六、改竄説への批判

最後に本節の結びとして、浅井要麟氏のいう「教義法門の綱格」にかかわる問題に触れておかなければなるまい。それは日昭門流のいう「聖人の御詞にあらざる」改竄の語が本抄の中に紛れ込んでいるか否かという問題である。

もとより、日昭門流の言い分は、ほとんど言い掛かりに等しいといっても過言ではない。なぜならば、教学上の綱格にかかわる問題とは具体的には「教主釈尊より大事なる行者」(0363:01)との語句を大聖人御自身が記されたのか、否か、という点に集約されるであろうが、この御文は岡宮本には「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の以第五巻日蓮之面を打て」とあり、また日澄本にも「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五ノ巻を以て日蓮が頭を打チ」と明確にあることから、これが改竄・付加されたものと推測することは困難である。

なぜならば、日澄本と日法本に共に「教主釈尊より大事なる行者」と記されていることは、もし改竄があったとすれば、それ以前にさかのぼる。

改竄は富士門流にとるものと暗示しているわけであるから、日澄本のもとになった写本に改竄があったことになる。この場合、日法本の底本が日澄のそれと同じか否かはここでは問題外である。また、もととなった底本が御正本であれば、改竄説が成り立たないことは断るまでもない。

富士門流の人による写本のなかで、寂日房日澄師に先立つのは、日興上人、及び日興上人の直弟子に限られており、大聖人御在世当時、あるいは御入滅後間もない時代に、富士門流の教学的立場を意識して改竄がなされたとはおよそ考えられないことである。なぜならは、六老僧の中で日興上人のみが大聖人の正義を守り、御書の収録に努め、後世に正しく伝えようとされたのである。

そもそも改竄が必要なのは、大聖人の御書をありのままに残しては、自分たちの立場が危うくなる立場であろう。しかるに、日興上人ほど大聖人の御書を大事にされ、それを後世に残そうとされた御弟子はいなかったのである。であればこそ、日興上人は日興遺誡置文で「一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事」(1617:07)「一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事」(1617:08)と戒められたのである。

日興上人、およびその直弟子達が大聖人の御書をわざわざ改竄する必要などどこにもなかった。それどころか日興上人は、他門流によって御書を改竄されたり、御書を偽書よばわりされることを危惧されていたのである。そして、まさに日興上人が仰せのように、御真筆が伝えられないことをいいことに多くの御書が偽書扱いされていることは周知のとおりである。改竄説もそのひとつであるといってよい。

いずれにしても、本抄の教主釈尊より大事なる行者」(0363:01)との表現を改竄とする説にはなんの根拠も証拠もないのであって、釈尊を三宝のうちの仏宝、大聖人を僧宝とする自分たちの教義にとって都合が悪いという理由によってだされたものに過ぎない。

第三節 下山兵庫五郎光基と因幡房日永について

本抄は、日蓮大聖人が門下になって間もない因幡房という一人の僧のために、彼に代わって筆を執られた下山兵庫宛の御消息文である。したがって、本抄に込められた大聖人の御深意を拝するためには、因幡房と下山兵庫の関係を把握することがその前提となろう。

ことに大聖人は、対告衆によって、文体や表現等に細かい御配慮をされるのが常である。まして自分秩序の重んじられる封建時代社会状況の中での御執筆であるから、言葉遣いも、細かい気を配られることはいうまでもない。故に、本節においても相当のスペースを割いて、また可能な限りの史料を駆使して下山兵庫五郎光基と因幡房日永との関係について論究してみたい。

一、近年における通説との問題点

まず、近代における大聖人の御遺文研究の魁となった高祖遺文録を慶応元年(1865)に完成させた小川泰三は本抄の解説において「此章ハ大士因幡房日永ニ代テ其父下山兵庫助光基ノ為ニ記シタル書ニテ頼基ト一例也」と述べ、下山兵庫を因幡房の父と見る親子説をとっている。

因幡房と下山兵庫との関係をより具体的にうかがわせる資料としては、本抄の冒頭に引かれた下山兵庫からの書状の一節が挙げられている。すなわち「例時に於ては尤も阿弥陀経を読まる可きか等云云此の事は仰せ候はぬ已前より親父の代官といひ私の計と申し此の四五年が間は退転無し」(0343:01)との一文である。

これに関連して高田恵忍氏は、日蓮大聖人御遺文全集講義第19巻所収下山抄の序講において「『親父代官云云』、『父母の御為』等の文に拠れば、下山殿の子とするのが妥当と思ふ」と述べている。すなわち同氏はこれを、同氏が親子の関係であったことの裏付けになるとしている。

更にこれを受けた浅井要麟氏は、日蓮聖人御遺文講義第10巻所収の下山御消息解題において録内啓蒙の説を批判して「『親父の代官といひ』を『下山殿に仕へた親父の代理としても』と解釈した結果であらうが、この文は『父上あなたの代理としても』と解すべきであらう」と述べて親子説をとっている。ただしこの録内啓蒙の解釈については後述したいと思う。いずれにしても、この親子説に対する反論らしきものは見られず、ずっと通説になってきた。

ただし、今日では通説となっているこの親子説にしても、あるいは因幡房の父が光基の家臣であったとする主従説にしても、厳密な考証を経て主張されたものかというと必ずしもそうとは言えない面がある。それは主に史料の制約によるものと思われるが、本稿ではまず可能な限り史料にあたって、光基と因幡房の関係に改めて光を当ててみたいと思う。

そして、そこでこの問題点を摘出するとともに、親子説がどのような経過をたどって通説となってきたかをたどってみることにする。そのうえで改めて、本抄の内容に即しつつ、親子説の妥当性、あるいは主従説の可能性について検討を加えることにしたい。

二、親子説の再検討 日興上人時代の史料を中心として

下山御消息の御述作の由来についての最古の記述としては、既に触れた富士一跡門徒存知の事がある。これは、延慶2年(1309)、寂仙房日澄師の手になり、日興上人の名をもって述作されたものである。

その「聖人御書の事 付けたり十一ケ条」のうち第五条に「甲斐の国・下山郷の兵庫五郎光基の氏寺・平泉寺の住僧因幡房日永追い出さるる時の述作なり、直に御自筆を以て遣さる、正本の在所を知らず」(1605:03)と記されている。

上の文から、本抄の対告衆が下山兵庫光基であったこと、そして因幡房日永がこの光基から勘気を蒙った際、大聖人が因幡房に代わって自ら筆を執られた書であることが分かる。ここには光基と因幡房との関係が直接的には記されていないが、光基は自家の氏寺の住僧であった因幡房を「追い出」したことから判断すると、因幡房にとっては光基は決定的な権力をもっていた人物であったことはたしかであろう。

次に、下山兵庫五郎光基のその後の消息を知るための手掛かりにもなるとして、日興上人による御本尊の脇書きがある。すなわち日興上人の門下に下山又四郎義宗なる人物がいて、正中2年(1325)、日興上人はこの義宗に御本尊を授与されている。そして、この御本尊はその父親である下山五郎光基の33回忌に認められたものであったという。なお、この御本尊は現在、島根県の妙伝持に所蔵されている。

したがって、この正中2年(1325)から逆算することによって、永仁元年(1293)が光基の没年であることが知られている。

次に因幡房日永に関するもうひとつの史料として、日興上人が永仁6年(1298)に記された弟子分本尊目録が挙げられる。ここには「甲斐の国下山因幡房は日興が弟子なり仍て与え申す所件の如し、但し今は背き了んぬ」と記されている。

したがって、これらの事実から、日永と又四郎義宗とが同一人物たりえないことが明らかになる。なぜなら、かって大聖人より日号、及び御直筆の御本尊を賜りながら、俗名に戻って日興上人から御本尊を授与されることはまずありえないし、しかも永仁6年(1298)に今は背き了ぬ」と記された人物に、正中2年(1325)に御本尊を授与されることはありえないからである。

次に、これよりやや後の史料としては、貞和4年(1348)に行われた富士門徒日寿と日朗門流の日学との間の問答をもとに重須談所の第二代学頭であった三位日順師の著した摧邪立正抄がある。同抄には、次のように述べられている。

「甲州・下山・若宮の内に一宇の堂を建て平泉寺と号す、時に下山五郎光基の所領なり、住僧有り、日永と名づく身延に詣でて法華に帰するの刻み地頭より問状を遣わす。返報は大聖の御筆なり、仍て所の名に寄せて下山抄と呼ぶ、法体に准ずれば顕本抄と号す」と。

日順師は摧邪立正抄執筆当時、下山の大沢に隠居しており、下山の地理等には詳しかったであろう。その日順師も地頭の下山兵庫五郎と因幡房日永との結縁関係については特に触れていない。つまり摧邪立正抄からは光基と因幡房との間の親子関係は浮かび上がってこない。もちろんだからといって親子関係を否定することはできない。

次に、下山の地にゆかりのある重要人物として挙げなければならないのが、下山左衛門四郎光長の名である。富士一跡門徒存知の事において、日興上人自身の手によって延慶3年(1310)に追加された8箇条の一つに「甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり御遷化の後民部阿闍梨を師と為す」(1608:15)とあり、また弟子分本尊目録には「一、甲斐の国下山左衛門四郎は因幡房が弟子なり仍って日興之を与え申す。但し聖人御入滅後に背き畢ぬ」と記されている。同じ日興上人の筆による上の二つの史料中「左衛門四郎光長」と「下山左衛門四郎」とが同一人物であることは論をまたない。

この左衛門四郎光長と、前述の下山兵庫五郎光基の子息・又四郎義宗との関係はどうか。この二人を同一人物とする向きもあるが、一方は光長、もう一方は義宗であり、元服や入道による改名の場合を除いて、同一人物が全く別の呼称を用いることは考えられず、また前述したように「聖人御入滅後背き畢ぬ」とされた光長に日興上人が再び御本尊を授与されたことはありえないから、両者は明らかに別人である。

さてここで、この左衛門四郎光長と兵庫五郎光基との関係について考えると、兵庫五郎光基が下山の地頭であったことは摧邪立正抄に記されており、一方、富士一跡門徒存知の事には左衛門四郎光基が下山郷の地頭であったと記されている。両者が共に下山郷の地頭であったことのほかに、両者は共に因幡房と信仰面において重要な関係を有していたという点において共通点がある。つまり、因幡房は、光基にとって氏寺平泉寺の住僧であり、光長にとっては大聖人の門下となった時の師であった。しかのみならず、両者の名には共に光の名がついている。

このように見てみると、光基と光長とは少なくとも同族の結縁者であったと思われる。そして、親子であったとする可能性も十分に考えられるのである。また、陰山荒雄氏が想定されたように、光基の次の代の地頭が光長であったという可能性も極めて高いと思われる。

さて光長は光基の実子であったと仮定すると、前述べした、光基の33回忌に日興上人より御本尊を授与された光基の子息・又四郎義宗は、光長とは兄弟であったということになる。

