を阿弥陀仏の化身であると言ったりしている。これは八幡大菩薩を大事にしているようであるけれども、八幡大菩薩の御敵となっいるのである。

知らなければそのまま済んだであろうが、日蓮がこの二十八年間、法華経の譬喩品第三の「今此三界」の文を引いてこの迷妄を示したときに、信じないにしてもそれなりの対応があるべきなのに、射たり、切ったり、殺したり、流したり、追放したりするがゆえに、八幡大菩薩は住所を焼いて天へ昇られたのであろう。日蓮が考えて著した立正安国論の中に述べているのは、これである。かわいそうに、他国から攻めてきて、鷹が雉を捕えるように猫が鼠を噛むように責められるとき、尼や女房どもがあわれなことであろう。日蓮が一門を二十八年の間、責めてきた報いとして、あるいは射殺され、切り殺され、あるいは生け捕りにされ、あるいは他の所に連れて行かれ、平宗盛が縄に縛られて晒されたように数千万の人々が縄に縛られて責められるであろう。なんと、かわいそうなことか。しかしながら日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なので、そのように責められるのを天も悦び、仏も許されることはないであろう。哀れなことである、哀れなことである。恥をみないうちに、阿闍世王が提婆達多を戒めたように真言師や念仏者や禅宗の者達を戒めて、少しでも罪を緩くするようにすればと思うのである。人々を誑かし惑わす輩達が智者みたいであるので本当であると思ってもてなしているのは、おかしなことであり、そのためにそうしたかなしい目にあうのはなんとも哀れなことである。恐恐謹言。

十二月十八日                              日蓮花押

ちめう房御返事

 

 

兵衛志殿御返事(兄弟同心御書)

私が読むところの法華経も本門と迹門とが和合して功徳を無量に顕わすのである。あなた方二人(宗仲・宗長兄弟)もまたこのように、兄弟二人が心を合わせて大御所・守殿(北条時宗の館)・法華堂・八幡宮などを造営せられたなら、これは全く法華経(御本尊)の大功徳と確信しきっていきなさい。

あなた方兄弟二人が団結した姿は、ちょうど車の両輪のごとく、また鳥の二つの翼のようなものである。

たとえ、あなた方の妻子同士が仲違いをするようなことがあっても、兄弟二人の仲は、不和になってはなりません。

僭越ですが、日蓮のことを尊敬して互いに心を合わせていきなさい。もし、兄弟の仲が不和になったならば、二人に対する御本尊の冥々の加護がどのようになるかと考えていきなさい。あなかしこ、あなかしこ。

あなた方はそれぞれ法華経のゆえにはっきりとした敵をもつ身である。

それ故、内輪から論争をおこしたりしては、鷸蚌が争いあって共に漁夫に捕えられてしまったように、結局、敵の乗ずるところとなるでしょう。南無妙法蓮華経と題目を唱え、よくつつしんできなさい、つつしんでいきなさい。恐恐。

十一月十二日            日 蓮  在 御 判

ひゃうえの志殿御返事

 

 

十八円満抄

問うて言う。十八円満の法門はどこから出ているのか。

答えて言う。その源は「蓮」の一字から起こったのである。

問うて言う。この法門を釈で見たことがあるのか。

答えて言う。伝教大師の「修禅寺相伝日記」のなかにある。この法門は現在の天台宗の奥義である。秘すべきことである。秘すべきことである。

問うて言う。十八円満の名称とはどのようなものか。

答えて言う。一に理性円満・二に修行円満・三に化用円満・四に果海円満・五に相即円満・六に諸教円満・七に一念円満・八に事理円満・九に功徳円満・十に諸位円満・十一に種子円満・十二に権実円満・十三に諸相円満・十四に俗諦円満・十五に内外円満・十六に観心円満・十七に寂照円満・十八に不思議円満、以上である。

問うて言う。その意味はどのようなものであるのか。

答えて言う。このことは伝教大師の修禅寺相伝日記のなかに次のように述べられている。

「次に五重玄義とは、蓮を華因成果の義に名づける。蓮の名は十八円満のゆえに蓮と名づける。

一に理性円満とは、万法はことごとく真如法性の実理に帰するのである。実性の理に万法は円満しているゆえに理性をさして蓮というのである。

二に修行円満とは、有相・無相の二行を修行することによって万行が円満するゆえに修行をさして蓮とうのである。

三に化用円満とは、心性の本理に諸法の因分があり、この因分によって化他のはたらきを具するゆえに化用をさして蓮というのである。

四に果海円満とは、諸法の自性をたずねてことごとく本性を捨てて、無作の三身を成ずるのである。法として無作の三身ではないゆえに、果海をさして蓮というのである。

五に相即円満とは、煩悩の自性が全く菩提にして一体不二のゆえに、相即をさして蓮というのである。

六に諸教円満とは、諸仏の内証の本蓮に諸教を具足して更に欠けることがないゆえに、諸経をさして蓮というのである。

七に一念円満とは、根塵相対して、一念の心が起きてくるときに、三千世間を具するゆえに、一念をさして蓮というのである。

八に事理円満とは、一法の当体が而二不二にして欠けることがなく具足するゆえに、理ことをさして蓮というのである。

九に功徳円満とは、妙法蓮華経に万行の功徳を具足して法力・仏力・信力の三力の勝能があるゆえに功徳をさして蓮というのである。

十に諸位円満とは、ただ一心を読む時に六即が円満なるゆえに、諸位をさして蓮というのである。

十一に種子円満とは、一切衆生の心性に本より成仏の種子を具しているのである。権教は種子が円満でないゆえに「皆成仏道」の旨を説かないゆえに蓮の義がないのである。

十二に権実円満とは、法華経の義が実証されたときには、実に即して権・権に即してしかも実であり、権実相即して欠けることがないゆえに円満の法にして既に法報応の三身を具するゆえに諸仏は常に法を演説するのである。

十三に諸相円満とは、一々の相のなかに皆八相を具して一切の諸法は常に八相を示すのである。

十四に俗諦円満とは、十界・百界ないし三千の本性が常住不滅なのである。本位を動かすことなく、当体即理の故に、俗諦をさして蓮というのである。

十五に内外円満とは、非情の外器のうちに内の六情を具している。有情のなかにまた非情を具しているのである。余教は内外円満を説いていないゆえに草木が成仏することはできないのである。草木非成仏のゆえに、また蓮と名づけないのである。

十六に観心円満とは、六塵六作常において心相を観ずるのであり、全く余義によらないゆえに、観心を蓮というのである。

十七に寂照円満とは、摩訶止観みは『法性が寂然であることを止と名づけ、寂にしてしかも常に照らすことを観と名づけるのである』とある。

十八に不思議円満とは、詳しく諸法の自性をたずねてみれば非有非無にして諸の情量を絶して、また三千三観ならびに寂照等の相がなく、大分の深義が本来不思議なるゆえに蓮とするのである。

この十八円満の義をもってくわしく経の意を案ずるに、法華経の勝能ならびに観心の本義はまことに蓮の義によるのである。二乗・悪人・草木等の成仏ならびに久遠五百塵点などは蓮の徳を離れては余義はないのである。

座主の伝には『玄明師の正決を尋ねてみると、十九円満を蓮と名づけている。いわゆる当体円満を加えているのである、と。当体円満とは当体蓮華のことである。諸法の自性が清浄にして染濁を離れているのを、本より蓮というのである。

ある経の説によると、一切衆生の心の間には八葉の蓮華がある。男子は上に向かい、女人は下に向かうという。成仏の時に至れば、たとえ女人であっても、心の間の蓮は速やかに返って、上に向かうのである。

しかるに、今の蓮は仏意にあるときは、本性が清浄の当体蓮華となり、もし機情についていえばこの蓮華は譬喩の蓮華となる』と」と。

次に蓮の体とは、体については多くの種類がある。一には徳体の蓮であり、本性の三諦を蓮の体とするのである。二には本性の蓮体であり、三千の諸法は本よりこのかた当体が不動であることを蓮の体とするのである。三には果海真善の体で、これは、一切諸法は、もとは法報応の三身であって寂光土に住むのである。たとえば一法であっても三身を離れることはないゆえに三身の果をもって蓮の体とするのである。四には大分真如の体である。これは不変真如・随縁真如の二種の真如をいずれも証分の真如と名づけるのに対し、本迹・寂照などの相を分けず、諸法の自性がそのまま不可思議であるのを蓮の体とするのである」と。

