妙法比丘尼御返事
弘安元年(ʼ78)9月6日 57歳 妙法尼
御手紙には、太布帷一つは、兄の嫁にあたる婦人からのものとあります。また、尾張次郎兵衛殿が六月二十二日に亡くなられたとあります。
さて、付法蔵経という経は、仏が御自身の滅後に、仏法が広まるありさまを説かれたものです。そのなかに、正法時代の一千年間は、次々と法を弘める人を遣わすとあるのです。
第一番の迦葉尊者は二十年間、第二番の阿難尊者は二十年間、第三番の商那和修は二十年間、そして第二十三番は師子尊者であるとあります。
その第三番の商那和修という人の御事を仏は次のように説かれています。商那和修というのは衣の名なのです。この人は生まれながら衣を着ていました。不思議なことでした。六道のなかで地獄から人間界までの間で、どのような人であっても、生まれる時は素裸であるのに、天上界だけは衣を着て生まれるのです。たとえ、どのような賢人・聖人であっても、人間に生まれてくる時はみな素裸なのです。一生補処の菩薩である弥勒ですら裸で生まれられたのです。ましてその外の者などはなおさらなのです。
そうであるのに、この人は商那衣という尊い衣を著て生まれられましたが、この衣は血もつかず汚れることもなかったのです。たとえば池の蓮や鴛鴦の羽が水に濡れないようなものです。
この人が次第に成長するにしたがって、またこの衣も身体に応じて広く長くなったのです。衣は冬は厚くなり夏は薄く、春は青くなり秋は白くなったのです。長者でありましたから、何一つ不自由はなかったうえ、後には仏が予言されたとおりになったのです。すなわち阿難尊者の弟子となられて出家されたところ、この衣は五条・七条・九条等の袈裟となったのです。
このような不思議の原因を仏が説かれるには、過去無量劫という往昔に、この人は商人でしたが、五百人の商人とともに大海を渡って商いに行ったところ、海辺に重病の人がいました。それは辟支仏といって貴い僧でした。過去世の宿業であったのか、病気にかかり、見る影もなくやつれ果て、心も弱くなって、不浄の中に倒れていたのです。この商人は辟支仏を見て気の毒に思い、懇ろに看病して蘇生させてあげ、身についている不浄な物を濯ぎ取り、麤布で作った商那衣を着せてあげました。辟支仏は喜んで「汝は私を助けて身の恥を隠してくれた。この衣を今生後生の衣としよう」と感謝して、やがて涅槃に入られたのです。この功徳によって、過去無量劫の間、この人は人間、または天上界に生まれてくるごとにこの衣は身に随って離れることはなかったのです。かくして今生には釈迦如来の滅後三番目の付嘱を受けて商那和修という聖人となり、摩突羅国の優留荼山という山に大寺院を建立し、二十年間、無量の人々を導いて仏法を弘通されたのです。つまり、商那和修比丘の一切の福徳果報と不思議は、みなその衣から出ていると説かれているのです。
今日蓮は南閻浮提の中では日本国という国の者です。この国は仏が世に出現された国から東方はるか二十万余里も離れた海中の小島です。また仏が御入滅になられてすでに二千二百二十七年になります。インド・中国の人がこの国の人々を見るなら、この国の人が伊豆の大島、奥州の東の夷などを見るようなものでしょう。
そうであるのに、日蓮は日本国の安房国という国に生まれたのですが、民の家から出家して髪を剃り袈裟を着たのでした。この生涯に、なんとしても仏に成る種を植え、生死を離れる身になろうと思って、あらゆる人々の願っているように阿弥陀仏をたのんで、幼少から名号を称えたのですが、いささかのことがあって、このことに疑いをいだいて一つの願いを起こしたのです。
日本国に渡ってきたところの仏の経典並びに菩薩の釈論と人師の書いた経疏・論疏等を習学してみよう、また倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗など多くの宗があると聞くうえ、さらに禅宗・浄土宗という宗もある、これらの宗々の枝葉まで細かく習学しないでも、大体の肝要を知る身となろうと思って、随分あちこち回り、十二、十六の年から三十二歳に至るまで二十余年の間、鎌倉・京都・比叡山・園城寺・高野山・天王寺等の国々・寺々をあらあら遊学しましたところ、一つの不思議がありました。