さて、光基の命日は永仁元年(12931111日ということになっている。そして前掲富士一跡門徒存知の事の続きに「而るに去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず、聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す、爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る」(1608:16)とある記述によって、その跡を継いで地頭の地位を継承した光長は、光基の死後、時をへずして新堂の造立を行ったことが知られる。新堂造立の数年後の正安2年(1300)に民部日向によって開眼供養の義が行われたのであるが、その際に日澄師はそれまで師としていた日向と絶縁して日興上人に帰伏した。このころにはすでに日向に従った光長と日興上人に従った又四郎義宗との間にも、当然、溝が生じたのではないかと推測される。

やがて、正中2年(1325)に光基の33回忌の法要が執り行われ、大聖人の御命日という1013日の意義深い日に又四郎を願主として日興上人より光基追善のため御本尊が授与されたのである。

ところで本抄の御正本は、光基の死去より16年後の延慶2年(1309)の時点では既にその行方が不明となっていた。もしも日興上人に従った又四郎義宗が光基より直接家督を相続したのであればこういう事態は避けられたかも知れない。このことから左衛門四郎の時期にいずれかに持ち出されたものと考えられるのである。

なお、御正本持ち出しには光永の師であった因幡房が関与していたとも考えられる。

以上の考察により、下山郷の地頭であった兵庫五郎光基の直接の家督相続者は左衛門四郎光長であって、光長が光基の実子であったと思われる。もし通説によって、因幡房も光基の子であったとすると、因幡房と左衛門光長は兄弟であったということになる。これを裏返していうと、もし因幡房と光長との間に兄弟という結縁がなかったとするなら、因幡房を光基の子とするこれまでの通説は再検討の余地があるということになろう。

しかし、先に引いた日興上人の弟子分本尊目録には「左衛門四郎は因幡房の弟子なり」と、その師弟関係についてのみ記されており、血縁には触れられていない。もちろん、兄弟でかつ師弟の関係にあったとも考えられなくもないから、このことから直ちに両人における血縁関係を否定することはできない。

また、門徒存知事によれば、左衛門四郎光長は大聖人御在世当時には大聖人の門下になっていた。先の「左衛門四郎は因幡房の弟子なり」との文から、光長は因幡房の折伏によって帰依したものと推察される。光長の入信は、因幡房の御勘気の以前であったであろうか、それとも以後であったろうか。もし以前であったとすれば、因幡房の折伏によって光長までが入信を始めたことから、光基はただならぬ事態に傍観できずに、さっそく因幡房の影響を排除しようとして彼を追い出しにかかったと考えられる。

その場合、もし因幡房と光長が兄弟であったとすれば、因幡房が光基より勘気を被った際、光長一人がかやの外にあったとは思えない。やはり二人は同罪であったろう。しかしながら、本抄の文面からはそのような事実はうかがえない。

あるいは、光基と光長の二人は下山抄を受け、因幡房の勧めによって相前後して入信したものであろうか。その辺の経緯は不明であり、特に光基はその後の消息がはっきりしていない。

いずれにしても、因幡房と左衛門四郎光長とが兄弟であったか否かについては、上に見たように史料の上からは明確にすることはできない。このような意味で光長が光基の実子であると仮定した時、因幡房と光長との兄弟関係が立証できなければ、光基と因幡房の親子関係についても立証することは困難であるといえるのである。

光基の33回忌の時点では、その子息又四郎が日興上人の弟子の立場を貫いており、またそれよりはるか以前に光長と因幡房は日興上人に背いて日向の弟子となっていたこと、その間に本抄の御正本が日興上人の側にとっては行方不明となっていたこと、おそらくこれは、光長・因幡房とむすびついた日向が、これを手に入れたのであろうと思われる。

これらの事実を総合するならば、地頭下山兵庫五郎光基の直接の後継者は光長であったと見られ、両者が親子であった可能性もかなり大きいのではないかと思われるが、断定はできない。そして、少なくとも以上の推測を否定する根拠となる史料は知られていないのである。

ところで、文明10年(1478)に書かれた行学院日朝の元祖化導記下には「或記に云く、弘安五壬午九月八日の剋身延の沢を出御有りて、其の日は下山兵衛四郎の所に「宿」とある。上文中の下山兵衛四郎というのは、おそらく兵庫五郎の名と左衛門四郎の名が混合したものと思われる。そのいずれが正しいかは判断できないが、その後、円明院日澄が著した日蓮聖人註画讃には「身延の沢を出でて下山に宿し」とあり、下山とのみ記している。

また、天明元年(1781)に刊行された本化高祖年譜では元祖化導記を踏襲し、「下山四郎に投宿す」とし、「下山四郎、具には兵庫四郎と曰ふ」と述べるとともに、他の伝記に「下山兵庫」とあることを記している。その一例を挙げれば、六牙院日潮が享保15年(1730)に著した本化別頭祖統記には「身延を発し、下山兵庫が館に舎す」とある。なお同書では下山抄を受けて兵庫五郎光基が大聖人に帰依したとしている。

三、親子説通説化の過程 16~18世紀の史料による

これまでの考察により、下山五郎光基と因幡房日永とが親子であるという通説が史料の上からは必ずしも決定的とは言えず、そこは再検討の余地があることが知られよう。にもかかわらず、これが今日まで、ほとんど通説となってきたのである。そこで、この親子説が形成され、これが通説となった過程を跡づける必要がある。

まず、永正3年(1506)に著された弘教寺日犍の御書鈔には、下山の題下に次のように記されている。

「是は初めつかたの御文章に意を得難し。此の下山と云う処は身延より五十町艮へ下って之有り、甲斐の国の中なり。此の在処地頭を下山殿と云ふ。今は皆信者なるが、其の時分は謗者なり。此の人の子に因幡殿と云ひて出家之有り。身延に参って聖人の御座ある体を拝見申し、又御法門を聴聞して信伏せられたり。而れども親には其の旨を何にも隠し居られたり。去る程に其の親が今の子を折檻せられたり。其の言に何としたる事ぞ、此の間の体は例時の阿弥陀経をも読まざる曲事なり』と云云。事の次でも父を教化せん為に高祖へ申して御書を書せ参せ。我が教訓伏にせられたり。去る程に、御抄は大聖の御作文の主は今の法師の親の方へ捧る状也、さてこそ下山抄と名づくる事聞きたり」

これは、本抄の冒頭に「例時に於ては尤も阿弥陀経を読まざる可きか等云云」と仰せられた一節の注解として記された文章のようであるが、今日の版本ではその前の題下の方に移されて本抄の総説として扱われている。ともあれ、これが、親子説を立てている。今日我々の確認することのできる最初の史料である。

これに対して、その約200年後の元禄8年(1695)に完成した不受不施派の安国院日講の録内啓蒙には要行因日統著の日統抄の文として次のようにある。

「下山殿の御内に奉公せし人の子に因幡房と云える出家これあり、其の親父奉行の恩に下山殿より屋鋪の内の堂を給はりしに、因幡房を其の堂の別当のやうにしておかれし処に、因幡房吾祖の法門を信ぜしに依りて例時の阿弥陀経をよまず。これに依りて下山より御とがめありしかば、聖人へ申して御書を書かせまいらせ、我が状のやうにして下山殿へまいらせられたり」

上の文は常寂院日芳の手になる本抄の端書の意を略述した文章であるという。ここには下山兵庫五郎と因幡房の父とが主従という関係にあったことが記されている。これは健抄とは真っ向から対立する説である。

更にまた録内啓蒙には、平賀本土寺七世日意の御書端書にあるとして次の一文が引かれている。

「下山殿は下山兵庫助光基と申す人なり。下山郷の内、平泉寺と云う処に因幡房を別当としておかれたり。本は天台宗なりしが、吾祖へ帰伏し、祖師の御書をかかせまいらせ自身作文のやうにして下山殿にまいらせたり。

この文には、光基と因幡房とが親子関係にあったとは全く述べていない。日意もまた必ずしも親子説を決定的とは認めていなかったのかも知れない。

録内啓蒙では、以上のように健抄、日統抄及び平左賀日意の御書瑞書を引用した後で「『親父代官』の言に依るに、尤も統抄の義を以て正とすべし」と、下山兵庫五郎と因幡房の父とが君臣の関係にったとする日統の義が正しいと考えられる、と記しているのである。

なお、上文中の「『親父代官』の言」とは本抄冒頭部の「親父の代官といひ私の計と申し此の四五年が間は退転無し」の一節を指している。この御文の解釈としては、影山英雄氏が「父の代官も因幡房自身も、この四五年が間怠りなく阿弥陀経を読んで居た」としているが一見最も自然なように思われる。

しかし影山氏は親子説を前提としており、同氏のいう「父の代官」とは「父下山兵庫の代官であるところの人物」を意味していることになる。

これに対して、既に述べたように因幡房の父が下山兵庫五郎でなかったとするならば、「親父の代官」とは因幡房の父親が代官であったことを示すことになるであろう。この時代のようほうとしては、代官とは必ずしも近世のそれの如く公的に任命された代官を意味するのではなかった。したがって、その場合、因幡房の父親は下山兵庫五郎の家臣であったと思われる。

以上の考察から、次のことが確認できるであろう。すなわち健抄の記された16世紀当初までに親子説が成立していたことは事実であるが、平賀日意や寂日院日房の御書瑞書、更には日統抄や録内啓蒙では別の説をとっており、1617世紀半ばにおいては、親子説はいまだ定説にはなっていなかったのである。

次に18世紀に記された注釈として、享保13年(1728)禅智院日好の手に成った録内扶養がある。その本抄末段の「併父母御為候」の注釈に「次下の君父諌争の事、又『是は親の為に読み進せ候はぬ』の文等に準ずる因幡公此の書を以て親父を諌む書なるべし。の義然るべきか。故に日統抄は此等の文に疎遠たり。若し爾らば下山殿直に因幡公の神父なるべし、若し然らざれば『父母の御為』の文消し難し」とあり、日好は親子説をとっている。

上の文によれば、彼は日統抄を見ていたのであるが、その見解と対立を否定していることがうかがえる。ただし、その対立は主として本抄の本文の解釈上の相違に基づいていたのである。したがって、親子説にしても主従説にしても、いずれもそれを裏付ける決定的な史料というものではなかったといえるであろう。あるいは、この録内扶養の著された18世紀の頃には、親子説が定説化への方向へ傾いていたのであろうか。そして、やがてこれが19世紀の小川泰道氏へと受け継がれていったのであろうか。

四、親子説の通説化への過程 18~20世紀

前項で検討したように、下山兵庫五郎と因幡房を親子とする説は少なくとも17世紀前半頃までには主流を占める説ではなかったが、あるいは18世紀頃から定説化していったのではないかと推測してみた。そこで今度は一転して、親子説が完全に定説化した昭和の時代まで下ってみる。