「次に蓮の宗とは、果海のうえの因果のことである。和尚のいうのに『六即位は妙法蓮華経の五字のなかには、正しく蓮の字にある。蓮についての五重玄義の中では、まさしく蓮の宗から起こっているからである』と。それはなぜかといえば、理即は本性と名づけるのである。本性の真如は理性円満のゆえに理即を蓮と名づけ、果海本性の解行証の位に住するのを果海の位と名づけているのである。天台智者大師は自解仏乗の内証をもって明らかに経の主旨を見られるとき、蓮の義において六即の位を建立されたのである。それゆえに、文に『この六即の義は一家より起こっているのである』と。しかるに、始覚の理を拠りどころとしている在纒真如をさして理即とし、妙覚の証理にたつのを出纒真如と名づけるのである。まさしく出纒のために諸の万行を修行するがゆえに法性の理の上の因果なのである。ゆえに、また蓮の宗と名づけるのである。この蓮には六つの勝能がある。一には自性清浄にして泥濁に染またない。(理即にあたる)、二には華・台・実の三種が具足して欠けることがない(名字即にあたる。それは諸法が三諦であると解了するがゆえに)、三には初め種子から実を成ずるまで華・台・実の三種が続いて断ずることがない(観行即にあたる。念々が相続いて修し、念々が廃することがないゆえに)四には華葉の中にある未熟の実が真の実に似ている。(相似即にあたる)、五には花が開き蓮が現ずる(分真即にあたる)、六には花が落ちて蓮が成ずる(究竟即に当たる)この義をもってのゆえに六即の深義はその源は蓮の字から出ているのである」と。

次に蓮の用とは、六即円満の徳によって常に化用を施すゆえにである。

次に蓮の教とは、本有の三身・果海の蓮性に住して常に浄法を説き、八相成道し、四句を成ず。和尚がいうには『証道の八相は無作三身のゆえに四句の成道は蓮の教の処にあり、ただ無作三身をさして本覚の蓮というのである。この本蓮に住して常に八相を唱え、常に四句の成道をなすゆえである』とある。修禅寺相伝の日記之をみるに妙法蓮華経の五字に於て各各五重玄なり蓮の字の修禅寺相伝の日記之をみるに、妙法蓮華経の五字においておのおの五重玄がある。(蓮の字の五重玄義は以上のとおりである。余はこれを略す)。

日蓮が案じていうには、この修禅寺相伝の義によるならば、万法の根源、一心三観、一念三千、三諦、六即、境智の円融、本迹の所詮は、源は蓮の一字から起こっているのである。

問うて言う。総説の五重玄とはどのようなものであろうか。

答えて言う。修禅寺相伝日記によれば「総説の五重玄とは妙法蓮華経の五字がそのまま五重玄であるということである。すなわち、妙は名・法は体・蓮は宗・華は用・経は教である。また総説の五重玄に二種がある。一には仏意の五重玄・二には機情の五重玄である」と。

「仏意の五重玄とは諸仏の内証に五眼の体を具する。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。すなわち、仏眼は妙・法眼は法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経にあたる。

また妙は不可思議を妙名づけるゆえに仏眼にあたる。真実にして空、冥寂であるがゆえに仏眼である。法は分別を法と名づけるゆえに法眼は仮であり、分別の形である。慧眼は空にあたる。果の体は蓮なのである。華は用であるゆえに天眼と名づける。神通化用のゆえである。経は迷いを破す義がある。迷いを所対とするゆえに肉眼と名づけるのである。仏智の内証に五眼を具する。これがすなわち五字であり、五字はまた五重玄と名づけるのである。

また五眼即五智である。法界体性智は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智は肉眼にあたるのである。

問うて言う。天台一家には五智を立てるのか。

答えて言う。すでに九識を立てるゆえに五智も立てるのである。九識のうち最初の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智にあたるのである」と。

次に機情の五重玄とは、衆生のために説くところの妙法蓮華経はこれ機情の五重玄である。首題の五字について五重の一心三観がある。

伝にいうには、

妙  不思議の一心三観  天真独朗のゆえに不思議である。

法  円融の 一心三観  理性円融である。総じて九箇の一心三観となる。

蓮  得意の 一心三観  果位である。

華  複疎の 一心三観  本覚の修行である。

経  易解の 一心三観  教えを談ずることである。

法華玄義の第二にこの五重の一心三観が挙げられており、その文にしたがって明らかにしよう。

不思議の一心三観とは天台智者大師己証の法体、理非造作の本有の分である。三諦の名相はないが、しいて三諦の名相をもって説くのを不思議と名づけるのである。

円融の一心三観とは、理性法界のところに本来、三諦の理があり、それが互いに円融して九箇となる。

得意の一心三観とは不思議の一心三観と円融の一心三観とが凡夫の心の及ぶところではなく、ただ聖人の自受用の徳をもって初めて量知できるのであるゆえに得意と名づけるのである。

複疎の一心三観とは無作が一切法に遍して本性常住であり、理性の円融と同じではないということから複疎と名づけるのである。

次に本意の一心三観にはまた五重の一心三観がある。一には三観一心(入寂門の機根に配する)二に一心三観(入照門の機根に配する)三には住果還の一心三観、上の機根があって善知識の人が『一切の法は皆是れ仏法なり』と説くのを聞いて真理を開くのである。この入真以後の観を極めんがために一心三観を修するのである。

四には為果行因の一心三観とは果位究竟の妙果を聞いて、この果を得んがために種々の三観を修行するのである。

五に付法の一心三観。五時八教などの種々の教門を聞いてこの教義を心に入れて観を修行するゆえに付法と名づけるのである。

天台大師のいうには(塔中の言葉である)『また立行相を授けるのである。三千三観の妙行を修行して解行の精微によって深く自証門に入る、我、汝が証相を領するに法性が寂然であることを止と名づけ、寂にして常に照らすことを観と名づけるのである』とある。

問うて言う。天真独朗の止観の時、一念三千・一心三観の義を立てるのであろうか。

答えて言う。行満・道邃の両師の伝は同じではない、座主の言うには『天真独朗とは一念三千の観のことである。このことを妙楽大師は“一念三千を指南とする”といっている。一念三千とは一心から三千を生ずるものでなく、一心に三千を生ずるものでもなく、並立でもなく、次第でもなく、ゆえに理非造作と名けるのである』と。

和尚の言うには『天真独朗においもまた多種類がある(乃至)迹門のなかに明かすところの不変真如もまた天真独朗なのである。ただし天台大師の本意の天真独朗とは三千三観の相を滅し、一心一念の義を絶したところにある。このときは解もなく行もない。教行証の三箇の次第を経るとき、行門において一念三千の観を建立するのである。ゆえに摩訶止観の全十章のうち第七章のところにおいて初めて一念三千の観法を明かしたのである。これは因果のうえに階級を定めるという意からである』と」と。

天台大師の内証の伝のなかには『第三の止観には伝転の義はない』と言っている。ゆえに証分の止観には別法を伝えているわけではないことを知らなくてはならない。

今、摩訶止観に記されているのは、始めから終わりまで、皆、教行のうえのことであって、実証の分ではないのである。

開元符州の玄朗師の相伝のいうところでは『言葉をもって伝えるときは行証ともに教となり、心をもってこれを観ずるときは教証は行の体となる。証をもってこれを伝えるときは教行もまた不可思議である』とある。後学は、この語に意を留めて決して忘れてはならない。これこそ、この宗の本意であり、立教の元旨なのである。道邃和尚の貞元の本義の源はここから出たのである」と。

問うて言う。天真独朗の法は、仏滅後においてはいずれの時に流布したらよいのであろうか。

答えて言う。像法の代に流布すべきである。

問うて言う。末法において流布すべき名目はどうか。

答えて言う。日蓮が己心に相承した秘法をこの答えで明らかにしよう。いわゆる南無妙法蓮華経のことである。

問うて言う。その証文はどのようなものであろうか。

答えて言う。法華経如来神力品第二十一には「爾の時に仏は上行等の菩薩に告げられて、要をもってこれをいうならば(乃至)宣示顕説していくのである」と述べている。天台大師は法華文句巻十下で「『爾時仏告上行』から下の文は第三の結要付属をあらわしている」と釈している。また「法華経中の要説の要は四事に在るのである。総じて法華経はただ四事に在るのである。総じて法華経はただ四事に結ばれているのである。その根本をとって上行等に授与した」と言っている。