我らのあさはかな心で推するに、仏法はただ一味であろう、いずれの宗であっても一心に習学し願うならば、生死を離れることができるはずだと思っていたのに、仏法に入ってもあしく習学するなら謗法という大きな穴に堕ちて、十悪・五逆罪といって、日々夜々に殺生・偸盗・邪婬・妄語等を犯す人よりも、五逆罪といって父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となって身に二百五十戒を堅く持ち心には八万法蔵を浮かべ、一生の間に一つの悪をも作らず、人からは仏のように思われ、我が身もまた、よもや悪道に堕ちることはあるまいと思っている智者・聖人が、十悪・五逆の罪人より以上に地獄に堕ちて阿鼻大城をすみかとして永く地獄を出られないということがあるのです。たとえば、出世しようと思って国主に仕えている人が、これといった罪科があるわけではないけれども、自分の心の至らないところから行き届かないことが重なっても、それでも我が身に罪科があることを知らず、また朋輩の者も不思議に思わずにいても、后等に近づくことにより誤ることはないけれども、自然に振る舞いが悪く、王などに怪しまれるならば、謀反の者よりその罪は重くなるようなものです。また、その身に罪科がかかってくれば、父母や兄弟、付き従う者などもまた軽からざる罪科に行われるようなものです。
謗法という罪は、自分も気づかず、また人も悪いとも思わず、ただ仏法を習っているのだから貴いとばかり思っているので、この人も、またこの人に従う弟子・檀那等も無間地獄に堕ちるのです。いわゆる勝意比丘や苦岸比丘などという僧は二百五十戒を堅く持ち、三千の威儀も一つも欠けない人であったが、無間大城に堕ちてついに出る期なく、また彼の勝意比丘や苦岸比丘に近づいて弟子となり檀那となった人々は、思いのほかに大地微塵の数よりも多く地獄に堕ちて師とともに大苦を受けたのです。この人達は後世のために多くの善根を修しようという以外は、なんの心もなかったのですが、このような不幸にあってしまったのです。
このようなことを見てとったうえで、概略経論を探ってみたところ、日本国の現在の姿は、まさにそれに似ています。時代も末世になったので、世間の政治向きも行き届かないから世の中も穏やかではないだろうが、この日本国は他国に似ず仏法が広まっているのだから国も治まるはずだと思っていたのに、かえって仏法が随分と広まっていながら世も大変に衰え、人も悪道に堕ちる人が多いと思えるのです。
それは、日本国はインドや中国より堂塔等は多いのですが、そのうち大部分は阿弥陀堂なのです。そのうえ家ごとに阿弥陀仏を木像に造り画像にかき、人ごとに六万遍、八万遍と念仏を称えています。また他方の仏を抛って西方浄土を願うことが愚者の眼にも貴いと見えるとともに、一切の智人も皆貴いことであるとほめています。
また人王第五十代の桓武天皇の治世に弘法大師という聖人がこの国に生まれて、中国から真言宗という珍しい法を習い伝え、平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇等という国王の師となって東寺、高野山という寺を建立し、また慈覚大師、智証大師という聖人も同じくこの宗を習い伝えて、比叡山、園城寺で弘通したので、日本国の寺という寺は、一同にこの法を伝え、今も真言の法を行い、鈴を振って公家・武家の祈りをしています。いわゆる二階堂、大御堂、鶴岡八幡宮等の別当達がそれです。これは古も祈られてきましたが現在の国主等も、家には柱、天には日月、河には橋、海には船のように頼みにしているのです。
禅宗というのは、また現在の戒律を持つ僧らを建長寺等に住まわせ崇めて父母よりも重んじ神よりも頼みにしています。それだから一切の諸人も頭を下げ、手を合わせて尊んでいます。
このような世に、いかなるわけか、天変といって彗星が長く東西を渡り、地夭といって大地を覆すこと、あたかも大海の船を大風の時に大波が覆すのに似ています。大風が吹いて草木を枯らし、飢饉は毎年のように起こり、伝染病は毎月のように流行し、大旱魃があって河や池や田畑はみな枯れてしまいます。