下山家の家系と因幡房及び光基が入信に至った経過について比較的詳細に記したものとしては、昭和9年(1934)南巨摩郡連合教育会が発行した南巨摩郡郷土史概要に次のようにある。「後深草帝建長年間に、甲斐源氏加賀美次郎遠光の男、秋元太郎光朝の二男、下山小太郎光重が、下山領主として居住した。光重の男、下山兵庫光基は盛名があった。

現本国寺、下山小学校一帯の地域は、下山氏の居館の在ったところだと謂はれている。

光基は館の傍に平泉寺といふ寺を建立して、真言宗を信仰した。一族皆競って之にならった。光基の子四郎は幼少の頃から出塵の志厚く、入道して因幡房と称した。京都に上り、或は比叡山に或は高野山に登って修行した。晩年下山に帰って父の代官となった。

たまたまかっての法友最蓮上人の指導によって、日蓮に見参し、慈教を得て日蓮に帰依した。父光基は之を喜ばなかった。父子宗旨を異にして争った。日蓮は四郎に代わって『下山御消息』をものして光基に送った。光基は之をみて忽ち日蓮に帰依した。時は後宇多帝建治三年。光基が得度染衣して名を法持房日房と称し、因幡房も亦日永と与えられた。而して平泉寺を長栄山本国寺と改称し、最蓮上人を開基とした。

下山氏は四郎でその家族は絶えてゐる」

ここでは、平泉寺を真言宗の寺としたり、入道と出家のとの用語上の誤りがあったり、因幡房日永と左衛門四郎光長とを同一人物としたり、また下山兵庫五郎光基は出家も入道もしていなかったはずであるのに得度して法持房日芳と称したり等々、史実を伝える史料として見るなら、誤りだらけの使用に耐えない。ただ、上の記述は俗説がどのように形成され、あるいは継承されたかということを研究するうえにおいては、かえって貴重な「史料」となる。

ところで、上文の典拠については、何ら記載がないのであるが、その主として拠ったところは下山本国寺の寺記、並びに甲斐国志であったと思われる。このうち寺記をまず挙げれば、日蓮宗大観に下山本国寺の由緒沿革として次のように記されている。

「長栄寺と号して、開山最蓮房日浄上人の旧跡たり、開基因幡房日栄は巴主下山兵庫輔光基の子、下山入道入道にして開祖の叡山修学の砌り旧知の人、初め文応二年光基館の傍に一宇を創し平泉寺と称し、弥陀を安置し因幡房に法華経を読ましむ、会々文永十二年の春の末、最蓮房上人、身延の宗祖に奉持せんと光基の館に泊し、因幡房と共に御草庵に宗祖を拝す。信根忽ち発し帰来弥陀経を捨てゝ専ら妙経を読む。父懌ばず、因幡房之を宗祖に謀る。大聖人為めに宗教一策を著す、建治三年六月朔日の『下山御消息』これなり。光基拝読旧習霧散し、自ら身延に詣でゝ受戒得度す。法重房日芳是なり、因幡房は日栄と云う、共に宗祖の賜う所なり…大聖人滅後、最蓮上人は、聖廟参拝を朔日課とし、身延寺平搭林を建つ、実行山本因寺と云う。…天正七年三月十八日、本因寺を当山に合し、現地に復帰し輪奐悉く具はる。然も再三祝融等の災あり」

この史料も、因幡房日永を日栄としたり、因幡房を大聖人を旧知であったとしたり、光基が得度して法重房日芳となったりしたり、実子山本因寺を実行山本因寺としたり、誤りが多い。日永→日栄、法持房→法重房、実子山→実行山、というような同音または類似音による書き換えの例が多くあるのは、口承による伝承が多く拠ったためと考えられる。

また先の寺記中で因幡房を下山次郎入道としているのは、伊予守松平定能の編纂になる甲斐国志巻116、土庶部15所の東鑑の文歴2年(1253)の項に現れる「下山次郎入道」の項に現れる「下山次郎入道」と強引に結び付けようとしたものと思われる。その故に巨摩郡郷土史概要において、因幡房が「出家して」とすべきところを「入道して」と記したのであろう。

次に同じ甲斐国志の下山小太郎光重の項には次のようにある。

「年譜に、下山の巴主兵庫光基受戒。同攷界に兵庫光基は諸書に攷す可きものなし。又曰ふ、因幡受戒して日永と号す。或は云う光基の子或は云ふ、光基に奉事する者の子」

上文中の年譜よは、先に引いた本化高祖年譜のことであり、日諦・日耆の共著で安永8年(1779)に成立し、その2年後に発刊された。干本一巻と政異三巻とから成る。この高祖年譜では健抄の親子説と因幡房が父の家臣であったとする統抄の主従説と併記していることがある。そお時点では、親子説がまだ完全には定説化していなかったとみるべきであろう。とするならば、定説化への傾向は18世紀末から19世紀にかけのことではないだろうか。

五、最蓮房との関係の有無について

これまでの考察から下山兵庫と因幡房が親子であるとする説は、16世紀頃には成立し、18世紀末から19世紀にかけて通説化へと傾向をたどっていったことが理解されると思う。

そこで本項からは、これまでに検討し残してきた問題、すなわち本国寺寺記に三開祖として名を連ねる因幡房・光基・最蓮房のうち前二者と最蓮房との関係について論究しておかねばならない。

甲斐国志87の仏寺部第15の長栄山本国寺の項によれば、次のようにある。

「開山は最蓮房日浄、高祖年譜に云ふ。文永九壬申年二月朔、台徒最蓮来り門人と為る。是を日浄す。建治元乙亥年最蓮先に已に罪に坐し左州に謫せらる。赦に値て来り乃ち廬を下山に締ぶ。身延山に隣る。常に大士の事ふることを為す。攷異に云う。日浄は或は日栄に作る。字は最蓮。洛の人に曰く、駿の人と。台家一時の俊なり。故有りて佐渡に配さる。文永九壬申大士に見えて門人と為る。建治元年赦に逢甲に如く。大士に事ふる事本文の如し。延慶元年四月十八日化す。遺文中書九本を賜ふ…建治三年下山の邑主兵庫光基嘗て団焦を造りて弥陀の像を安ず。僧を講じて弥陀経を読ましむ。経僧因幡房陰かに大士帰す。故に唯妙経を読む。兵庫懌ばず。因幡之を諭さんと欲して大士に謀る。大士之が為に宗教一策を著す。六月朔書成る。兵庫一たび萬目して油然として信発し、自ら来たりて戒を受く。寺記に云ふ、兵庫助光基日蓮に帰依して己が家を寺とす。当寺即ち是れなり。法名は日芳、弘安六年三月三日卒す。因幡房は日栄と名づく、日浄を以て開基とせり」

この甲斐国志の記述が高祖年譜及び当時の本国寺寺記を典拠としたものであることは明らかである。ところで、ここでは光基と因幡房と親子関係にあったとはしていない。甲斐国志編纂時における寺記と今日見られる寺記との間には、内容的にある程度違いがあったとも考えられる。あるいは、史料編纂に手なれた甲斐国志編者はこの点について慎重を期したのかもしれない。

さて、上の文中で、最蓮房日浄の死去を延慶元年(1308418日としており、このことは下山本国寺の墓銘に刻まれている。しかし、光基の死去は、前述のように、永仁元年(1293)であり、その33回忌に子息又四郎義宗が日興上人より賜った御本尊には、光基という俗明が記されていたのであるから、彼が出家したという事実は認められない。よって弘安6年没の法重房日芳なる人物と別人であることは明らかである。

ところで、寺記は、自らの権威づけのために俗説をもとに創りあげることは往々にしてあるから、これを無批判に史料として用いることはできない。しかしながら、最蓮房が因幡房らと何らかの関係を有していた可能性は否定できない。

というのは、影山氏によれば、愛知県の長福寺に所蔵されている大聖人の御真筆と称される御本尊の側書きに“建治二年二月八日”最蓮房日浄にこれを授与した」と認められていることから、この建治2年(1276)に最蓮房が大聖人のおられる身延に登山し、その直後に下山に滞在して日永を折伏したという可能性も考えられるからである。したがって本抄の初めに「おぼろげの強縁からではかなひがたく候にしに有人見参の候と申して候しかば」と仰せの「おぼろげ」ならざる「強縁」の人が最蓮房であったという可能性もあろう。いかにその可能性の当否を若干の考察を加えておく。

まず、最蓮房が佐渡流罪中赦免後に下山に定住したことを記す初出の史料と見られるのは、享保15年(1720)に六牙院日潮によって編集された別当統記第12巻の記述である。

「十一年甲戌の春、高祖鎌倉に帰る。…翌年乙亥栄果して赦を得。骨肉旧友を見ずに直に身延に至り定省く戌戌奉侍す。晩に茅を山麓に結びて終焉す。延慶元年戊申四月十八日化す」

しかしながら最蓮房が晩年に下山に定住した根拠はなく、上の記述を無批判に受け入れることはできない。

次に、最蓮房に関する史料として、下山本国寺に所蔵される寂照院日乾筆の本尊の側書が挙げられる。すなわち、これによれば、慶長16年(1611)の時点において下山の実子山本院寺に最林房日利という住持がいたことが判かるという。更にこれと関連する史料としてはこれより1世紀余り後に記された前引別当統記の続きに記される。「或は云く、志茂山本国の改山西林房日芳なりと。其の日芳末だ何人なることを詳かにせず。恐らくは謬ならんか」との文である。

これまでの史料を突き合わせると、慶長年間に実在した実子山本因寺の最林房日利なる人物が、いつしか本国寺の開山と伝えられていた法重房日芳なる人物と混同され、そして、これが更に西林房日芳と誤り伝えられてしまった、という当時の誤伝の経過が手にとるようにわかるのである。

このように考えてくると、下山本国寺の開山を最蓮房とする説は根拠薄弱であり「おぼろげならざる強縁の者」を最蓮房とする可能性も極めて小となる。

むしろ、前掲の弟子分本文の目録に「因幡房が日興が弟子なり」とあった記述を想記すれば、因幡房は最蓮房の弟子ではなくて、日興上人の弟子であるから、因幡房のいう「おぼろげならざる強縁」の者とは日興上人あるいはその人脈に連なる人物であろうと思われるのである。

ところで昭和55年(1980)に刊行された池上本門寺編日蓮宗寺院大鑑によれば、下山本国寺は「最蓮房さん」という通称をもっているとのことである。同寺には最蓮房の墓碑があり、かつ大聖人の御直筆から書写したことを伝える天正3年(1575713日付けの日叙の奥書きを有する最蓮房ゆかりの祈禱経が所蔵されているという。

しかし、影山氏も指摘するように、これらがあるからといって最蓮房が下山に住したという証拠にはならないのである。むしろ、下山本国寺の開山として後世の人が最蓮房を祭り上げ、これを権威づけるために本国寺に墓碑を設け、また祈禱経の写本を入手したと見る方が筋が通っている。