問うて言う。今の文は上行菩薩等に授与する文である。どうして汝が己心相承の秘法と云うのか。

答えて言う。上行菩薩の弘通される秘法を日蓮が先立ってこれを弘めているのである。身に当たるというのはこの意である。日蓮は上行菩薩の代官の一分なのである。

所詮、末法に入ったならば、天真独朗の法門は無益であり、ただ助行に用いるだけであって、正行にはただ南無妙法蓮華経を用いるべきである。伝教大師は法華秀句巻下で「天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて中国に弘め、比叡山のわが天台宗は天台大師に相承して法華宗を助けて日本に弘通している」と述べている。

いま日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時代に日本に弘通いている。これこそ時と国とに相応した仏法ではないか。末法に入って天真独朗の法を弘めて正行とする者は必ず無間大城に墜ちることは疑いない。

貴辺はこれまでの権宗を捨てて日蓮が弟子となられたことは真実の時国相応の智人である。総じて日蓮の弟子等は日蓮と同じく正理を修行すべきである。たとえ智者・学匠の身となっても、地獄に墜ちては何の役にもたたない。所詮、時々・念々に南無妙法蓮華経と唱えるべきである。

上に挙げたところの法門はすでに御存知のことであるが、書いて差し上げたのである。十八円満等の法門をよくよく案じられるがよい。それとともに、当体蓮華の相承等日蓮が己証の法門等は前々に書きまいらせたとおりである。詳しいことは修禅寺相伝日記にあるとおりであり、天台宗の奥義はこれ以上のものはない。一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出ない。このことを決して忘れてはならない。決して忘れてはならない。伝教大師は「和尚は慈悲によって一心三観を一言で伝えた」といい、玄旨伝には「一言の妙旨である。一教の玄義である」と言っている。

法華経如来寿量品第十六には「何をもって、衆生を無上道に入らせ、速やかに仏身を成就することを得させようかと、仏は常に自ら念じているのである」と説いている「毎自作是念」の念とは一念三千であり衆生と仏に本有の一念である。秘すべきである、秘すべきである。恐恐謹言。

弘安三年十一月三日                  日蓮花押

最蓮房に之を送る

 

 

地引御書

坊は十間四面の広さで、孫庇をさしだして造りあげ、二十四日は天台大師の命日にあたり、大師講と延年の舞を心ゆくまで行なった。さらに、同二十四日の午後九時ころに、御本尊の御前に集まって、三十余人の人々によって法華経の一日写経を修した。また、それより以前、午後五時ころには坊落成の供養をわずかの事故もなく終えた。

坊は、石や木をとり除いて、山を平らにつくることから始まったが、その地ならしの間、山は二十四日間、一日も、片時も、雨が降ることなく好天気であった。十一月一日には、まず小坊を造り、馬屋をつくった。八日には、大坊の柱を立て、九日・十日の両日には屋根を葺き終えた。ところが、その間、七日は大雨、八日・九日・十日は曇って、しかもその暖かなことは、春の終わりのようであった。十一日から十四日までは大雨が降り、大雪となって、そのとき降った雪は未だに里でも消えていない。山では一丈も二丈も積もり、その雪が凍って堅いことは金(かね)のようである。二十三日、二十四日は、また空は晴れて寒くなく、そのためか、参詣者がおおぜいで、そのにぎわいはまるで京都の市内や鎌倉の町の午後五時ころのようである。これらのことは、さぞやいわれのあることであろうか。

次郎殿等をはじめとする若殿たちは、親のあなたから申しつけられたこととはいえ、心から願っておられたことなので、自分から地ならしをし、柱を立てるなど励まれた。藤兵衛右馬の入道や、三郎兵衛尉等以下の人々も一人もおろそかにする人はいなかった。できあがった坊は、鎌倉では一千貫の大金を出してもできないであろうと人々はいっていた。

ただし一日経は途中で供養を中止させた。その故は、あなたが大坊建立にあたって立てられた念願が叶ってから、供養をし終えたいと思ったからである。坊が建立されたといっても、あなたのご祈念が叶わなければ、言葉のみあって、実がなく、華が咲いて果実がならないようなものである。今も見てごらんなさい。あなたの願いが叶わなければ、このたび法華経を信じても成仏できないのではないかと思われることであろう。願いが叶ったならば二人共々、供養し終えよう。

「神ならはすはねぎから」ともいう。この願いが叶わないならば、法華経を信じても何の甲斐もないことである。種々の事について申し上げたが、また機会ある時に申し上げる。恐恐。

十一月二十五日            日 蓮  花 押

南部六郎殿

 

 

上野殿母御前御返事(大聖人の御病の事)

乃米一駄、清酒一筒・提子二十杯分くらいか、藿香一紙袋をお送りいただきました。

この身延の有り様は、前々から申し上げているとおりです。また、去る文永十一年六月十七日にこの山に入って、今年十二月八日に至るまで、この山を一歩も出たことはありません。ただし、この八年の間は、やせる病気といい、齢といい、年々に身体は弱くなり、心は弱まってきましたが、ことに今年は春よりこの病気が起こって、秋が過ぎ冬にいたるまで、日々に衰え、夜々に重くなりましたが、この十余日は食事も殆どできないところに、雪が重なり、寒気は攻めてきております。身体の冷えることは石のようであり、胸の冷たいことは氷のようです。しかし、この酒を温かに沸かして、藿香をはたと食い切って、一度飲むと、火を胸に焚いたようになりました。湯に入ったようです。汗で垢が洗われ、滴で足が濯がれました。このお志に、どう感謝したらよいかと、嬉しく思っているところに、両眼から一滴の涙が浮かんできました。

顧みれば、去年の九月五日に故五郎殿が亡くなられてからは、その後どうなされたかと胸のうちが騒いで、指折り数えれば、既に二か年、十六か月、四百余日が過ぎてしまいましたが、尼御前は母ですから、何か便りがあったことでしょう。どうして聞かせてくれないのでしょうか。降った雪は消えても再び冬が来てまた降ってきました。散った花も春が来てまた咲きました。どうして逝った人ばかりは、またこの世に帰らないのでしょうか。なんとうらめしいことでしょうか。よそながら、良い若者である、良い若者である、玉のような男である、男である、どれほど親として嬉しいことであろうと見ていたのに、満月に雲がかかって、晴れずに山へ入り、今を盛りの花がにわかの風にあえなく散ってしまったように、亡くなられてしまうとは、いかにも情けないことと思っております。

日蓮は病気のために、人々からのお手紙にも返事を書かないでおりましたが、五郎殿のことはあまりにも嘆かわしいことでしたから、筆をとりました。日蓮もたぶん永くはこの世にはいないでありましょう。そうであれば必ず五郎殿に行きあうであろうと思っております。もし尼御前より先にお会いしたならば、尼御前の嘆きを申し伝えましょう。他のことはまたまた申し上げます。恐恐謹言。

十二月八日             日 蓮  花 押

上野殿母御前御返事

 

大夫志殿御返事(生和布供養の事)

清酒一筒、味噌一桶、生和布一籠をいただきました。清酒と味噌はさておいて、生若布はこのたび、はじめていただきました。

またその上、私(大聖人)が病気であることをお聞きになって、いく日もたたないうちに、この供養の品々を、使用人をご使者としてお送り下された、そのあなたの信心は、大海よりも深く、善根は大地よりも厚い。幸甚、幸甚。恐恐。

十二月十一日

日 蓮  花 押

大夫志殿御返事

 

大白牛車御消息

 弘安4年(ʼ81) 60歳

そもそも法華経の大白牛車というのは、我も人も法華経の行者の乗るべき車である。彼の車の事は、法華経の譬喩品に詳しく説かれている。ただし彼の法華経は、鳩摩羅什が略して訳したゆえに、委しくは説いていない。インドの梵品には、車の飾り物、そのほか、聞信戒定進捨慚の七宝まで委しく説いてあるのを、日蓮は大略目をとおしている。

まずこの車というのは、縦広五百由旬の車で、金の輪を入れ、銀の棟を揚げ、金の縄をもって八方へつり縄を付け、三十七の階段を銀をもって磨きたて、八万四千の宝の鈴が車の四面にかけられている。三百六十流の紅の錦の旛を玉の棹にかけ流し、四万二千の欄干には四天王の番を付け、また、車の内には、六万九千三百八十余体の仏・菩薩が、宝蓮華に坐しておられる。

帝釈は諸の眷属を引き連れて千二百の音楽を奏で、梵王は天蓋を指し懸け、地神は山河・大地を平らかにされる。このようにして法性の空へ自在に飛び行く車を大白牛車とはいうのである。 まずこの車というのは、縦広五百由旬の車で、金の輪を入れ、銀の棟を揚げ、金の縄をもって八方へつり縄を付け、三十七の階段を銀をもって磨きたて、八万四千の宝の鈴が車の四面にかけられている。三百六十流の紅の錦の旛を玉の棹にかけ流し、四万二千の欄干には四天王の番を付け、また、車の内には、六万九千三百八十余体の仏・菩薩が、宝蓮華に坐しておられる。