このように三災・七難が数十年続いて起こり、民は半分に減り、残った人々が、あるいは父母、あるいは兄弟、あるいは妻子と別れて嘆く声は秋の虫の鳴く声に異ならず、家々の散りうせること、あたかも冬に草木が雪に責められているのに似ています。これはどういうことなのかと経論を見ると、仏の仰せには「法華経と申す経を謗じ、仏を用いない国があればこのようなことが起こるであろう」と仏が書き記しおかれた言葉と少しも違わないのです。
そこで日蓮は、日本国にはだれも法華経と釈迦仏を謗る者はあるまい。たまさか謗る者が少々あっても、信ずる者のほうが多いであろうと疑っていました。しかるにこの日本国の人は人ごとに阿弥陀堂を造り念仏を称えています。その根本を尋ねてみれば、中国の道綽禅師、善導和尚、日本の法然上人という三人の言葉から出たのです。これは浄土宗の根本、今の諸人の師なのです。この三人が念仏を弘めた時に言われたことは「未有一人得者」「千中無一」「捨閉閣抛」ということです。その意は、阿弥陀仏を頼み奉る人は一切の経、一切の仏、一切の神を捨てて、ただ阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えよということであり、そのうえ、とくに法華経と釈迦仏を捨てよと勧めたので、たやすいことなので、人々は考えもなく、ばらばらとその言葉に従ったのです。一人が従い始めたので万人がみな従ったのです。万人が従ったので、上は国主、中は大臣、下は万民に至るまで一人残らず従ったのです。そこでこの国は意外にも釈迦仏・法華経の敵人となってしまったのです。
そのわけは、法華経譬喩品第三に「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は、諸の患難多し。唯我れ一人のみ、能く救護を為す」と説いて、この日本国の一切衆生のためには釈迦仏が主君であり師匠であり親なのです。天神七代、地神五代、人王九十代の神と王でさえも、なお釈迦仏の所従です。いわんやそれらの神々や王の眷属等においてはなおさらです。今日本国の大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財なのです。全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等といった他方の仏の物ではありません。また、日本国の天神・地神・九十余代の国主並びに万民、牛馬など生きとし生ける生のある者はすべて皆教主釈尊の子なのです。また、日本国の天神・地神・諸王・万民等が天地・水火、父母・主君・男女・妻子・黒白等をわきまえることができたのは、皆教主釈尊が師として教えてくださったからであって、全く薬師仏・阿弥陀仏等が教えてくれたのではありません。
したがってこの釈迦仏は我らがためには大地よりも厚く虚空よりも広く天よりも高い御恩のあられる仏です。このような仏ですから、王臣・万民ともに、すべての人が父母よりも重んじ神よりも崇めるべきなのです。このように崇めるならどのような大科があったとしても、天も守護してよもや捨てるようなこともなく、地も怒られるようなこともないでしょう。
ところが上一人から下万民に至るまでが阿弥陀堂を立て、阿弥陀仏を本尊とするゆえに天地の怒りがあるようにみえます。たとえばこの日本国の者が中国・高麗等の諸国の王に心を寄せても、日本の国の王に背けばその身は保ちがたいようなものです。今日本国の一切衆生も同じです。西方極楽世界の国主・阿弥陀仏には心を寄せても、自分の国の釈迦仏に背くゆえに、この国の守護神が怒っておられるのであると思われるのです。
そうであるのに、この国の人々は阿弥陀仏を金や銀、あるいは銅、あるいは木像や画像に心を込めて造り、丁重に仏事をなしながら、法華経と釈迦仏をあるいは墨画、あるいは木像といっても金箔をひかなかったり、あるいは堂といっても粗末な草堂を造っているような次第です。例えば、他人に懇ろにし妻子を大事にして、父母を疎略にしているようなものです。
また真言宗という宗は、上一人から下万民に至るまで、これを仰ぐこと日月のごとくであり、これを重んずる事珍宝のごとくです。
この宗の義にいうには「大日経に比較すれば法華経は二重・三重に劣った経である。また、釈迦仏は大日如来の眷属である」などと言っています。このことは弘法・慈覚・智証の仰せられたことであり、四百余年たった今も、比叡山・東寺・園城寺をはじめ、日本国の智人一同の義なのです。
