一昨日御書
一昨日(九月十日)、見参したことを喜ばしく思っている。
そもそもこの世に生きている人で、誰か後世を思わない者があろうか。仏が世に出られたのは、専ら衆生を救うためであった。ここに日蓮は比丘となってからこのかた、種々の法門を学び、すでに諸仏の本意を覚り、早く出離の大要を得たのである。その要とは妙法蓮華経である。法華一乗の妙法は、三国にわたって崇重され、したがって三国が繁昌したことは眼前に明らかなことであって、誰かこれを疑う者があろうか。
しかるに(人々は)専ら法華経の正しい路に背いて、偏に法華経以外の邪な途を行っている。したがって、聖人は国を捨て去り、善神は瞋りをなし、七難が並び起こって、四海は穏やかでない。
今、世はことごとく関東に帰し、人々は皆、武士の風を貴んでいる。とりわけ日蓮はこの国に生を受けて、どうして我が国のことを思わないでいられようか。そのために立正安国論を述作して、故最明寺入道殿(北条時頼)に、宿屋入道を通して見参に入れたのである。
しかるに近年の間、しばしば西戎蒙古国は牒状を届けて、我が国を窺っている。先年(文応元年)に勘え提出した立正安国論の予言と全く符合したのである。
かの太公望が殷の国に攻め入ったのは、西伯が礼をもって迎えたからであり、張良が謀をめぐらして秦の国を亡ぼしたのは、漢の高祖の誠意に感じたからである。これらの人は皆、その当時にあって、賞を得ている。謀を帷帳の中に回らし、千里の外に勝利を決した者である。
さて、未萠を知る者は、六正の聖臣である。法華経を弘める者は、諸仏の使者である。しかるに日蓮は、かたじけなくも法華経・涅槃経の文を開いて、仏の本意を覚った。そればかりか日本国の将来を勘えたところ、それがほぼ符合している。これは先哲に及ばないと雖も、後人には希な者である。
法を知り、日本国を思う志は、もっとも賞されるべきところであるのに、邪法・邪教の輩が讒奏・讒言するので、久しい間、大忠を懐いていても、未だ小さな望みも達することができないでいるのである。そればかりか、一昨日の不快の見参においては、国を救うことはひとえに難治の次第であると、憂えた次第である。
伏して思えば、泰山に登らなければ、天の高いことが分からない。深い谷に入らなければ、地の厚いことが分からない。よって(我が志を)承知してもらうために、立正安国論一巻を進覧する次第である。この書に勘え載せたところの文は、九牛の一毛であり、未だ微志を尽くしていない。
そもそも貴殿は、当今の天下の棟梁である。その人がどうして国中の良材を損するのか。早く賢明な考えをめぐらして、異敵の蒙古を退治すべきである。世を安んじ、国を安んずるのが忠であり、孝である。
これは偏に我が一身のために申すのではなく、君のため、仏のため、神のため、一切衆生のために、申し上げるのである。恐恐謹言。
文永八年九月十二日 日 蓮 花 押
謹上 平左衛門殿