帝釈は諸の眷属を引き連れて千二百の音楽を奏で、梵王は天蓋を指し懸け、地神は山河・大地を平らかにされる。このようにして法性の空へ自在に飛び行く車を大白牛車とはいうのである。

日蓮より後に来る人々は、この車に乗られて霊山へ御出でになられるがよい。その時、日蓮も同じ車に乗ってお迎えに向かうであろう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

日 蓮  花 押

 

窪尼御前御返事(金と蓮の事)

甘酒一桶・山芋・野老を少々いただきました。

梵網経という経には、一紙・一草といって、菩薩は紙一枚、草一つを惜しんでも破戒となると説かれ、大智度論という論には土の餅を供養した者が、一閻浮提の王となったことが説かれています。

この度の御供養は、それとは比べることもできません。そのうえ、夫にも別れて頼る人もいない尼の身でありながら、駿河の国の西山という所から甲斐の国の波木井の山中に送られたのです。

世の人に捨てられている聖が寒さに責められて、どのように苦しかろうと思われて御供養を送られたのでありましょうか。日蓮は父母に死に別れてから、このような懇ろな志を受けたことはありません。これほどにも温かい御志かと思えば涙をこらえることができません。

日蓮は悪い者ではありますが、弘める法華経は、どうして、いい加減なものであられることがありましょうか。たとえば袋は臭くても中の金は浄く、池は濁っていても蓮は清浄であるようなものです。日蓮は日本第一の僻者です。しかし、法華経は一切経に勝れた経であります。経を求める心のある人は、金を取ろうと思うなら臭い袋を捨ててはなりません。蓮を愛するなら濁った池を憎んではなりません。

悪いといわれても、仏となるならば法華経の力は顕れるでありましょう。したがって、臨終が悪かったならば法華経の名折れとなるでありましょう。そうであるならば、日蓮はいかに悪くいわれても、悪いでよいのです。悪いでよいのです。恐恐謹言。

月 日   御 返 事

 

四条金吾殿御返事(八日御書)

 弘安5年(ʼ82)1月7日 61歳 四条金吾

満月のようなお供え餅二十、甘露のような清酒一筒いただきました。

春のはじめの御悦びは、月が満ちるごとく、潮がさすごとく、草木が茂るごとく、雨が降るごとくめでたいものであると考えていきなさい。

そもそも、八日は、人々にとって御父である釈迦仏が御誕生なされた日である。その四月八日には三十二の不思議な現象があった。一には、一切の草木に花が咲き果がなった。二には、大地から一切の宝が湧き出た。三には、一切の田畠に雨が降らないで自然に水が湧き、四には、夜が昼のごとく明るくなり、五には、三千世界どこにも嘆きの声はなかった。その他いずれもこのような吉瑞の相ばかりであった。それ以来今日に至るまで二千二百三十余年の間、吉事には八日が使われたのである。

ところが今の日本国の人びとは皆釈迦仏を捨てているのに、あなたがたは、どういう過去の善根によって、法華経と釈迦仏とを信仰され、皆が集まって八日を供養されるばかりでなく、山中にいる日蓮にまで香華を供養されたのであろうか。まことに尊いことである。恐恐。

正月七日            日 蓮  花 押

人人御返事

 

春初御消息

 弘安5年(ʼ82)1月20日 61歳 南条時光

伯耆殿が書かれた事、大変に喜ばしい事である。

新春の御悦びは、木に花が咲くように、山に草が萌え出るように、我も人も悦ばしい事である。さて、お送りいただいた物の日記、米一俵、白塩一俵、十字三十枚、芋一俵、たしかに頂戴した。

深山の中なので白雪が三日の間降り、庭には一丈も積もり、谷は峰となり、峰は天に梯子をかけたようである。鳥や鹿は庵室に来るが、樵牧は山に入らない。衣は薄いし、食物は絶えてしまった。夜は寒苦鳥のようであり、昼は里に出ようと思う心が絶えない。

すでに読経の声も絶え、観念の心も薄くなってしまった。今生は退転して、未来に三千塵点劫、五百塵点劫程の間、苦しまなければならないと嘆いていたところであったが、この御供養に命も生きかえり、またお目にかかれるであろうと思うと、まことに嬉しい。

過去に仏が凡夫であらせられた時、五濁乱漫の世に、このように飢えていた法華経の行者を供養して仏になられたとある。今貴殿が日蓮に供養したことは法華経が真実ならば、この功徳によって、過去の慈父は成仏すること疑いない。

故五郎殿も今は霊山浄土に参り合わせて、父君とお会いして父君に頭をなでられていることであろうと思いやると、涙をおさえることができない。恐恐謹言。

正月二十日              日 蓮  花 押

上野殿御返事

恐縮ではあるが、くれぐれも伯耆殿が一一に読み、聞かせて上げていただきたい。

 

 

三大秘法稟承事(三大秘法抄)

 弘安4年(ʼ81)4月8日 60歳 大田乗明

法華経の巻七・如来神力品第二十二に「要をもってこれを言えば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆この経において宣示顕説する」等とある。法華文句に「法華経中の要説の要は四事にある」等とある。

問う。説くところの要言の法とは何物であるか。答えていう。釈尊が初めて成道して以来、四味三教から法華経の広開三顕一の説法の席を立って、略開近顕遠を説かれた従地涌出品第十五まで秘せられた、諸法の実相を証得したその昔に修行されたところの寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である。

教主釈尊はこの三大秘法を過去・現在・未来の三世に隠れることのない普賢菩薩・文殊菩薩などの大菩薩にも譲られなかった。ましてそれ以下の菩薩においてはなおさらである。だからこの三大秘法を説かれた儀式は四味三教ならびに法華経の迹門十四品に異なっていた。舞台となった国土は常寂光土で本有の国土である。そこに居る教主は本有無作の三身如来である。弟子もまた同体である。このような場合であるから、久遠以来、仏とその久遠の妙法を誉め称えてきた本眷属である上行菩薩等の四菩薩を常寂光土の大地の底からはるばると呼び出して付属されたのである。道暹律師は「法はこれ久遠実成の法による故に久遠実成の本化の菩薩に付嘱する」等といっている。

問うて言う。その所嘱された法門は仏の滅後においては、いずれの時に弘通されるべきか。

答えて言う。法華経の第七巻薬王品第二十三に「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶させてはならない」等とある。謹んで経文を拝見すると、仏の滅後において正法千年・像法千年の二千年が過ぎて、第五の五百歳に当たり、闘いや諍いが盛んになり、釈尊の教法の功力が失われた時、とある。

問うて言う。もろもろの仏の慈悲は天月のようである。衆生の機根の水が澄むと、それを縁として利益の影をあまねくすべての機根の水に映されるはずである。それなのに正法・像法・末法の三時の中に末法に限ると説かれるのは、教主釈尊の慈悲に偏りがあるようであるが、どうであろうか。

答える。もろもろの仏の慈悲の光、衆生を利益する月影は九界の闇を照らすけれども、正法を謗り信じない者の濁った水には月影を映さない。正法時代一千年の衆生の機根の前にはただ小乗教や権大乗教が合致していた。像法時代の一千年には法華経の迹門が衆生の機根と仏の感応が相応している教えであった。末法の始の五百年には法華経の本門のうち、前後の十三品を差し置いてただ寿量品の一品を弘通すべき時である。衆生の機根と教法が相応しているからである。

今、この法華経本門の寿量品の一品は、像法時代の後の五百歳の機根でさえ堪えることができない。まして像法時代の始めの五百年はなおさらである。いかにいわんや正法時代の機根は法華経迹門になお日が浅く堪えられない。まして本門においてはなおさらである。末法時代に入って爾前経・法華経迹門は全く生死の苦しみから離れる法ではない。ただ専ら法華経本門の寿量品の一品だけが生死の苦しみから離れる肝要の法である。このことから思うと、もろもろの仏の化導に全く偏りはない。

問う。仏の滅後、正法・像法・末法の三時において本化の菩薩と迹化の菩薩へのそれぞれの付属は明らかである。ただ寿量品の一品のみが末法の濁悪の衆生を利益するという経文は未だ明らかでない。確かに経に現われている文証を聞きたいと思うが、どうか。

答える。あなたは強いてこれを問うのなら聞いて後、堅く信じるべきである。いわゆる法華経如来寿量品第十六に「この好き良薬を今留めてここに置く。汝、取って服しなさい。病が治癒しないと憂えてはいけない」等とある。