また、禅宗という宗は「真実の正法は教外別伝である。それに対し法華経等の経々は教内である。たとえば月をさす指、渡りの後の船のようなものである。向こうの岸に到着すれば船はいらず、月を見てしまえば指が不要なようなものである」と言っています。
これらの宗の人々はそれを謗法とも思わず、習い伝えたままになんの考えもなくいっているのです。しかし、これらの言葉は釈迦仏を侮り、法華経を失う因縁となって、この国の人々は、皆一同に五逆罪に過ぎた大罪を犯しながら、しかも罪を犯しているとも知らないでいるのです。
この大きな罪科が次第に積もって人王第八十二代の隠岐の法皇という王並びに佐渡の院等は、代々仕えてきた家人にも及ばない相州・相模国の鎌倉の北条義時という人に代を取られたのみならず、それぞれの島に放たれ、嘆かれたのですが、ついにはその島々で崩御されたのです。そして魂は悪霊となって地獄に堕ちたのです。その召し使われた大臣以下の人々は、あるいは頭を刎ねられ、あるいは水や火に入って死に、その妻子等はあるいは思い死にをし、あるいは民の妻となってもう五十余年となります。そのほかの子孫は民のように卑しまれています。これはひとえに真言と念仏等を尊び、法華経・釈迦仏の大怨敵となったゆえに、天照太神、正八幡大菩薩等の天神・地祇・十方の三宝に捨てられ、現身には自分の所従等に攻められ、後生には地獄に堕ちたのです。
これより後、代が東国に移って年を経るにつれて、彼の国主を失うもととなった真言宗等の人々が鎌倉に下り、執権の足下に入っていろいろに取り入ったものですから、もとは高僧だからということで、たぶらかされて鎌倉の諸堂の別当とし、また、念仏者を善知識とたのんで、大仏寺、長楽寺、極楽寺等を建てて尊崇し、禅宗を寿福寺や建長寺等を建てて崇めました。隠岐の法皇の果報の尽きられた失よりも、百千万億倍過ぎた大科が鎌倉に出来したのです。
このような大科があるので、天照太神、正八幡大菩薩等の天神・地祇・釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏が一同にこれをお咎めになって、隣国に聖人がいて、万国の兵を集めている大王に仰せつけて、日本国の王臣・万民を罰しようと図られるのを、日蓮は経論によってまえもって推測したのです。
これをありのままに言えば国主も怒り、万民も用いない上、念仏者、禅宗、律僧、真言師等は、必ず怒りをなして仇敵のように思い、王臣等に讒奏して、我が身に大難起こり、弟子ないし檀那まで、日蓮にわずかでも心を寄せる人がいれば罪科にし、我が身も危険となり身命にも及ぶことになるでしょう。
よい案がなければ、容易に言い出すべきではないと思っていましたところ、外典の賢人のなかでも、世の亡ぶべきことを知りながら諌言しないのは諛臣といって、諂う者、不知恩の人であるとされています。したがって、竜逢・比干といった賢人は頚を切られ、胸を裂かれたけれども、国の大事なことははばかるところなく諌言したのです。
仏法のなかでは、仏が戒めて言われるには「法華経の敵を見ながら世をはばかり恐れて言わないのは、釈迦仏の敵である。どのような智人・善人であっても、必ず無間地獄に堕ちるであろう。たとえば父母を他人が殺そうとしているのを、子の身として父母に知らせず、あるいは王を滅ぼそうとする人がいるのを、臣下の身として知りながら難儀を恐れて諌言しないのと同じである」と禁められています。
したがって、仏の御使いであった提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられ、竺の道生は蘇山に流され、法道は顔に火印をあてられたのです。これらは皆仏法を重んじ王法を恐れなかったゆえです。
それゆえ賢王の時は仏法を強く立てれば、王は両方の言い分を聞き分けて勝れているほうの智者を師とするので国も安穏です。いわゆる陳・隋の大王は天台智者大師を南三北七の学者に召し合わせ、桓武・嵯峨天皇等は伝教大師最澄和尚を南都の十四人の高僧と対論させ、論じ勝ったので、寺院を建てて正法を弘通したのです。大族王、優陀延王、武宗、欽宗、欽明・用明天皇は、あるいは鬼神・外道を崇重し、あるいは道士に帰信し、あるいは神を崇めたゆえに、釈迦仏の大怨敵となって身を滅ぼし世も安穏ではありませんでした。その時聖人であった僧侶は大難にあったのです。