前項甲斐国志仏寺部でも「按ずるに最蓮西林音相近し、古今通用して最蓮坊と称せしと見えたり」と述べており、上の考えを支持したものといえよう。すなわち最林房あるいは西林房という人物と最蓮房を同一視することによって、最蓮房が下山本国寺の開祖であったという誤伝が生じ、これを利用して最蓮房を本国寺三開祖の一人として祭り上げてしまったと考えられ、甲斐国志の編者松平定能もその経過を洞察していたと思われるのである。

以上の考察により、下山本国寺の三祖とされた最蓮房、下山兵庫五郎、因幡房のうち、少なくとも最蓮房および下山兵庫五郎については、根拠のない俗説に過ぎないことが明らかとなった。

大聖人御在世当時にあって、宗門の中で下山の地にゆかりのありそうな3人を本国寺の開基に祭り上げることによって寺の権威づけがなされたものであったことは容易に察せられるところであろう。たとえ伝聞であっても一度記録されてしまうと、それが史実とかけ離れていたとしても、やがてそれが独り歩きしてしまうことがしばしばである。しかしながら、史実に基ずかない俗伝を多く記す寺記の類に引きずられて、その結果、最蓮房を因幡房の師であるとしたりすることは、厳につつしまなければならない。

六、光基と因幡房の人間関係

前項では、下山兵庫五郎を因幡房の父親とする説が登場するのは16世紀当初の健抄以来であり、14世紀に著された三位日順師の摧邪立正抄では特に触れられていないこと、また15世紀の平賀日意による御書瑞書、16世紀の日統抄、17世紀の録内啓蒙及び18世紀の本化高祖年譜においては必ずしも親子説をとっていないことを確認した。そして更に、これらの対立が史料に基づくものではなく、本文の解釈上の相違でよるものであることを明らかにした。

加えて、最蓮房を開基に祭り上げようとする寺記との関連の中で親子説が通説化していった経過を概観してきたのであるが、最後に本項では、下山御消息の本文そのものに照らして光基と因幡房との人間関係について論及しておきたいと思う。

まず両者の人間関係をめぐって解釈が対立する御文を挙げてみよう。それは、本抄の冒頭に記された次の御文である。すなわち、因幡房が大聖人に帰依してより阿弥陀経を止めて、法華経を読誦するようになったために、光基が「例時に於ては尤も阿弥陀経を読まる可きか」(0343:01)としたこに対して答えたところである。

「此の事は仰せ候はぬ 已前より親父の代官といひ私の計と申し此の四五年が間は退転無し」(0343-01

この御文中の「親父の代官」をめぐってまず解釈が分かれるのである。第一に、父、光基の代理として因幡房が法華経を読んでいたという解釈である。第二に「親父の代官」を父・光基の代官とする説である。第三に、因幡房の父が光基の代官であったと考える立場である。日統抄や録内啓蒙はこの解釈をとっている。

確かに、この御文に限れば、これらのいずれの解釈も成る立ちうるように思われる。いずれの説が正しいかを判断する決め手とはならないといえるであろう。

次に本抄の末尾に「此の身に阿弥陀経を読み候はぬも併ら御為父母の為にて候」(0363:17)と仰せられている。これは因幡房が阿弥陀経を読まないのは「御為」であり、また同時に父母の為であるとも言いたいのであるが、はじめの「御為」とは具体的に何を指しているのであろうか。

ところが、この御文は浅井要麟氏の編纂による昭和新修では「此の身に阿弥陀経を読み候はぬも、併しながら御為父母の御為にて候」となっており、はじめの「御為」の文字が削除され、「父母の為」が「父母の御為」と訂正されている。ちなみに昭和新修の底本となった縮冊遺文は上に引いた御書全集と同一であり、昭和新修は親子説を前提として校訂したものと思われる。

また日法所持本では「御為、又父母の為にて候」と「又」の一字が加わっている。これは、昭和定本の脚注によると日澄本も同様であり、昭和定本もこれに倣っている。

昭和新修の改定はやや独断の感もなきにしもあらずであるが、浅井氏はこの「御為」が誰を指すかが明瞭ではないので、文意を明確にするために「父母の御為」と直したものと推察される。

戸頃重基・高木豊氏は「併御為」について、注で「すべて下山兵庫五郎の御為」と記している。この解釈では、下山兵庫五郎が因幡房の父とは見ていないように受け取れる。なぜならば、もし下山兵庫が因幡房の父であるとすれば「御為」のあとに「父母の為」とあるのは不自然だからである。

そこで、先の「親父の代官」をどう解しているかというと、注に「父の代官としても、私としても」と記している。これはどちらともとれる表現である。つまり、これだけでは因幡房の「父」が下山兵庫なのか、あるいは兵庫とは別人なのかはっきりしない。なお高木氏の『日蓮とその文弟』には「日永は甲斐下山兵庫五郎の持仏堂の堂僧であったらしい」と記すのみで、それ以上は言及していない。これらのことから、高木氏らは下山兵庫五郎と因幡房の関係については慎重な態度を取っていたと想像される。

次に、高田恵忍氏の日蓮聖人御遺文全集大19巻の見解を見ておきたい。原文はそのままで「併ら御為父母の為にて候」となっており、その通釈では「私が阿弥陀経を読誦しませぬのも、偏に御両親の御為であります」としている。これは、「御為」を“父の為”と解した結果であろう。つまり“父の為であり、両親の為である”との意である。しかし、これだと「父母の為」ではなく「父母の御為」とあるべきではないか。しかも、本抄の末尾にも「親の為に」とあることから、この「御為」とは、親のことを指していったものではないと考えられるのであり、その意味で高田氏の解釈にはやや疑問が残る。

下山氏と因幡房が親子であるとすれば、前後の文脈から「御為」は、あるいは「国の御為」の意と解せられる。また因幡房の父が下山氏ではなく、その家臣であるとすれば、この「御為」は下山氏を指して言ったものと理解するのが最も妥当であろう。

したがって、この御文からも因幡房と下山氏の関係を解明するのは困難なのであるが、一つ気になるといえば、本抄の文中、下山氏に対して一貫して敬語を用いられており、「御後悔や候はんずらん」(0364:02)「現当の御歎きなるべし」(0364:07)というように、名詞には丁寧に「御」をつけてへりくだった表現をされていることである。それに対して、親にかかわる箇所では「親父の代官といひ」(0343:01)「父母の為にて」(0363:17)「親の為に」(0364:08)といった表現をされている。

これは、下山氏は因幡房の親ではなく主君に当たると考えれば、この使い分けが納得できるように思われる。ただし、事例が限られているので即断することはできないが、一考の余地はあるのではないであろうか。

さて大聖人は、更に因幡房自身の言葉として「世間の人人の思いて候は親には子は是非に随うべしと君臣師弟も此くの如し」(0364:03)と仰せられたうえで、①釈尊が父の浄飯王に背いてこそ父を成仏の道へと導くことができた、②比干が紂王を諌めたために殺されたがそれによって賢人の名を得ることができた、との事例を示されている。

この二つの例は諸御抄で取り上げられているが、前者は明らかに孝養の例であり、後者は開目抄に「比干は殷の世の・ほろぶべきを見て・しゐて帝をいさめ頭をはねらる、公胤といゐし者は懿公の肝をとつて我が腹をさき肝を入て死しぬ此等は忠の手本なり」(0186:04)と仰せられているように、忠義の例である。また聖愚問答抄にも「殷の紂王は悪王・比干は忠臣なり政事理に違いしを見て強て諌めしかば即比干は胸を割かる紂王は比干死して後・周の王に打たれぬ、今の世までも比干は忠臣といはれ紂王は悪王といはる」(0493:03)と記されており、紂王と比干とを主君と臣下の関係とされている。

史記などによると比干は紂王の父方の叔父に当たり、紂王は暴政に対してその非を責めたところ、紂王は逆上して「おまえは聖人か、聖人の心臓には七つの穴があるという」と言い、たちどころに比干を殺し、心臓をえぐりだしたという。

ところが、本抄では「比干が親父紂王を諌暁して」(0364:07)と述べられており、孝養の例とされているようにも拝される。であればこそ、そのやや後に「此れは親の為に読みまいらせ候はぬ阿弥陀経にて候へば」(0364:09)と、念仏を止めて法華経を読誦しているのもひとえに親の為であることを述べられているのではないであろうか。

このことから、下山兵庫が因幡房の父であったかどうかは別にして、大聖人に帰依した因幡房が念仏を信ずる親と信仰の面で対立し、親から相当の圧迫を受けていたと考えてほぼ間違いあるまい。

ところで日興上人が日目上人に与えられた御手紙の中で下山抄に触れられているものがある。御正本が大石寺にある卿公御返事がそれである。その御手紙は、日目上人の祖母に当たる故西光寺尼御前の法事に際して、法華経によるか先祖伝来の念仏によるかで紛糾していたために、日目上人の母・蓮阿尼と時光が指導を仰いだ際、日目上人に宛て認めたものであり、法華経によってこそ親への孝養をはたすことができることを御教示されている。

その中で日興上人は「それについてもともこのほうもんのようをかく聴聞して候にてあるへくとおぼえ候ハ、聖人の御存知因幡公の追出せられ候し時、下山の消息をあそハされて候し御心にて候へし」と仰せられている。

日目上人が日興上人の弟子として得度されたのは、建治2年(1276)のこととされており、その年の1124日に身延に登山されている。したがって、下山抄の著された建治3年(1277)には、既に身延の地で日蓮大聖人、日興上人のもとで常随給仕されながら、修行の日々を送られていたことから、因幡房の勘気と事情と下山抄の内容については当然御存知であったわけであろう。この故に日興上人は、因幡房の例を引かれ、真実の孝養の在り方を御教示されたものと拝察される。

この日興上人の御消息からも、因幡房が親の念仏信仰と対立、念仏を取るのか法華経を取るのかの選択を迫られていたことが推測されるのである。

最後に上に述べたことを念頭に入れて本抄の末尾に記された「此れは親の為に読みまいらせ候はぬ 阿弥陀経にて候へば いかにも当時は叶うべしとはおぼへ候はず」(0364:09)の御文の解釈に触れて本項を結ぶことにしたい。

録内啓蒙では、この御文について次のように二義を挙げてる。すなわち「一義に云く弥陀経当時現当の祈りとならざる趣を宣べて親の為に読まざる志を顕せるか。一義に云く親の為によみ進せぬ心人にて候へば、いかによめと御責め候とも当時は御意に任せてよみ候事は叶ひ候まじ、若し読めば却て不幸になり候程にと云う趣を顕して陳謝せなるべし」と。

この文からみれば断定はできないが、おそらく前者は親子説に立つ健抄の意であり、後者は因幡房の父と下山殿を別人とする統抄の意をとったものであろう。ここで、この「親の為」ということが果たして下山氏自身を指しているのか、それとも下山氏とは別人であるところの因幡房の父親を指しているかは、どうしても見解が分かれるところである。