問うていう。寿量品は専ら末法の悪世に限るとの経文がはっきりしている以上は自分勝手な疑難を加えてはならないと思う。しかしながら三大秘法のその法体はどんなものか。

答えていう。我が己心の大事はこれに及ぶものはない。あなたの志が無二であるので、少しこれを説こう。寿量品に建立するところの本尊は五百塵点の当初から、この土に有縁深厚である本有無作の三身の教主釈尊がこれである。寿量品に「如来の秘密・神通の力」等とある。法華文句の巻九に「一身即三身であることを秘と名付け、三身即一身であることを密と名付ける。また昔から説かないところを秘と名付け、ただ仏のみ自ら知っているところを密と名付ける。仏は過去世・現在世・未来世の三世に等しく法報応の三身がある。もろもろの教えの中にこれを秘して伝えない」等とある。

題目とは二つの意義がある。いわゆる正法・像法の題目と末法における題目である。正法時代には天親菩薩・竜樹菩薩が題目を唱えられたけれども自行ばかりであって、これで止まってしまった。像法時代には南岳大師・天台大師等がまた南無妙法蓮華経と唱えられたが自行のためであって広く他人のために説かなかった。これは理行の題目である。

末法時代に入って今、日蓮が唱えるところの題目は前の時代とは異なって自行・化他にわたる南無妙法蓮華経である。この題目は名・体・宗・用・教の五重玄を具えた妙法蓮華経の五字である。

戒壇とは王法が仏法に冥じ、仏法が王法に合して、王と臣が一同に本門の三大秘密の法を持って、有徳王と覚徳比丘のその昔の事績を末法時代の濁悪の未来に移し現わそうとする時、勅宣ならびに御教書を申し下して、霊山浄土に似ている最も勝れた地を探し求めて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみである。事の戒法というのはこれである。インド・中国・日本の三国ならびに一閻浮提の人が懺悔し滅罪する戒法だけでなく、大梵天王や帝釈等も来って踏まれるべき戒壇である。

この事の戒法が立って後は、比叡山延暦寺の戒壇は迹門の理の戒法であるので、利益がなくなってしまうところに、比叡山延暦寺に座主が置かれ始めてから第三代の座主・慈覚と第四代の座主・智証が思いの外に本師の伝教大師と第一代座主・義真に背いて「法華と真言は理は同じであるが事において真言が勝っている」という狂った言説を根本として、自分の比叡山延暦寺の戒法を侮って戯れの論と笑った故に、思いの外に延暦寺の戒は清浄で汚れのない中道の妙戒であったのに、いたずらに土泥となってしまったことは、言っても言い尽くせず、歎いてもどうにもできないことである。あの摩黎山が瓦や石ころのような土となり、栴檀の林が茨となることよりも残念である。

釈尊の一代聖教の邪と正、偏と円を弁えている学者の人を今の延暦寺の戒壇を踏ませることができようか。この法門は意味と道理を思案して意義を明白にしなさい。

この三大秘法は二千余年前のその時、地涌の菩薩の上首・上行菩薩として日蓮が確かに教主釈尊の口から直接に相伝したのである。今、日蓮が修行し広めている法門は霊鷲山において相承した通り、少しばかりの相違もなく、色も形も変わらない法華経本門寿量品文底の事の三大秘法である。

問う。一念三千の正しい経文の証拠はどうか。

答える。次に出し、説こう。これに二種がある。法華経方便品第二に「諸法の実相……いわゆる諸法の如是相(中略)衆生をして仏知見を開かせようと欲する」等とある。この文は機根の劣った凡夫が理として生命の本性に備えている一念三千を表している。法華経寿量品第十六に「しかるに善男子よ、我が実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫である」等とある。この文は釈尊が久遠に成仏した当初に証得した一念三千である。今、日蓮が末法の時に感じて、この法門を広く宣べ流布するのである。私が久しい以前から自己の心に秘めてきたが、この三大秘法の法門を書き付けて留め置かなければ、我が門下の後の弟子らが必ず無慈悲であると悪口をいうであろう。その後はどのように悔いても及ばないことと思う故に、あなたに対しこの法門を書き送ったのである。一見した後、秘蔵して他人に見せてはならない。むやみに他人に話しても無益である。法華経を諸仏がこの世に出現した一大事と説かれるのは、この三大秘法を含めている経であるからである。秘密にすべきである。秘密にすべきである。

弘安五年卯月八日        日 蓮  花 押

大田金吾殿御返事

 

莚三枚御書

 弘安5年(ʼ82)3月 61歳

莚三枚、わかめ一籠、頂戴した。

さて、三月一日から四日までの御あそびに心も慰められ、痩せる病もよくなり、虎を捕るばかりに元気になったところへ、この御わかめを頂戴し、獅子にでも乗れる勢いを得た。

財は所により人によって変わるものである。この身延の山においては、石は多いけれども餅はない。苔は多いが敷物がないから木の皮をはいで敷物の代わりとしている。莚が財にならないはずがない。

億耳居士という長者は足の裏に毛が生えていた人である。長者が歩く所、家の中はいうにおよばず、どこでも綿を四寸敷いてある所を歩くようであったという。これはいかなる原因によるかといえば、前世に、尊い僧に熊の皮を敷かせたからであるといわれる。

ましてや日本国は月氏より十万余里も隔てた辺国であるうえ、夷の島であり、因果の道理もわきまえそうにない衆生が住み、そのうえ末法である。仏法を信ずるようでいて実は謗じている国である。しかるに法華経のために名を世に立てられたうえに御莚を法華経に供養されたのであるから。

 

波木井殿御報

 弘安5年(ʼ82)9月19日 61歳 波木井実長

謹んで申しあげます。身延からの道中は、なにごともなく、池上まで着くことができました。途中の山といい河といい、たいへん難儀な道のりでありましたが、御子息たちに守られて、事故なく、ここまで着けたことを、感謝するとともに喜んでおります。やがて帰る時には通らねばならない道でありますが、病身であることゆえ、もしものことがあるかも知れません。

しかしながら、日本国中では居るところもなくて少なからずもて余している身を、身延の地で九年間にわたって帰依されたその志に対しては、言葉ではいいつくせないほど、ありがたく思っております。それだけにどこで死んだとしても墓は身延の沢に造らせたいと思っております。

またあなたから付けていただいた栗鹿毛の馬は、非常に良い馬なので、いつまでも離したくありません。常陸の湯まで引いて行きたいと思ったものの、もしかしたら他の人にとられるようなことがあるかもしれない、またその他大変であろうとも思われたので常陸の湯から帰ってくるまで、上総の藻原殿のところにおあずけすることにしました。しかし扱いなれない舎人をつけたのでは少々心配なので、常陸の湯から帰って来るまでは、いままでのこの舎人をつけておこうと思っています。この由を知っておいていただくために申し上げました。恐恐謹言。

九月十九日                 日  蓮

進上 波木井殿 御報

病身のゆえに印を加えません。よろしく御了承ください。

 

 

問注得意抄

 文永6年(ʼ69)5月9日 48歳 富木常忍ら3人

 土木入道殿    日蓮

 今日召し合わせて、法義取り調べの御問注があると承った。おのおのの念願されたごとくであれば、三千年に一度花が咲き菓がなるという優曇華に値える身であろうか。
 九千年に三度しか実がならない西王母の園の桃を、東方朔が九千年に三度得たというのと同じ心でもあろうか。
 一生のうちで、これほどの幸いは、またとないであろう。
 御成敗の甲乙はしばらくこれを置くが、貴殿としては、まずもって日頃の鬱念を開かれるべきであろう。

ただし、兼ねてご存じのことであるが、駿馬にも鞭うつということもあるから、今日、御出仕になり、公の場所に出られた後は、たとえ知り合いの者であっても、傍輩に向かって雑言などされてはならない。両方の者が呼び出され、御奉行人が訴えの文を読む間は、何事があっても、御奉行人から尋ねられたこと以外は一言でも口を出してはならない。
 たとえ敵方の者が、悪口を吐いたとしても、おのおのが身に当たるようなことであっても、一、二度までは聞かぬふりをすべきである。
 それが三度に及ぶようであったら、顔色を変えず、語気を麤くしたりしないで、やわらかな言葉をもって申すべきである。
「おのおの方とは一所の同輩であり、私事においては全く遺恨はない」との由を言われるべきである。また、御供の人や雑人等にまでよくよく注意して、喧嘩などしないようにすべきである。
 このような事は、書面では尽くし難いから、心を以って斟酌されたい。