いま日本国はすでに大謗法の国となって他国に侵略されようとしている。
今日本国はすでに大謗法の国となって、他国に侵略されようとしている。これを知りながら言わなければ、たとい現在は安穏であるとしても後生は必ず無間地獄に堕ちるであろう、後生を恐れてこのことを言うならば、流罪・死罪は必定と思い定めて、去る文応のころ、故最明寺入道殿(北条時頼)に申し上げたのです。しかし用いることがなかったので、念仏者等はこのことを聞いて上下の諸人を仲間に引き入れて日蓮を打ち殺そうとしたが果たせなかったので、執権である武蔵守の北条長時殿は極楽寺殿(北条重時)の子であるゆえに、親の心を知って理不尽にも伊豆国へ流したのです。したがって、極楽寺殿と長時と彼の一門の皆は滅んでしまったことは、各々御覧のとおりです。
その後、いくほどもなく赦されて鎌倉に帰って後、また経文に仰せのとおり、さらに強く申し上げました。
また文永8年(1271)9月12日に佐渡国へ流されました。日蓮がその逮捕の際に言ったとおり、同士打ちが始まったのです。それを恐れたのでしょうか、また赦されて鎌倉に帰ってきました。しかし、諌言を用いないので、万民はいよいよ悪心が強盛になったのです。
たとい命をかけて諌言したとしても、国王が用いなければ国が亡ぶことは疑いありません。罪を教えて後に用いないのは我が失にはあらずと思い、去る文永11年(1274)5月12日、相模国鎌倉を出て6月17日から、この山深い身延山に居住して門一町も出ることなく、すでに5年を経ました。
日蓮はもと安房国の者ですが、地頭・東条左衛門尉景信という者が、極楽寺殿(北条重時)、藤次左衛門入道、一切の念仏者にそそのかされて、たびたびの問註があり、結局は合戦が起こったうえ、極楽寺殿の身内の方が理を曲げたので、東条郡を塞がれて入ることがありませんでした。父母の墓を見ることなく数年たっています。
また国主からの御勘気は二度です。二度目は外には遠流といわれていたけれども、内々には頚を切るというので、鎌倉の竜の口という所に九月十二日の丑の時に頚の座に引き据えられたのです。ところが、どうしたことか、月のような物が江ノ島のほうから飛び出して役人の頭にかかったので、役人は恐れて切らず、そうしているうちにさまざまな子細があって、その夜は打首は免れたのです。
また、佐渡国で切ろうとしましたが、日蓮が言ったように鎌倉で同士打ちが始まったので、役人が急ぎ佐渡国にきて頸を切らず、結局は赦されて、今はこの山に独り住んでいます。
佐渡国にあった時は、人里から遥かに隔たっている野と山との中間に塚原という三昧所があり、そこに一間四面の堂がありました。屋根の板は隙が多く、四方の壁は破れていて、雨が降れば外にいるようであり雪は内に積もります。仏も祀っていず、筵畳は一枚もありません。しかし、以前から持っていた教主釈尊を立てまいらせ、法華経を手に握り、蓑を着、笠をさしていましたが、人もこず、食も与えられずして四年いました。かの蘇武が胡国にとどめられて十九年間、蓑を着、雪を食としていたようなものです。
今またこの身延山に五年います。北は身延山といって天に橋を立てたように高く、南は鷹取山といって鶏足山のようです。西は七面山といって鉄門に似ています。東は天子ヶ岳といって富士の御山を王とすればその太子です。四つの山は屏風のようです。北に大河があり、早河と名づけ、流れの早いこと、あたかも箭を射るようです。南に河があり、波木井河と名づけ、大石を木の葉のように流します。東には富士河が北から南へ流れています。千の鉾を突き出すような勢いです。その中に滝があり、身延の滝といい、白布を天から引き下げたようです。このなかにわずかな土地があり、そこが日蓮の庵室です。深い山なので昼も太陽を見ることができません。夜も月を眺めることもありません。峰には巴峡の猿がかまびすしく、谷には波の下る音が鼓を打つようです。地には自然に大石が敷き詰まっており、山には瓦礫のほかには何もありません。国主に憎まれ、万民は訪れることもありません。冬は雪が道を塞ぎ、夏は草が生い茂り、鹿の遠音が物悲しく、蟬の鳴く声がかまびすしいのです。訪ねる人がいないので命もつぎがたく、肌を隠す衣もないところに、このような衣を送ってくださったことは、なんともいいようのないありがたさを覚えます。