この御文の次上に大聖人は「賎み給うとも小法師が諌暁を用ひ給はずば 現当の御歎きなるべし」(0364:07)と仰せられているが、これは下山氏から因幡房を見れば“たかが小法師”と蔑まれるかもしれないが、その諌暁を聞こうとしないならば、現世・未来世にわたって歎まれることになるだろうという意味がある。つまり、ここでも因幡房が下山氏にとっては子供というよりも氏寺の住僧しかないという面が反映している。

このように、本抄では、因幡房と下山兵庫五郎光基との関係を示唆する部分が冒頭と末尾の御文に限られていることもあり、それについて確定するのは困難であるといわざるを得ない。しかし、前述したように因幡房が親と信仰の上から深刻に対立し、法華経か念仏か、すなわち信心か孝養かの二者択一を迫られていたことはほぼ疑いない。そうした因幡房のために、大聖人が自ら筆を執られて、念仏信仰に執着する下山殿の迷妄を打ち払って真実の正法へと導かれようとしたのが本抄である。そこで大聖人が代筆されたという本抄の特殊性に着目して、因幡房の当時をめぐる状況を推測することはできないだろうか。

大聖人は弟子門下のために代筆された例として、現在わかっているものは下山抄を含めて三例である。一つは、下山抄と同じ建治3年(12776月、四条金吾頼基に代わって江間光時に宛て認められた頼基陳状であり、もう一つは弘安2年(127910月、日弁・日秀の名で滝泉寺の院主代・行智の不法を訴えた滝泉寺申状の御草案である。この御抄本は現存しているが、初めの2/3を大聖人が書かれ、残りの1/3を日興上人が筆を執られている。

まず頼基陳状の著された背景を述べてみよう。四条金吾は文永11年(1274)に主君の江間氏を折伏して以来、同僚の讒言や怨嫉などにより主君からの圧迫が強まり、建治2年(12769月には主君より遂に所領の一部取り上げと越後国への領地替えを命じられた。更に翌建治3年(12776月、極楽寺良観の庇護のもとに鎌倉の桑ヶ谷で説法していた竜象房を大聖人門下の一人であった三位房日行が論破した。竜象房はこの腹いせから良観と謀り、三位房と同行していた金吾が武器をもって法座を乱したと江間氏に讒奏したのである。これを真に受けた江間氏は、金吾に法華経を捨てる誓状を書くように命じた。この報告を受けた大聖人は早速、金吾に代わって陳状の案文を認められた。これが頼基陳状である。

また滝泉寺申状は、滝泉寺院主代の行智の奸計のもと、弥藤次の訴えによって熱原の神四郎ら20人の法華講衆が逮捕され鎌倉に押送されたことから、弥藤次4の訴状に対する弁駁状として書かれたものである。これは日興上人によって清書され、問注所に提出された。

したがって、これらの二書に共通する背景として、いずれも弟子門下が弾圧というのっぴきならぬ事態にあったということが指摘できよう。また、一つは主君に対する陳状であり、もう一つは申状というように、公的な書状という性格が強いことも見逃せないところである。

翻って因幡房の当時の状況を考えてみると、残念ながら下山兵庫五郎光基から氏寺を追い出されたということしかわかっていない。しかし、下山氏と因幡房が親子であったとしても、因幡房は既に出家して僧になっていたこら、家督を相続するような立派な立場でなかったことは明らかである。

下山氏が因幡房の父親であったとすれば、因幡房が寺から追い出されたという事態もそれほど深刻であったようにはおもえないのである。そのうえ親子という私的な関係の中で、大聖人が子供の代筆をされてそれを父親に送るというのも不自然だという印象が拭えない。大聖人があえて代筆をされるだけの深刻な事情が下山氏と因幡房との関係にったのではなかろうか。そこで先に確認した。因幡房が親と信仰のうえから対立していたという事実のいみを考える必要があると思われる。

因幡房における親との信仰の対立という問題が深刻にならざるを得なかったのは、それが父子の対立にとどまらず、父親が念仏の熱心な信者であった下山氏の家臣であったという事情がはたらいていたのではないだろうか。すなわち、因幡房が念仏を捨てて法華経に帰依したことによって父親の立場をも危うくさせたという事情があったのではないかと推察される。

その場合、父親は当然のことながら、因幡房に対して主君の恩を説き、孝養の在り方を説いて念仏に戻るよう幾度となく論じたに違いない。そのなかで因幡房があくまで法華経の信心を貫こうとすれば、父親をなお一層苦しい立場に追い込むことは目に見えていたと想像される。因幡房にとってまさに親を取るか信心を取るかの重大きなところであった。当時の関係、親子関係を考慮するならば、因幡房の苦悩は深刻であったことはもちろんのこととして、入信まもない彼にとっては手に余る難文であり、切実な問題であったろう。かかる状況であったことからこそ、大聖人は、因幡房の父親の主君に当たる下山氏に因幡房に代わって消息を認められたのではないだろうか。

しかし、これはいわば状況証拠に基づいた推察であり、その場合、因幡房の父親を特定する史料もないことから、これが絶対とはむろんいい切れるものではなく、一つの可能性であり、なお検討の余地があろう。

 

第二章 本抄の教学的位置づけ

 

本抄の文献上でのについてはこれまで述べたとおりであるが、次に日蓮大聖人が、自らの御内証の一端を明かされた「教主釈尊より大事なる行者を」(0363:01)の御文を中心に、本抄の教学的位置を論じたい。

続いて、本抄が富士一跡門徒存知の事で10大部御書の中に選定されたのは何故かという問題を論じ、本文理解のための一助としたい。

一、「教主釈尊より大事なる行者」とは

この御文の個所については、岡宮本でも改竄の余地がなかったことは既に見た通りである。その前後に関しては後世の写本及び版本によって、多少の異同がみられるにせよ、その意味においては全く変わりはない。したがって大聖人が因幡房の言葉を借りて御自身を「教主釈尊より大事なる行者を」(0363-01)と表現されたことはまぎれもない事実であり、これに対して意義をはさむ余地は全くないとされてよい。またその意味するところも誰の眼にも明らかであろうと思われるが、念のためこれまでどのように解釈されていたかということを見ておくことにしたい。

 

一、高田氏及び浅井氏の解釈について

高田恵忍氏は日蓮聖人遺文全集講義の本抄の該当部の注釈として次の如く述べている。

「是は法師品に一劫の間釈尊を罵詈するよりも、須臾の間行者に悪言を加る罪重しと説給へる意を顕はす」

これは、法華経法師品に「是の人は、自ら清浄の業報を捨てて、我が滅度の後に於いて、衆生を愍むが故に、悪世に生まれて、広く此の経を演ぶるなり。若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ちの使いなり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大乗の中に於いて、広く人の為に説かんをや。薬王、若し悪人有って、不審な心を以って、一劫の中に於いて、現に仏の前に於いて常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。若し人一人の悪言を以って、在世出家の、の、の、法華経を読誦する者を毀罵せん、その罪甚だ重し」と説かれていることを指したものである。ただし、それ以上の言及をしていないところを見ると、この御文の重要性をあえて等閑に付したものと思われる。

そこで、この法師品の意味するところを考察してみよう。まず、法師品の引用文は、一見して明らかなように、仏滅後の悪世末法において法華経を読誦する者を誹謗する罪が釈尊を誹謗する罪よりもはるかに大きいことを示している。このことから、高田氏は法師品の意を説いた御文として解釈したのであるが、大聖人がどのような意味で「教主釈尊より大事なる行者」と仰せられたかについては、あえてふみこんだ説明を加えていない。

大聖人は撰時抄において、次のように述べられている。

「されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかはこれにても見るべし、教主釈尊記して云く末代悪世に法華経を弘通するものを悪口罵詈等せん人は我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしと・とかせ給へり」(0256:17

ここでは、確かに末代悪世における法華経の行者を誹謗する罪と釈尊自身を一劫の間、誹謗する罪とが比較されており、前者の罪の方が大であるとされている。では、末法の法華経の行者を罵詈する罪と釈尊を一劫もの長い間罵詈する重罪とを比べたとき、後者よりも前者の罪の方が重いとされるのはなぜであろうか。

刑法を例として考えるならば、人の悪なる行為と罰とは、その行為のなされた対象や状況にとか、あるいはその影響力によって、それに応じた罰が定められる。例えば、封建時代であれば、同じ殺人という行為であっても、その行為の対象が他人であるか尊属であるか等によってその罪がことなったのは当然である。

仏法においてもその考え方は基本的に同じであるといってよい。例えば同じ傷害という行為であっても、その対象が仏であれば出仏身血という五逆罪に数えられ、殺父・殺母・殺阿羅漢に匹敵する罪とみなされるのである。

このことを考慮するならば、同じ謗法という行為であっても、その対象者の仏法上の位が高ければその罪は重く、位が低ければ罪が軽いとされているのである。

この意味において撰時抄の御文は、法師品の経文を依文とされつつ、法華経の行者たる御自身をインド応誕の教主釈尊の上位に位置づけられていたことを示しているのである。

このように、大聖人が末法の法華経の行者たる御自身を、教主釈尊の上位に位置づけられていたことは明白であり、このことを直接的に明言された御文こそ、本抄の「教主釈尊より大事なる行者」との一節にほかならない。

次に浅井要麟氏の見解に触れておこう。同氏は、「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち」(0363:01)の個所について「末法には教主釈尊よりも大事な法華経の行者、日蓮が頭を、法華経の第五の巻を以て打ち」と釈し、「末法には」との一句をつけることによって、釈尊が現存しないが故に法華経の行者である日蓮が末法の今は最も大事な人であると解している。これは、原典にはない言葉を付け加えることによってその真意を歪めたものといわざるを得ない。

同氏は、「下山御消息の如きは、夙にその真蹟が散逸して、後人がこれを補筆した形跡もあるらしい」と述べ、該当部分も後世の歪曲であった可能性があると匂わせている。しかし、該当箇所に竄入の余地がなかったことは前章でふれた。

また、本抄では頼基陳状と同じく大聖人があくまで第三者の立場に立って筆筆されていることから、浅井氏は、その第三者である大聖人に対して、因幡房や四条金吾が称賛し礼賛したとしても必ずしも大聖人自らの自画自賛にはならないと解釈している。これは、こうした表現が大聖人の自賛であるとの批判を気にした言い訳である。しかし、そうした世欲的次元にとらわれていること自体、大いなる誤りである。

大聖人は、こと御自身の御内証に関しては控え目な表現で述べられるのが常であり、本抄のように直接的な表現で御自身の御内証を述べられた例はほとんど見当たらない。それは、浅井氏もいうように、まさに第三者の立場に立たれていたから可能であったのである。それにしても因幡房や四条金吾の立場を借りてであれ、このように述べられた大聖人の御真意を見逃してはならない。