これらのことをほしいままに言ったようで恐れ入るが、仏経(法華経)と行者と檀那との三事が相応して、一事を成就するために愚言を述べたのである。恐恐謹言。
  五月九日              日 蓮  花 押
   三 人 御 中 

 

十住毘婆沙論尋出御書

 正元元年(ʼ59)10月14日 38歳 武蔵公

 昨日、武蔵前司殿の使によって、念仏者等と召し合わせたれた。また、十郎の使いであったろうか。十住毘婆娑論を内々見たことがある。万事を差し置いて探し出していただきたい。

十月十四日                    日蓮 在 御 判

武蔵公御房

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十住毘婆娑論十四巻をお送りします。あと一巻は手に入りませんでした。お使いになった後は、早々にお返しください。私も必ず参りまして承りたいと思います。昨日の論談=五十展転の随喜は実に有り難いことです。また袴品を賜わりたいと思います。穴賢穴賢、恐恐。

十月十一日                          判

日蓮阿闍梨御房

 

 

二乗作仏事

 文永後期

爾前で得道する旨を記している文としては、法華経譬喩品第三に「過去に諸の菩薩が受記し作仏することを見たことがある」等、また、法華経従地涌出品第十五に「もろもろの衆生は始め我が身を見、我が所説を聞いて如来の智慧に入ることができる」等と説かれている。

これらの文は、菩薩が初地・初住の位に至ることがあるということである。

ゆえに、譬喩品の「諸の菩薩を見る」の文の下には「しかしながら、我ら(舎利弗等の声聞)は受記にあずかることができなかった」と説かれ、また従地涌出品の「始め(我が身を)見る」の文の下には「過去に修習して小乗を学んでしまった者は除く」等と説かれているのである。

すなわち、これらは爾前教には二乗作仏がないとしている文である。

問うていうには、顕露定教では二乗作仏を許しているであろうか。顕露不定教では二乗作仏を許しているであろうか。秘密不定教では二乗作仏を許しているであろうか。爾前の円では二乗作仏を許しているであろうか。別教では二乗作仏を許しているであろうか。

答えていうには、所詮、重々の問答があるといっても、皆二乗作仏を許していないのである。そして、所詮、二乗界の作仏を許していないとすれば、菩薩界の成仏も許していないことになるのである。それは衆生無辺誓願度の願が闕けているからである。したがって、天台宗の学者の解釈は、菩薩が得道したとみている経文を消釈しているだけなのである。

所詮、華厳部・方等部・般若部の諸経で説かれる円教の菩薩も初住位に登ることはできないのであり、また凡夫・二乗が成仏できないのはもちろんのことである。法華経方便品第二の「法華経によって一切衆生を皆な仏道に入らしむる」の文の下において初めて、このこと、すなわち菩薩等が成仏できるのであると心得るべきである。

問うていうには、爾前の円教では菩薩に向かって二乗作仏を説いているか。

答えていうには、説いていない。そのことは法華経信解品第四の「未だ曽て人に向かいて此の如き事を説かず」の文についての天台大師の解釈に明らかである。

問うていうには、華厳経の「心と仏と及び衆生、是の三差別無し」の文は、十界互具の正しい文証ではないか。

答えていうには、華厳経のその文のすぐ次に「如来の智慧である大薬王樹は、ただ二か所を除くのであり、その二か所では生長することができない。いわゆる声聞・縁覚(および法器に非ざる者)である」等と説かれている。

ここから、爾前の円教で二乗作仏を許していないことは明らかである。したがって、経の本文は十界互具のようにみえるが、実は二乗作仏がないのであるから、十界互具を許していないのである。

そのうえ、爾前の経は法華経をもって判断すべきである。既に法華経従地涌出品第十五には「先より修習して、小乗を学せる者をば除く」等とあることから、華厳経に二乗作仏がないことは明らかである。方等部・般若部もまた同じである。

総じて爾前の円について心得るべきことが二つある。

一つには、阿難が仏典を結集する以前、釈尊は必ず一つの教えに別教・円教の二教の義を含ませて、一つ一つの教えに必ず四教三教を含ませられたのである。ゆえに純円の円は爾前経にはないのであり、ゆえに円教といっても今の法華経に対すれば別教に摂するといえるのである。法華玄義釈籤巻十には「一つ一の位に皆、普賢(円融円満)と行布(差別)の二つの法門がある。ゆえに、円教の門(文)をもって別教に摂するのである」と釈している。この意において爾前経に二乗の得道はないというのである。

二つには阿難が仏典を結集した時、多羅葉に教えを記したが、そこで、一段は純別、一段は純円に書いた。方等・般若も同様である。このとき爾前の純円に書いた部分は、ほぼ法華経に似ている。法華玄義釈籤で「住の中には多くの円融の相を明かす」と釈しているのはこの意である。天台智者大師はこの道理を得られたゆえに、他師の華厳など、総じて爾前の経の心を得たとしているものとは違うのである。

この二つの法門をどのようにして天台大師が心得られたかと尋ねてみれば、法華経の信解品第四等をもって、一つ一つの文字が別円の菩薩への教えであり、また四教三教を含んでいると心得られたのであった。またこの智恵を得た後に、それらの経に向かってみる時は、一向に別、一向に円等と見えるところがあるが、これは阿難の仏典結集の後の立て分けであると思われたのである。

天台宗の学者のなかで、この道理を得ていない者は、爾前の円と法華の円とについて始めの華厳も終わりの法華も同じ義であると考えているために、一か所のみに説かれている円教の経を見て、またその経の一巻や二巻等に純円の義が説かれているので、その経等に往生成仏の義や理があるとする人々が多いのである。

華厳・方等・般若・観無量寿経等の本文のなかに、阿難が仏典結集の時、「円教の巻」を書く時に「即身成仏」云々、「即得往生」云々としているのを見て、一生ないし順次生に往生成仏を遂げることができると思っているのである。

しかし、阿難が仏典を結集する以前の、仏の口から説き出されたところの説法でその意を考えてみれば、「即身成仏」「即得往生」の裏に「歴劫修行」「永不往生」の心を含んでいるのである。

法華文句の巻三に摂大乗論を引用して「了義経は文に依って義を判じ、不了義経は義に依って文を判ず」というのはこの意である。爾前の経を文のままに判ずるならば仏意に背くことになるというのはこのことである。

法華文句記の巻三には「法華以前は不了義なるゆえに」と言っているのは、法華文句のこの意を釈したものである。

法華玄義釈籤の巻十にいう「ただこの法華経のみが爾前経の意を説き明かして、今経(法華経)の意をあらわしている」との釈の意はこれである。

そもそも他師と天台大師との解釈の異なりはどこにあるかといえば、他師は一つ一つの経々に向かって解釈し、それでその経々の意を得たと思っている。

天台大師は釈尊が法華経で四十余年の諸経について述べられる意をもって解釈しているゆえに、阿難尊者の書いた諸経の本文と違っているようではあるが、仏意には叶っているのである。

例えば、天台大師の観無量寿経疏をみると、観無量寿経の経説にはないけれども、一字について四教をもって釈している。

本文は一か所は別教、一か所は円教、一か所は通教に似ているのである。しかし、それを四教にわたるものとして解釈したのは法華経の意をもって仏意をお知りになっているからである。

阿難尊者の結集した経では、一か所は純別、一か所は純円に書き、別・円の二教を一字に含む義は法華経で書いたのである。法華経で爾前の経の意を知らしめようとしたからである。

したがって、一代聖教を反覆して読んでも、法華経がなければ一字も諸経の意を知ることができない。また、法華経を読誦する行者もこの意を知らなければ法華経を読んだことにはならない。

爾前の経は深経であるからといって浅経の意をあらわさなかったり、浅経であるからといって、また深義を含まないというのではない。

法華経の意は一々の文字は皆、爾前の意をあらわし法華経の意をもあらわしている。ゆえに、一字を読めば一切経を読むことになり、一字を読まないのは一切経を読まないことになるのである。

したがって法華経のない国では諸経があるといっても得道は難しい。釈尊滅後における一切経の読み方は、華厳経にも必ず法華経をつらねて華厳の意をあらわし、観無量寿経にも必ず法華経をつらねて観無量寿経の意をあらわすべきである。諸経もまた同じようにするべきである。

そうであるのに、インドの末期の論師や中国の人師はこの意をわきまえないで、一経を講義して、おのおの自分はこの経の意を得たと思い、またその一経が諸経を超過しているとの増上慢をなしているのは、まったくその一経の意さえ得ていないばかりか、謗法の罪に堕するのである。