日ごろ見聞きしている人でも哀れとも思わず、年来慣れた弟子も仕えた下人も皆逃げうせて訪ねることもないのに、いまだ聞きもせず、見もしない人からの御志とはなんとうれしいことでありましょうか。ひとえにこれは亡き父母が生まれ変わってこられたのでありましょうか。それとも十羅刹が御身に入り代わって日蓮に思いを寄せられるのでしょうか。
唐の代宗皇帝の治世に蓬子将軍という人の子で李如暹将軍という人が、天子の命を受けて北の胡地を攻めたところが、軍勢数十万騎を討ち取られ、胡国に生け捕られて四十年を過ごしました。その間に妻をめとり子供が生まれました。胡地の習慣で、生け捕りの者なので皮の衣を着せ、毛帯を締めさせていましたが、ただ正月一日ばかりは唐の衣冠を着ることを許したのです。李如暹は一年ごとに中国を恋いて切ない思いで涙を流していました。そうしている間に唐の軍勢がきて胡地を攻めた時、隙をみて胡地の妻子を振り捨てて逃げましたが、唐の兵士は胡地の人間と思って捕らえて頚を切ろうとしたのです。とかくして徳宗皇帝の所に送られたので、その場において申し開きをしましたが、なんと言っても聞き入れられず、ついに南の国の呉越の境へ流されてしまったのです。李如暹が嘆いていわく「進んでは故郷の涼原を見ることもできず、退いては胡地の妻子に逢うこともできず」と。この心は胡地の妻子をも捨て、また中国の故郷の家をも見ず、あらぬ国に流されたと嘆いたものです。我が身に大忠があっても、このような嘆きがあるのです。
日蓮もまたこのようです。日本国を助けようと思う心によって言うのであるのに、我が生まれた国にも入れず、また流された国も離れました。すでにこの深い山にこもっているのは彼の李如暹にも似ています。ただし、故郷にも流された所にも妻子がないので嘆くことはありませんが、ただ父母の墓と親しくした人々はどのようであろうかと、それのみ心にかかるのです。
ただうれしいことは、武士の習いで主君の御ために宇治勢多の渡しに先陣をかけた人々は、たとえ身は死んでも名を後代に挙げたことです。日蓮は法華経のゆえに、たびたび所を追われ、戦をして手傷を受け、弟子等を殺され、二度までも遠流になり、そのうえ頚まで切られようとしました。これひとえに法華経の御ためです。
法華経のなかで仏は「我が滅度の後、後の五百歳、二千二百余年を過ぎてこの経を閻浮提に流布しようとする時、天魔が人の身に入り代わって、この経を弘めさせまいと、たまたま信ずる者を、あるいは罵詈したり、あるいは打擲したり、所を追い払ったり、あるいは打ち殺したりするであろう。その時、第一に先駆けした者は三世十方の仏を供養するのと同じ功徳を得るであろう。また我が因位の難行・苦行の功徳を譲るであろう」と説かれています。
そこで過去の不軽菩薩は法華経を弘通された時、比丘・比丘尼等で智慧が賢く、二百五十戒を持つ大僧等が集まって優婆塞、優婆夷をかたらって不軽菩薩を罵詈し打擲したけれども、退転の心なく法華経を弘められたので、ついには仏となったのです。昔の不軽菩薩は今の釈迦仏です。それを嫉み、打擲した大僧等は、千劫の長い間、阿鼻地獄に堕ちました。彼の人々は観経や阿弥陀経等の数千の経、一切の仏名や阿弥陀念仏を称え、法華経を昼夜に読んだけれども、真実の法華経の行者を怨んだので、法華経も念仏も戒律等もこれを助けず、千劫の長い間、阿鼻地獄に堕ちたのです。彼の比丘等は、初めには不軽菩薩を怨んだけれども、後には心を翻して、身を不軽菩薩に仕えること、あたかも奴僕が主人に従うようにしたけれども、無間地獄を免れることはありませんでした。
今日蓮に怨をなす日本国の人々も同じです。日蓮は不軽菩薩には似るべくもありません。不軽菩薩は罵詈・打擲はありましたが、国主の流罪はありませんでした。杖木瓦石はありましたが、疵を受け頸をきられるまでにはいたりませんでした。日蓮は悪口・杖木は二十余年の間ひまなく、疵を被り流罪にあい、さらに頸に及びました。弟子らは、あるいは所領を召され、あるいは牢に入れられ、あるいは遠流され、あるいは追放され、あるいは田畑を奪われることは、夜討ち・強盗・海賊・山賊・謀叛等の者より厳しい取り扱いをされたのです。これはひとえに真言・念仏者・禅宗等の大僧等の讒訴によるのです。