つまり本抄において御自身のことを「教主釈尊より大事なる行者」と表現され、あるいは頼基陳状で「日蓮聖人の御房は三界の主・一切衆生の父母・釈迦如来の御使・上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説かれて・ましましけるを」(1161:08)と明言されたことは、大聖人が弟子の名において御自身のことを明示されたものであって、大聖人に対する弟子の称賛を記されたものでは決してない。これは、大聖人の御身にかかわる大事であるというべきであろう。

二 戸頃・高木氏の解釈について

次に、昭和45年(1970)に岩波書店より刊行された日本思想14・日蓮の著者である戸頃重基・高木豊の同氏は、同書補注の「法華経の行者」の項において次の如く述べている。

「ここに教主釈尊とは史上の釈尊ではなく、法華経の本門寿量品に説かれている抽象的な釈尊のこと。『観心本尊抄』では『本門寿量品の釈尊』『寿量の仏』、『報恩抄』では『本門の教主釈尊』というときの教主釈尊のこと。日蓮教学上の人本尊に当たる。『下山抄』ではこの『教主釈尊』よりも、行者日蓮のほうが一層大事な存在であることを宣言したのである。これはいったい何を意味するのであろうか。本抄よりも2年前の1275(建治元)年84日の『乙御前御消息』では、『日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給うひぬ』といい、カリスマ的な表現のなかにも、なお教主釈尊と同義異語の大覚世尊を自分より上位において、その加被力を謙遜しながら認めていた。それが『下山抄』にくると一変して、行者日蓮のほうが教主釈尊よりも上位に立つことを自負するのである。(中略)日蓮は『少々の難はかずしらず、大事の四度なり』(開目抄)の体験から、像法時代の智顗・最澄の境地をこえたばかりでなく、法華経の勧持品の偈によって、『日蓮だにも此の国に生ずば、ほどをど、世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ぬべし』という主体的な独自の境地を開拓していた。この境地をさらに押し進めてゆけば、当然、『下山抄』の自覚にまで達するのであって、それは日蓮大聖人の意義よりも修行のもつ意義を比類なく強調したものといえる。したがってここでは『日蓮』よりも『行者』のほうに力点をおいてみるのでなければならない」

ここでは、「行者日蓮」の方が「教主釈尊」よりも大事な存在であるという文献上の意味については誤りなく解してはいる。しかしながら“日蓮”個人よりも“行者”の方に力点を置いて見るべきだとしている。

さて、両氏の論においてはその基本的な前提において問題があるといわねばならない。それは下山抄の対告衆が仏法については比較的無智な下山兵庫五郎という未入信の在家者であったという事実を無視しているということである。このことを考慮するならば、本抄に仰せられた「教主釈尊」なる言葉は、当時の世間の人々が抱いていた概念からかけ離れたものではないはずであろう。したがって、これが仏教の開祖たるインド応誕の釈尊を指していたことは疑いないところである。「教主釈尊」という語にいかなる含意があるにせよ、大聖人が下山兵庫五郎に対してその理解の限界を超えるような意味で用いられているとは考えられない。

一方、これに対して観心本尊抄や報恩抄は当時としては仏法理解の極めて深い者を対象として著された書であり、本抄の場合とは明らかに異なるのである。本抄にゆう「教主釈尊」はインド応誕の歴史上の釈尊を指しており、大聖人はこの釈尊と対比されて御自身の方が勝れていると宣言されたのである。

しかも本抄において大聖人は仏の三徳を挙げられ「自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり」(0355:12)と述べられている。すなわち、日本国の一切衆生に対して大聖人が主・師・親の三徳を具えられていることを明言されているのである。

このうち主の徳については「主君の御使なり」と、当時の社会状況を配慮したうえで謙遜の表現をとられているが、御自身が三徳を具えた仏であることを示されていることは文脈上から明らかである。したがって本抄において大聖人は、御自身が末法の御本仏であるとの御内証が明かされているのである。

この意味において、戸頃氏らのように、本抄に仰せの「教主釈尊より大事なる行者」との御文について「行者」という方に力点をおいて理解することは、まだ大聖人の御真意に達しておないといわざるを得ない。

なお「日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ」(1221:02)と記された乙御前御消息の時点と本抄執筆の時点において、戸頃氏の言うように大聖人の御内証そのもの、あるいは御自身の自覚に変化が生じたわけではない。こうした見方は、大聖人の御化導における変化をあたかも大聖人の内面の変化として捉える誤りに由来している。そして、これもまた、根本的には大聖人を末法の御本仏と拝することのできないが故の誤謬にほかならないのである。

 

三 大聖人が御内証を明示されなかった理由

大聖人は、内証は久遠元初の自受用報身であり、外用においては地涌の菩薩の上首たる上行菩薩の再誕であられるが、この外用の御立場においてすら、言葉を選ばれながら極めて慎重に表現されており、例えば文永9年(12725月、四条金吾に与えられた御消息では「多宝塔中にして二仏並坐の時・上行菩薩に譲り給いし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり、此れ即ち上行菩薩の御使いか」(1117:17)と、御自身を「上行菩薩の御使いであろうか」と述べられている。

また文永12年(12752月の新尼殿御返事では「日蓮・上行菩薩には・あらねども・ほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す」(0906:05)と仰せられている。

このように大聖人はその外用の立場についてすらあからさまに述べることは避けられていたのであり、ましてその御内証は、容易に明かすことのできない大事中の大事であったのである。

当時の日本にあっては、仏教といえば多くの人々は釈尊を仏教の開祖として仰ぎ信奉していたのであって、もし大聖人が御自身の内証の辺を明言されたならば、世間の人々はもとより、大聖人の仏法の深義を弁えぬ多くの弟子や信徒も疑惑を懐き、あるいは誤解して世間に間違った言説を流す恐れがあった。

しかも、当時の国家権力はいうまでもなく政教末分離の状況にあった。既成の仏教と結託した権力者が「異端」の集団に弾圧を加えてくることは眼に見えていた。もちろん大聖人にとっては、あらゆる大難、迫害は覚悟のうえであり、大聖人の仰せどおりに信仰を貫こうとした弟子檀那に対してもその覚悟を促されていたが、その一方で弟子檀那による不用意な発言によって世間と要らぬ摩擦を引き起こさぬよう戒められてもいる。

それは、当時の弟子檀那が大聖人の仏法を信じているとはいっても、いまだその理由は十分ではなく、甚深の法門になればなるほど誤解を生じることを危惧されたものと拝される。そして、封建体制下で信教の自由に対する補償のない社会状況下にあっただけに、大聖人は深く弟子たちへの配慮をされたものと拝される。御自身が大難の数々を受けられた身であってみれば、真実に信心を貫こうとする弟子檀那への御配慮もひとしおであったに相違ない。

権力者は常に宗教勢力を自己の支配下に置くことによって自己の権力の基盤を安定ならしめようとするものである。その例として、一つの史料をここに挙げておく。大聖人が日興上人に法燈を伝えられたことを示すものとして「二箇の相承」があるが、これを徳川家康が見た事実が駿府記に記されている。すなわち慶長16年(16111215日の記に次のようにある。

「今晩、富士本門寺校割の二箇の相承、後藤少三郎御覧に備う。其の詞に云う。釈尊五十年の仏法、日蓮阿闍梨日興に之を付嘱す云云。是を以て之を按ずるに日蓮爾前の教を捨てざる事文明なり。後来末派に至れば本源に暗くして僅かに四十余年未顕真実の一語を以て爾前の教は之を棄捐すべし、是れ祖師の本意に非ざる者なり、御前に於いて、其の沙汰あり云云」

家康は、日蓮宗各派が他宗を破折することを禁ずる材料になりうると考えたのである。

こうした状況は、おそらく大聖人御在世の時代においても大して変わりはなかったであろうと思われる。すなわち釈尊を根源の仏と認めないことは、当時の既成の考えからすれば、仏法における異端であり、既成の権威を自らの権力の基盤として利用しようとした権力者がこれを認めることは到底ありえないことであったといってよい。

そして、大聖人は、いかなる弾圧が加えられようとも、身命を賭して仏法正義を守り抜く民衆の信心の成長をひたすらに待たれていたに違いない。それまでは、御自身の御内証を明かすことについては慎重を期されたのである。

また、本抄は下山兵庫五郎という個人に宛て認められた御消息文である。対告衆である下山五郎も地頭とはいえ、必ずしもトップクラスのインテリではなかった。そのことは、さしたる仏教の知識のない者にも理解できる平易な言葉を用い、また仮名文字を比較的多く用いられていることからも知られる。こうした幾つかの条件が重なって、大聖人は御自身のことを「教主釈尊より大事なる行者」と直接的に表現することが可能になったと思われる。

本抄の対告衆である下山兵庫五郎は権力の中枢から遠い存在であった。しかし、大聖人は、光基についての必要な知識は当然もたれ、彼をある程度見込みのある人物として判断されたものと拝される。なぜなら、大聖人は常に相手に応じて慎重に法門を説かれているからである。このことは、本抄の前年に認められた報恩抄の送文に「親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ御心得候へ」(0330:01)と仰せられていることからもうかがうことができる。

ところで前述したように、光基は本抄の受領後に発心して出家し、大聖人より法重房日芳という号を賜ったとする伝説がある。しかし山梨県南巨摩郡の下山本国寺の墓碑に記される法重房の没年月は下に記す光基の没年月とは異なっており、法重房なる人物は明らかに光基とは別人物と考えられる。

光基が大聖人に帰依し、あるいは出家したという事実は明確ではないが、彼の没後14年に、日興上人が彼の未亡人に与えられた御本尊があり、その脇書には「徳治二年卯月八日、甲斐国市川宮堅入道息女の兵庫五郎尼に之を授与す」とあり、光基の妻については、正法に帰依したことが知られている。

そして、それから更に18年後には、彼女の実子と思われる又四郎義宗が日興上人より御本尊を授与されており、その脇書に「正中二年十月十三日、正忌十一月十一日、甲斐国下山兵庫五郎卅三年、子息四郎義宗に之を授与す」とある。これによって又四郎が正法信仰に励んでいたことは明確である。

次に、本抄が何故に十大分御書に選ばれたかという問題を中心として、本抄の教学的位置づけを論ずることとしたい。

 

二、十大部御書について

下山御消息に関しては日寛上人の分段に類する本格的な研究書ないし解説書はこれまでになかった。正宗以外のものとしては、本抄を収録している高田恵忍氏の日蓮聖人遺文全集講義、及び浅井要麟氏の日蓮聖人御遺文講義があるが、富士門流以外においては十大部という考え方はなく、したがって本抄を重書としては扱っていない。

ただ、戸頃重基・高木豊の両氏のみが本抄が日蓮仏法の依文として重視されてきたという事実を述べている。

本抄の教学的な位置づけを明確にするためには、本抄が十大部御書とされた理由を考察する必要がある。よって本節では、まず十大部御書制定の背景から探求することにする。続いて十大部の御書名が初めて示された富士一跡門徒存知の事の真為という問題に触れ、続いて内容の面から十大部の他の御書と本抄とを比較し、もって本抄の教学的な位置づけを明確にしたい。