問うていうには、インドの論師、中国の人師のなかに、天台大師のように、阿難が仏典を結集する以前の、釈尊が直接に説いた諸経をこのように理解した論師や人師がいたであろうか。

答えていうには、無著菩薩の摂大乗論には四意趣をもって諸経を釈し、竜樹菩薩の大智度論には四悉檀をもって一代聖教の心を得ている。これらはほぼ釈尊の意を釈しているようではあるが、天台大師のように分明には釈していない。天親菩薩の法華論もまた同じである。

中国においては天台大師以前の五百年の間には、一代聖教の心を得た義は全くなかったのである。法華玄義の巻三には「インドの大論ですら、まだ比較に耐えない」と述べている。

妙楽大師の法華玄義釈籤巻三に「天台宗の章疏は法理に従い仏の教えに基づいており、およそ立てるところの義は、他宗の人々が、自宗を弘通するために、おのが経典を賛嘆しているのと同じではない。もし法華経を弘通するために偏って賛嘆するならば、それはおおいなる誤りである。また、他のことも同じである」とある。なぜかといえば、すでに「開権顕実」が説かれたというのに、どうして一向に権教を毀ることがあろうか。

華厳経の「心と仏と及び衆生、是の三は差別がない」との文について、華厳宗の澄観等がこの文で「一心・覚・不覚」の三義を立てたのは、その源は大乗起信論の名目を借りてこの文を解釈したからである。

南岳大師は「妙法」の二字を釈するのに、この「心と仏と及び衆生、是の三は差別がない」を借りて三法妙の義を立てた。天台智者大師は南岳大師のこの義を依用している。ゆえに天台宗の人は華厳・法華同等の義を立てているのであろうか。また、澄観は「心仏及衆生」の文によって「一心・覚・不覚」の義を立てたのみではなく、性悪の義を立てていて、澄観の釈には「天台宗ではこのことを実としている。華厳宗の立義は、それと理において通じないものはない」等と述べている。これらの法門を許すべきかどうか。

答えていうには、妙楽大師の止観輔行伝弘決の巻一に「もし天台宗のもろもろの円教の文の意がなければ華厳経の偈の法理を解釈することはできない」と述べている。同じ止観輔行伝弘決巻五には「法華経の文を理解することができなければ、どうしても『心造一切三無差別』の文を釈すことができようか」とある。又法華文句記巻七に「天台宗以外では全く性悪の名を聞いたことがない」といっている。

これらの文のとおりであるならば、天台大師の法門を心得ずしては華厳経の偈の意を知ることが難しいのである。また、中国の人師のなかには、天台大師のほかには性悪の名目を出している人はないのである。また法華経でなければ一念三千の法門を談ずることができないのである。

天台大師以後の華厳宗の末師ならびに真言宗の人々が性悪の法門をもって自宗の依経の所詮としているのは、インドから伝わったのか、祖師から伝わったのか。また天台大師の名目を盗んで自宗の内証の法門としたといえようか。よくよくこのことを調べてみるべきである。

問うていうには、性悪の名目は天台宗に限るのである。諸宗にこの性悪の名目はない。もし性悪の法門を立てなければ九界の因果がどうして仏界の上に現れるであろうか。

答えていうには、妙楽大師の止観義例には「もし仏が性悪を断じてしまえば、どのように種々の色身をあらわすことができるであろうか」と述べている。

問うていうには、円頓止観の証拠と一念三千の法門の証拠として、華厳経の「心と仏とおよび衆生、この三は差別がない」の文を引用しているのは、華厳経に円頓止観および一念三千が説かれているということではないか。

答えていうには、たしかに天台宗の人々のなかには、爾前の円と法華経の円とは同じ義であると考えている者がいる。

問うていうには、天台大師の三大部三十巻と妙楽大師の三大部注三十巻の計六十巻のなかに、蔵通別の前三教の文を引用して円の義を釈しているのは文を借りていると考え、爾前の円の文を引用して法華経の円の義を解釈しているのを借りないとするのか。

もしそうであるならば、天台大師が漸次・不定・円頓の三種の止観の文証に爾前の諸経を引用するなかで、円頓止観の証拠として華厳経の「菩薩、生死に於いて」等の文を引用しているのを、妙楽大師が釈して「還って爾前の教を借りて、法華経の妙円を顕す」と述べているのは、この文は諸経の円の文を借りたものと解釈できるのではないか。

もしそうであるならば、華厳経の「心と仏及び衆生」の文を一念三千の証拠に引用することは、これを借りているというべきである。

答えていうには、現在の天台宗が華厳宗の見を出ていないことをいうのか。

華厳宗の意では法華経と華厳経との比較について同と勝の二義がある。「同」とは法華経と華厳経の所詮の法門は同じであるとすることである。

「勝」には二義がある。古の華厳宗では教主である仏と対告衆である菩薩衆等について勝の義を立てる。近来の華厳宗では華厳経と法華経とにおいて同と勝の二義があると論じている。その華厳宗の「勝」にまた二つの義がある。

法華経迹門を華厳経と対比すると、そこに「同」と「勝」との二つの義がある。すなわち、華厳経の円と法華経迹門の相待妙の円とは「同」である。それは華厳経の円も麤を判じ、法華経の円も麤を判ずるからである。

法華玄義釈籤の巻二には「法華は相待妙と絶待妙の二妙のゆえに心法・仏法・衆生法の三法を真に妙ならしめているのである。爾前権教には円融はあっても、法華経のように相待妙・絶待妙の二妙はない」と述べている。

法華文句私志記には「釈尊が法華経以前に説いた八教のなかに説かれた円は、今経である法華経の迹門に説かれる相待妙の円と同じである」と釈している。これは「同」である。

法華文句記の巻四には「法界についていえば華厳経で尽きているが、仏慧をもって論ずるならば法華経に尽きるのである」と釈している。

また、同じ法華文句記の巻四には「まさに知るべきである。華厳経で説く尽未来際とは、法華経に説くところの常に霊鷲山にいるということである」と釈している。

これらの釈は爾前の円と法華の相待妙とが同じであるという釈である。

迹門の絶待開会は全く爾前の円とは異なるのである。法華玄義釈籤巻十には「この法華経には開権顕実、開迹顕本の二つが説かれており、この二点で法華経以外の余経とは全く異なる」と説かれている。

法華文句記の巻四には「もし仏慧をもって法華経とするならば、すなわち始終ともに……」と述べている。この釈は仏慧を明かすのは爾前経と法華経にわたるが、開会はただ法華経に限るということで、これは法華経迹門絶待妙の「勝」の義である。

爾前が無得道であることは分明である。そのゆえは相待妙・絶待妙の二妙をもって三法の各一法を妙ならしめねばならないが、既に爾前の円は絶待の一妙を闕いており、衆生も妙の仏となることができない。ゆえに法華玄義釈籤巻三に「妙が変じて麤となる」との釈はこのことである。これは華厳の円は変じて別教となるということである。

法華経本門においては、相待妙・絶待妙の二妙ともに爾前にないものであり、迹門にも説かれていない。爾前と法華経迹門とは異なっているけれども、二乗は見思惑を断じ、菩薩は無明惑を断じるということを一往は許して、再往は許していない。

法華経本門寿量品からみれば、爾前・迹門では三乗ともに一向に三惑を断じていないと心得るべきである。

この道理をわきまえないために、天台宗の学者は爾前と法華が一往は「同」であるとの釈だけをみて、全く異なるとの面を忘れ、その結果、名は天台宗であっても、その実質は華厳宗に堕落しているのである。

華厳宗に堕したために、方等・般若の円に堕し、結局は念仏の善導等の釈の見解を出ることができず、更にその結果は、謗法の法然と同じになって、師子身中の虫が自ら師子を食うようなありさまになってしまったのである。

仁王経巻下に「大王、我が滅度の後、未来世のなかにおいて、四部の弟子、もろもろの小国の王・太子・王子の、仏宝・法宝・僧宝の三宝を持ち守護すべき者が、ますます三宝を滅亡させ破ること、あたかも師子身中の虫が自ら師子を食うようなものである。外道ではなく、多くの仏弟子が仏法を破壊する大罪を犯すであろう」と説かれている。

法華玄義釈籤の巻十には「はじめ菩薩が十住以前の位から十住の初住位に至るまでの経の意は、全く円の義である。第二住位から次の第七住位に至るまでの経文の相は、次第順序を説いているので、別教の義に似ている。第七住位のなかにおいてまた、一つの位に多くの位を具足しているように弁じているところがある。次の十行位、十回向位、十地位はまた次第差別の義である。ゆえに十住位、十行位、十回向位、十地位の一つ一つの位にそれぞれ普賢・行布の二門を有していることとなる。ゆえに、華厳の円文を用いても、兼ねて別教を説いているので、結局は別教に摂せられることを知るべきである」と述べられている。