一 十大部御書選定の背景

大聖人御入滅後、大聖人の残された数多くの御書のなかから最も重要な法門を記す重書として十大部を選定されたのは日興上人であった。その背景について、富士一跡門徒存知の事の中の「聖人御書の御事 付けたり十一ヶ条」には次のように述べられている。

「彼の五人一同の義に云く、聖人御作の御書釈は之無き者なり、縦令少少之有りと雖も或は在家の人の為に仮字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若は俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に施主分を書いて愚癡の者を引摂したまえり、而るに日興、聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是れ先師の恥辱を顕す云云、故に諸方に散在する処の御筆を或はスキカエシに成し或は火に焼き畢んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり」(1604)。

この文の元意を記せば、日昭以下の五老僧は次のように主張したという。すなわち「大聖人の御著作の中には御書釈と称すべき本格的論著は見られず、多少あるにはあってもそれは在家のために仮名文字で仏法の因縁を概略的に示しておられるが、あるいはわずかばかりの供養に対する返礼としての愚癡の人々を引導するためのものばかりである。しかるに、日興はこれらを御書と称して談論しているが、これは先師大聖人の恥を示すことにほかならない」と、その故に、彼ら五老僧は各地に散在いている御書をすき返しにしたり燃やしたりして大聖人の御真蹟を多くを失ってしまった。よって御書を消滅の危機から守るため、これを註して後代の人々のための亀鏡とするのである。と。

上の文に、五老僧の離反のなかで大聖人の法燈を懸命に守り抜こうとされた日興上人の御苦衷が偲ばれるのである。そして、もし日興上人が十大部御書を選定されていなかったならば、後世の人々が重要な法門の所在に迷うばかりでなく、これらの御書が消滅してしまったとも考えられるのである。ことに下山抄の如きは、その御正本が既に所在不明であり、もし日興上人が記録されていなかったならば、後々まで偽書扱いであったかも知れない。

なお、上の本文中に「五人一同の義に云く」とあり、この五人が五老僧を指すことはいうまでもないが、この中には次項で述べるように、富士一跡門徒存知の事が著された直後に日興上人に帰伏した日頂も含まれており、五人の間にも大聖人の仏法に対する理解に浅深があったのは当然でる。したがって「五人一同の義に」とは必ずしも「五人が口をそろえて」といういみではなく、大聖人及び日興上人の深意を解し得ぬ人々を五老僧として述べられていると見るべきである。

「聖人御書の御事」には、十一箇条は記されている。その内容は次の通りである。

「一、立正安国論一巻。

此れに両本有り一本は文応元年の御作是れ最明寺殿・宝光寺殿へ奏上の本なり、一本は弘安年中身延山に於て先本に文言を添えたもう、而して別の旨趣無し只建治の広本と云う。

一、開目抄一巻、今開して上下と為す。

佐土国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。

一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。

身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る日向が許に在りと聞く、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。

一、撰時抄一巻、今開して上中下と為す。

駿河国西山由井某に賜る正本日興に上中二巻之れ在り此中に面目俄に開く事下巻に於いては日昭が許に之れ在り

一、下山抄一巻。

甲斐の国・下山郷の兵庫五郎光基の氏寺・平泉寺の住僧因幡房日永追い出さるる時の述作なり、直に御自筆を以て遣さる、正本の在所を知らず。

一、観心本尊抄一巻。

一、取要抄一巻。

一、四信五品抄一巻。法門不審の条条申すに付いての御返事なり仍つて彼の進状を奥に之を書く。

已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り。

一、本尊問答抄一巻。

一、唱題目抄一巻。

此の書・最初の御書・文応年中・常途天台宗の義分を以て且く爾前法華の相違を註し給う、仍つて文言義理共に爾なり。

一、御筆抄に法華本門の四字を加う、故に御書に之無しと雖も日興今義に従つて之を置く、先例無きに非ざるか(1604)。

十大部として選定された御書は

①立正安国論

②開目抄

③報恩抄

④撰時抄

⑤下山御消息

⑥観心本尊抄

⑦法華取要抄

⑧四信五品抄

⑨本尊問答抄

⑩唱法華題目抄

の十偏である。なお、前項の文には「具に之を註して」と記されていたが、ここに挙げられた十編のうち、本尊問答抄についてはただ「一巻」としか記されておらず、「具に之を註」せるべきでるにもかかわらず、それらしき記載がないことに気付く。

この例によって次のことが推測されるのである。それは富士一跡門徒存知の事が必ずしも完成稿として残されたものではないとうことである。少なくとも後日の補足を期して未完成のままに残された部分があったとも考えられる。このことは次項以下の考察の際に重要な視座となる故に、ここに留意しておきたい。

さて日興門流でいう十大部御書の編目の初出は富士一跡門徒存知の事である。しかるに他門流においては、同書の著作が日興上人であるということについて疑問視してきた。同書は日興門流の正統性を示す重要な史料となるので、この書の真偽問題については、項を改めて論ずることにしたい。ただし、十大部御書に関して本書を疑問視する浅井要麟氏の見解についてはここで取り上げておく必要がある。

同氏は、昭和新修日蓮上人御遺文全集別巻に収める「御書編纂の史的概念」において、前掲の11箇条を引用した後に「これに依て見ると、当時富士方面に前記十編の御書が写本及び一部真蹟を以て伝えられてゐた事実を知ることが出来る。しかし『富士一跡門徒存知事』の所伝の如く、興氏の執筆とするには幾多の疑問を有するが、それらの検討はすべて他日を期することとする。たヾこヽに不審なのは、富士の上の大石寺及び北山本門寺に真蹟ありとして、後年録内録外及び最近出版されたる『日蓮大聖人御真蹟写真帳』等に載録されたる諸偏が、『富士一跡門徒存知事』に載録されざりし点である。或は近代の刊行物に載する所は、概ね消息類であるから『門徒存知事』には載せなかったとの理由づけるかも知れぬが『諌暁八幡鈔』の如き、御消息にならざる述作が『門徒存知事』には漏れているので、疑問は依然として解けない」と述べている。

この文で浅井氏は「門徒存知事」の11箇条について基本的なところで思い違いをしている。つまり、日興上人は大聖人の御書を網羅する目録として「聖人御書の御事」を記されたわけではなく、幾多の御書の中から重要な法門を記した御書を厳選してこれを十大部とされたのである。その証拠に「聖人御書の事」においては唱法華題目抄を「最初の御書」と記されているが、断に御執筆のこの時よりも時期的に早い御書は数多く存在しているのであって、これはあくまでこの十大部の中で「最初の御書」であると述べられているのである。したがって十大部に入らない「諌暁八幡抄」が、「門徒存知事」に漏れていることは不思議でもなんでもないのである。

それはともかくとして、日興門流以外においては「十大部」という名称すら用いられていない。三大部および五大部という名称はあるが、それも人によって取り上げられる御書はまちまちである。そのほかに「録内御書」と「録外御書」という分類があるが、編纂の事情によって分けられるのみで、この分類には内容上の基準というものがない。

この事情を見たときに、早くから十大部御書を選定された日興上人が、大聖人の御書をいかに大切にされ、かつその全体を深く理解されていたかということが知られる。それ故にこそ、日興遺誡置文には「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事」(1618:04)と仰せられている。

ところで下山御消息は、十大部御書の選定の時点で既に、その正本が所在不明の御書であった。このように重要御書の所在が不明となり、やがてその存在そのものが史上から抹殺されかねない状況を憂えられた日興上人が、後世のために大聖人の重要法門を伝える重書として十大部を選定されたのである。では何故に下山御消息が十大部の中に入れられたのか。これについては、次項において「富士一跡門徒存知の事の真偽問題」を確認したうえで論ずることにしたい。

 

富士一跡門徒存知の事の真偽問題について

富士一跡門徒存知の事の真偽問題とは、それが日興上人の意志によって成ったものか、それとも後世の富士門流の人々が勝手に日興上人に仮託して著述したものか、という問題である。

同書の現本は存在せず、追加8箇条のみ17世日精の時代まで存在したといわれている。現在の流布本としては永正18年(151264日付の日誉写本である。これは応永29年(1422)の日算本を転写したものであり、写本には原著の著作年も著述者名も記されていない。その故に他門流からは同書が後世の人の手になる偽書であるという偽書説が唱えられ、その成立に関して疑義が提起されていたのである。

同書の真偽問題を含む成立の経緯については日淳上人が昭和2年(1927)「富士一跡門徒存知事の文に就いて」を発表され、同書で疑惑に対する答えを出されている。しかし、日淳上人のその論孝は、宗門外の一般の人々の目にとまる機会が少なく、かつ長文でやや難解な部分がある故に、他門流においてはこれを踏まえざる機会も今も後をたたない。ここではその要点を整理しておくことにする。

同書の著著を確定するうえで一つのポイントとなるのは、同書中の「日興集むる所の証文の事」の内容である。そこには「御書の中に引用せらるる・若は経論書釈の文・若は内外典籍伝の文等、或は大網・随義転用し或は粗意を取って述用し給えり、之に依って日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す、其の功末だ終らず且らく集むる所なり」と記されている。

その大意はつぎのようになろう。すなわち、大聖人が御書中に引用されている諸文献は大聖人の御立場から自在に義を転じて用いられている場合もある。故に引用の諸文件を集めて勘校を行ったが、その仕事はまだ完了していない、というものである。

ここで注目すべきは「その項末だ終わらず」の一文である。つまり同書が執筆された時点で諸文献の勘校が完了していなかった、ということであり、同書が執筆されている時も諸文献の勘校は進行中であったという事実である。

同書には続いて、次の項目が記されている。

「一内外論の要文上下二巻開目抄の意に依つて之を撰ぶ

一本迹弘経要文上中下三巻撰時抄の意に依つて之を撰ぶ。

一漢土の天台・妙楽・邪法を対治して正法を弘通する証文一巻。

一日本の伝教大師・南都の邪宗を破失して法華の正法を弘通する証文一巻。

已上七巻之を集めて未だ再治せず。

一、奏聞状の事。

一先師聖人文永五年申状一通。

一同八年申状一通。

一日興其の年より申状一通。

一漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。

一本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す一通。

一三時弘経の次第並びに本門寺を建つ可き事。

一先師の書釈要文一通」(1607)。

一方、重須談所第二代学頭の日順が著した日順阿闍梨血脈には、日澄が日興上人の命を受けて諸書を集めたことが次のように記されている。

「或は貴命に応じて数帖自宗所依の肝要を抽んづ、所以に本迹要文上中下三巻・十宗立破各一帖十巻・内外所論上下二巻・倭漢次第已上二巻・且つ之を類聚して試に興師に献す、興師咲を含んで加被せしむる所なり」

先の御文にある「本迹要文上中下三巻」は存知事の「本迹弘経要文上中下三巻」に対応し、同じく「内外所論上下二巻」は存知事の「内外論の要文上下二巻」に対応していることは明らかであろう。巻数まで一致しているからである。そのほかに「倭漢次第」が存知事の「漢土の仏法先ず以て沙汰の次第之を図す」及び「一本朝仏法先ず以て沙汰の次第之を図す」と関連があることも明らかと思われる。

日順阿闍梨血脈所掲の諸文献は編纂整理した上で日興上人に献じられたとあるが、御存知においては「日興散引の諸文典籍等を集めて次第に証拠を勘校す。其の功末だ終らず且らく集むる所なり」とあり、日興上人に師事していた日澄が、自ら整理編纂した諸文献を日興上人に献ずるとともに、これと平行して門徒存知事の執筆をしていたという可能性が考えられる。

日順阿闍梨血脈の先の次上に「日澄和尚は、即日興上人の弟子・類聚相承の大徳なり、慧眼明了にして普く五千余巻を知見し・広学多門にして悉く十宗の法水を斟酌す、行足独歩にして殊に一心三観を証得し、宏才博覧にして良に三国の記録を兼伝す。其の上内外の旨趣・倭漢の先規・孔老の五常・詩歌の六義・都て通ぜざること無し」とあることからも日澄師が諸文献に最も詳しい人であったことは疑いなく、彼が門徒存知事の著述に参画していた可能性は十分にあるのである。

ところが当の門徒存知事にこの推測とは矛盾するかのような内容が記されている。すなわち追加八箇条の第一条に「一、寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す彼の日澄は民部阿闍梨の弟子なり、仍つて甲斐国下山郷の地頭・左衛門四郎光長は聖人の御弟子なり御遷化の後民部阿闍梨を師と為す帰依僧なり、而るに去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず、聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す、爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る、此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり」(1608:15)とあるのがそれである。

先の文は日澄師のことを詳しく記している。この文が原文では八行にわたっているのに対して、追加八箇条のうち他の七箇条はそれぞれ二行分しかないのである。このことからも、日興上人にとって日澄師がいかに特異な位置を占める存在であったかがうかがわれるのである。しかしながら、日淳上人より以前においては同書の追加の条に日澄師のことが記されているが故に、師が同書の執筆者に気付いた人はいなかったようである。

日淳上人は同書が日興上人の命を受けて日澄師が執筆したものであり、追加の八箇条のみが日興上人の手になったものと解されていたのである。ことに上の文中には日澄師のことを「彼の日澄は」と記している。日澄師がもし生存中であったならば、親しく側にいる人物を「彼の日澄」と表現されるわけはない。そこから、追加八箇条は日澄師の死後、日興上人自身が記されたと考えるのが妥当である。これが日淳上人の見解である。

このように、富士一跡門徒存知の事は、日興上人の指示を受けて日澄師が本文を執筆し、追加の八箇条は、日澄師の死後、日興上人御自身が執筆されたというのが日淳上人の考証であるが、それを裏付ける決め手となるのが実は前項で述べた十大部の写本である。

下山御消息の日澄写本には「法華本門下山抄」と題号が記されている。このことは門徒存知事執時に執筆写の手許にあった写本が日澄写本であることを物語っており、門徒存知事の本文の執筆者がほかならない日澄師自身であったという可能性は極めて高いと思われるのである。すなわち、日興上人の意図に従って「御筆抄に法華本門の四字を加う」と記したのは日澄師であったと考えられるのである。このことからも、日澄師が富士一跡門徒存知の事の本文を執筆したとする日淳上人の説は裏付けられることになるのである。

ところで門徒存知事では後世の人が日興上人の名を謳って作成した偽書であるとする論者がしばしば取り上げるのは、門徒存知事中の「聖人御影像の事」の内容である。これが本書偽作説の根拠となり得るものなのか否か、ことは重大である故に、やや長文となるけれどもその全文を引用して検討しておこう。

  聖人御影像の事。

或は五人と云い或は在家と云い絵像・木像に図し奉る事・在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの侭に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らず大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、而る間・後輩に彼此是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と之を付け置く。」

この文の大意は、すなわち五郎僧や在家の者たちが大聖人の御入滅後に絵像や木像を本尊として盛んにあらわしたが、それぞれ容貌が異なっている。そこで、日興上人の言うには「大聖人の御影を図する目的は後世の人々にその御姿を伝えるためであるから、ありのままに描くべきである」と。そこで日興上人門下で大聖人にお会いした人たちが共に評議して描いた。全体としては似ているが、細部まで正確とはいえない。故にその旨を記したのである。ただし、個々に図した像は一つもにたものがない中に、去る正和2年(1313)日順師の描いたものは、似ているとまではいえないけれども、他の図像に比べると少し大聖人の面影を写している。故にどれがよいのかを弁別するために「不似」と書き付けた、というのである。

この文の前半においては、皆で評議して大聖人の像を描いた旨が記され、後半においては、各個人で大聖人の像を描いたことが記されている。しかしそこに記される日順師は大聖人御入滅後の人であるにもかかわらず、彼も大聖人の像を描いたという。これは前半の「聖人を見奉る仁等・評議して」とある前半の文と矛盾する。のみならず、日順師の描いた像が他よりも面影があったにもかかわらず「後輩に彼此是非を弁ぜんしめんが為裏書に不似と之を書き付け置」いたとう。

ここでは何を言おうとぃているのかよくわからない。したがって、後半の「但し彼の面面の図像」以下はこのままでは意味が通らないのでる。このように本書中には疑問の個所がることは事実である。それゆえに門徒存知事そのものの史料的価値を否定しようとする人々は門徒存知事全体が偽作であるというのである。

しかしながら、門徒存知事が全般に論旨明快の筋の通った一貫性のある主張を述べた書でることには誰しも異論はないと思われる。よって門徒存知事の著作者が頭脳明晰な人物であったことは疑いない。したがってその著者が「但し彼の面面の図像」以下の如き筋の通らない文章を残すとは考えがたい。もし誰かが意図的に本書を偽作したのであれば、それらしく前後意味の通ずる文を書いたはずである。

しかしながら、先のような文が紛れ込んでいるのは、少なくとも本書が一人の人の手によって作成されたものではないことを物語っている。要するに、この部分において後世の人の加筆があり、それが混乱をもたらすものとなったと思われる。

およそこのような内容を日淳上人は指摘されたのである。そしてこれを支持すべき材料が、前述の「聖人御書の事」中にある「故に具に之を註して後代の明鏡と為すなり」の文と、それにもかかわらず、本尊問答抄に関しては「具」なる説明が記されていないことである。

これはいかなることかと考えてみると、日興上人が本尊問答抄に関して全く情報をもっておられなかったはずはない。しかも、日興上人による写本が現在も北山本門寺や茨城県猿島の富久寺に所蔵されているわけであるから、門徒存知事の執筆時点でこの写本が日興上人の手許にあったことはほぼ疑いないであろう。例えば正本の所在が不明であったのであれば、下山抄のようにその旨が記されてしかるべきである。

したがって、本尊問答抄の註が空白となっていることの理由は次のように理解した時にのみ明白となると思われる。すなわち、日澄師が門徒存知事を執筆した際に、本尊問答抄に関しては御正本の所在等について調査中であり、その故に後で正確な記述をいれるために慎重を期して空白部を残しておいた。

ところが日澄氏は延歴3年(1310314日に病没した。発病の際には筆を執るに耐えない状態となっていたという。このために、日澄師の残した空欄がうめられないまま日興上人に提出され、日興上人も遂にこの空欄中に記す暇がないままに後世に至ったものと考えられるのである。

こう考えると、門徒存知事は完成稿として後世に残されたものではなかったと言える。しかも大石寺に現存する日誉写本も数度の転写を経たものである。その間に途中の転写等による加筆があり、「聖人御影像の事」の該当部分が転写の過程で意味不明のものとなってしまったと考えられるのである。したがって、こうした転写の過程で意味不明となり、あるいは矛盾が生じたとしても、それだけをもって門徒存知事全編を偽書とすることは不当である。

これらの考察から、次のことが明言できるであろう。すなわち同書の内容に疑惑をいだく者は、同書の全体をよくよく公正に検討すべきであり、と同時に日淳上人の論を虚心に検討し、そのうえで云々すべきである、と。それをすることもなく、単に「本書に偽書の可能性あり」としてその存在を無視するとすれば、極めて卑劣な我伝引水の態度であるといわざるをえない。

なお正和2年(1313)に日順師が大聖人の御影を描いたという記述については、日淳上人も疑問視されているように、それ自体が誤伝であるという可能性が大である。おそらく、後世に竄入せられたものであろう。故に、この正和2年(1313)という年が日澄師の没年たる延慶3年(1310)依り後であっても、それは同書の本文を日澄師が執筆したとする日順師の執筆年代の説を否定するための論拠たり得ないことはいうまでもないことと思う。

しかし、日淳上人は富士跡門徒存知の事の本文執筆年代を日澄師が発病する以前の延慶2年(1309)とし、また追加八箇条を日興上が記されたのは翌延慶3年(1310)であろうと推定あれている。ただし、日淳上人御自身も述べておられるように、日澄師の執筆年代は少し遡る可能性もある。この点を少しく補足検討しておきたい。

日澄師が日興上人に帰伏したのが正安2年(1300)であるから、日澄師が本書を執筆し得た時期は13001309の間に限られる。しかし、前述したように、日澄師は空白部分を残したまま没したのである。門徒存知事執筆時においては本尊問答抄については調査中の事項があったが故に空欄としたのであろうと推測したのであるが、一方開目抄や報恩抄では「日興所持の本は第二転なり、末だ正本を以て校えず」とあり、また既述の如く下山抄では「正本の所在を知らず」と記している。

これに対して本尊問答抄の場合は途中報告すら記されていないのである。このことを考え合わせると、門徒存知事は恐らくは短期日のうちに記されたものであろうと思われる。してみれば、本尊問答抄の空白の残存は、ひとえに執筆者日澄病状の急激な進行によって結果したものと理解せねばならないのではないだろうか。

これらの考察を総合すると、同書は日澄師の死に至る病が起こる直前より病の進行までの間に記されたことになる。よって1309に本書の本文が執筆されたとする日淳上人の見解は極めて妥当であると見られるのである。また同書には日澄師の兄にあたる日頂師の帰伏については述べておらず、その故に、日興上人に追加八箇条を記した時期は日頂師が日興上人に帰伏してくるより少し前、すなわち延慶3年(1310)頃であったとする日淳上人が御考証についても承服できるとおもわれるのである。

以上の考察により、富士一跡門徒存知事の事を偽作とする説には全く根拠がなく、同書は確かに日興上人自身の意図によって記されたものであったという結論に導かれるのである。故に同書中に述べられた十大部講義については、日興上人がこれを選定されたのであることも疑う余地がないといえるであろう。