 

大果報御書

~の者どもをば少々追い出し、あるいは起請文を書かせて、法に過ぎた処置であったが、七月末から八月初めに所領がかわり、一万余束の作物さえも刈り取られて、山野に彷徨ったため、日蓮をなを誹謗しているからであると主君に言い切ったというが、貴殿が御帰りになった後、七月十五日から上も下も石灰という虫が降って、国の大体三分の一は飢饉に陥った。大方の人は生きていけるかどうかも分からない。これまで気をつかっていただいたうえは、もうどのようなものであっても不可能と思っていたけれども、かさねてのお志は法に過ぎることである。

日蓮がなによりも気掛かりなことは、貴殿の主君のご機嫌がどうであるかと気になっていたが、何事もなかったことは、大変喜ばしいことである。

高麗や蒙古のことは承った。なにはなくとも釈迦如来・法華経を失ったからには、大果報があったとしても三年はよもやもつまいと思っていたが、戦争や飢饉が続いた。我が国がどのようになるかはとにかくとして、法華経の弘まることは疑いないことである。

御母のことは、法華経を読誦することにします。この御使いが急ぐので、詳しくは申し上げない。恐恐。

 

南部六郎殿御書

眠っている師子に、こちらから手を付けなければ瞋ることはない。水の流れにさおを立てなければ、浪は立たない。それと同様に、謗法を呵責しなければ難を受けることはない。

涅槃経の「若し善比丘がいて、正法を壊る者を見ながら、これをそのままに置いて、呵責することがないならば……」との経文の置の字を恐れないならば、今はよいであろうが、後をごらんなさい、無間地獄に堕ちることは疑いない。ゆえに、南岳大師は四安楽行に「若し菩薩がいて、悪人をかばって、その罪を罰することができないで、そのために悪を増長させ、善人を悩乱して正法を敗壊させるならば、その人は実には菩薩ではない。外に向かっては詐りあなどって、常に、次の言葉を用いるであろう。『自分は忍辱の行を行っている』と。その人は、命が尽きて死んだ後、諸の悪人とともに地獄に堕ちるであろう」と。また、大乗大集地蔵十輪経には「若し正法を誹謗する者であるならば、ともに住んではならない。また、親しみ近づいてはならない。もし親近し、ともに住するならば、阿鼻地獄にゆくことになるであろう」といっている。たとえば栴檀の林の中に入ったならば、枝を手折らなくとも、身に木の芳香が薫るのと同じように、正法誹謗の者に親近するならば、仏法を修行して得たところの善根は、ことごとく消えて、誹謗の者とともに地獄に堕ちることになろう。故に、妙楽は弘決の巻四の三に「若し人に本来悪心が無くとも、悪人に親近するならば、のちには、必ず悪人となって、その悪名が天下に広く伝わる」といっている。

そもそも謗法には内と外の二つがあり、国家はこの二種の謗法を犯している。すなわち、外とは、日本六十六か国全体の謗法である。内とは、国の中心をなすものの犯している謗法のことである。

この内と外の謗法行為を差し止めなければ、日本国は宗廟と社禝の神に捨てられて必ず国家は亡ぶであろう。なぜかといえば、宗廟は、国王の神を敬うところであり、社とは地の神であり、禝とは五穀の総名で、五穀の神のことである。この宗廟と社禝の二つの神が、法華経の法味に飢えて、国を捨てられたために日本の国土は、日々に衰減しているのである。故に、弘決には「大地は広いためにすべてを敬うことはできないので、ある一定のところを封じて社とし、禝とは五種の穀物の総名であって、すなわち五穀の神を祭って禝というのである。故に、国主の住むところには、宗廟を左にまつり、社禝を右にまつって、春・夏・秋・冬の四時に、木・火・土・金・水の五行が天地間において順調に運行するように祈るのである。故に国の亡びることをもって社禝を失うというのである」と。以上のことについて、山家大師は「国中に謗法の声があるために、三災七難が起こり、万民の数を減じていくのであり、逆に、家に正法を讃めたたえる勤めがあれば、七難は退散するであろう」といっている。故に、家にあっても、各人にあっても、それぞれ謗法の内と外の二つがあるのである。

五月十六日           日 蓮  在 御 判

南部六郎殿

 

 

乙御前母御書

乙御前の母

いまは法華経を慕われて、仏になるべき女人である。返す

がえす、筆無精の者であるが、たびたび申し上げる。

また御房達をも、いろいろ面倒をみてくださっているとうかがっている。お礼の申しようもない。

なによりも女房の身としてここまでこられたことあなたの厚い御志があらわれるためであったのかと、ただありがたく覚えるのみである。

釈迦如来の御弟子が多くおられる中で、十大弟子といって十人の代表的な弟子がおられた。その中で目犍尊者という人は神通第一であった。四天といって日月の巡るところを、髪の毛一筋切らない間に巡られた。これはいかなるゆえかとたずねると、過去世に千里もあるところを通って仏法を聴聞したゆえなのである。また天台大師の御弟子の章安という人は、万里の道を踏み分けて法華経を聴かれた。伝教大師は三千里を経て止観を習い、玄奘三蔵は二十万里も旅をして般若経を得られた。

道の遠さに、志があらわれるのであろうか。彼等は皆男子である。仏菩薩の化現した人の行為である。今あなたは女人である。権実の教判は知りがたい身である。いかなる宿善を持った人なのであろうか。昔、女人は愛する夫を慕ってこそ、あるいは千里をも訪ね、石となり木となり、鳥となり蛇となった事もある。

十一月三日              日 蓮  花 押

乙御前の母

乙御前は、どのように成長されたであろうか。法華経に宮仕えをされる、その奉公は、乙御前の御いのちとなり、幸福になるであろう。○○○。

 

別当御房御返事

 文永後期 別当御房

聖密房の手紙に詳しく書いておいたから、寄り合って聴聞されるがよい。二間寺、清澄寺のことは、なにごとも聖密房にお話しされるがよい。妙密房が世間の道理をよくわきまえている者だから、このようにいうのである。

私に対する心配りのことなど夢にも思ってはいない。どれほどの手当になるか、ただ名ばかりのことでよいだろう。

また(わせいつを=意味不明)のことは、恐れ入っている。わずかのことについてご迷惑であろうとかえって嘆いているが、日蓮が恩を知っていたことをお知らせするためである。

大いなる名声を計るものは小さな恥にとらわれないといって、南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘め、中国・朝鮮にまでも弘めようとする大願を懐いているが、その願いを満たすべき前兆であろうか。大蒙古国からの国書がたびたびあって、日本の国のすべての人の大きな歎きになっているとみえる。日蓮は以前からこの他国侵逼難があると考えていた。予言の的中は閻浮第一の高名である。

しかし、これまで人々は日蓮を憎んでいるので、継子の功名のように心から用いることはないが、ついに身の嘆きが極まった時には、邪義に執着している人々も必ず悔い改めると思われる。これほどの大事を懐いている者が、二間・清澄寺のような小さな問題のことを強くいうのであろうか。

ただし、いま日蓮が心に願うことは生まれた土地のことである。日本の国よりも大切に思っている。たとえば漢の高祖劉邦が沛郡を重くみられたようなものである。それは沛郡が高祖の生地だからである。

聖人智人の跡は、将来中心となるのが通例であり、このことによって知られるがよい。清澄寺が日本国の寺々の主ともなるであろう。

日蓮は閻浮第一の法華経の行者である。それは天が与えてくれた理なのである。

米一斗六升・粟二升・焼き米は袋でいただき、そればかりでなく、人々の御志は申し尽くしがたい。心に痛み入る思いである。これから後は、心苦しく思ってはならない。人々にお話ししないように、また人々にくれぐれもよろしくお伝えください。

乃 時

別当御房御返事

 

 

除病御書

そのうえ、日蓮の身、並びに弟子は過去世の謗法の重罪が未だ尽きていないうえに、現世では、多年の間謗法の者となり、また謗法の国に生まれた。当時信心が深かったのであろう。どうしてその罪を脱れることができようか。ただし貴辺がこの病に罹ったことをある人から聞いたので、病気平癒を日夜朝暮に法華経を申し上げ、朝暮に青天に訴えてきたが、病気が治ったことをきょう聞いた。これ以上うれしいことはない。詳しいことはお会いしたときに申し上げよう。恐恐。

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