したがってこの大僧等の謗法の失は大地よりも厚いので、この大地は大海に浮かべる船を大風が動転させるように、天は八万四千の星が瞋りをなし、昼夜に天変が続き、そのうえ日月に異変が多いのです。
仏滅後すでに二千二百二十七年になりますが、大族王が五天竺の寺を焼き、十六大国の僧侶の頸を切り、武宗皇帝が中国の寺院を破壊し仏像を砕き、日本国の守屋が釈迦仏の金銅の像を炭火で焼き、僧尼を打ち責めて還俗させた時も、これほどの彗星、大地震はいまだありませんでした。今の人々はこれよりも百千万倍もすぎた大悪です。大族王等の例は王一人の悪心によるものであって、大臣以下は心から起こしたことではありませんでした。また、権仏と権経との敵でした。僧も法華経の行者ではありません。それに対し日蓮の場合は一向に法華経の敵、王一人だけでなく一国の智人並びに万民等の心から起こった大悪でした。たとえば、女人が物を妬めば胸の内に大火が燃えるので身体が赤くなり、身の毛は逆に立ち、五体は震い、面に炎が上がって顔は朱をさしたようになります。眼は円くなって鼠を捕る猫の眼のように、手はわなないて柏の葉が風に吹かれる時のように似ています。傍らの人からこれを見れば大鬼神に異なることはありません。
日本国の国主、僧侶、比丘・比丘尼等もまた同じです。たのみとしている弥陀念仏を、日蓮が無間地獄の業であるといい、真言は亡国の法であるといい、持斎は天魔の所為であるというのを聞いて、念珠を繰りながら歯をくいしばり、鈴を振りながら怒りのため頸はおどり、表面では戒律を持ちながら悪心を抱いています。
極楽寺の生き仏の良観上人は訴状を捧げて幕府に訴え、建長寺の道隆上人は輿に乗って奉行人に泣きつき、諸の五百戒を持つ尼御前等は進物を捧げて伝奏をします。これはひとえに法華経を読んで読まず、聞いて聞かず、善導、法然の「千中無一」、弘法・慈覚・達磨等の「皆これ戯論」「教外別伝」などといった甘い古酒に酔って酒狂いしてしまった結果にほかならないのです。すなわち、法華経最第一の経文を見ながら、大日経は法華経に勝れている、禅宗は最上の法である、律宗こそ貴いのである、念仏こそ我らの機にかなっているなどというのは、まさに酒に酔った人ではないでしょうか。星を見て月より勝れているといい、石を見て金より勝れているといい、東を見て西といい、天を地という顚倒を本として、月と金は星と石とには勝れ、東は東、天は天とありのままにいう者を怨んでいるのです。数の多いほうにつけばいいというものでしょうか。ただ物狂いが多く集まっているのにすぎないのです。このような顚倒を本としている、いうにかいなき男女が皆地獄に堕ちることこそ哀れに思われます。
涅槃経に仏は「末法に入って法華経を謗じて地獄に堕ちる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少ない」と説かれています。これらをもって考えられるがよいでしょう。日本国の諸人が爪の上の土、日蓮一人は十方の微塵でしょうか。
そうであるのに、どのような宿習があられて日蓮に御衣を御供養されたのでしょうか。爪の上の土の数に入ろうという御志でありましょうか。
また涅槃経にいわく「大地の上に針を立てて大風の吹く時、大梵天から糸を下す時、糸の端が真っ直ぐに下って針の穴に入ることがあっても、末代に法華経の行者には値いがたい」と。法華経にいわく「大海の底に亀がいて、三千年に一度海の上に出る。栴檀の浮木の穴にあって休むことができるのであるが、この亀は一眼であるため、そのうえ僻目であるから西の物を東と見、東の物を西と見るのである」と。末代悪世に生まれて法華経並びに南無妙法蓮華経の穴に身を入れる男女にたとえられています。
それほどなのに、いかなる過去の因縁があって日蓮を訪ねようとする御心を起こされたのでしょうか。
法華経を拝見すれば、釈迦仏がその人の御身に入られてこのような心を起こされると説かれています。たとえば、これという考えのない者でも、酒を飲んで酔ってしまうと、思いもよらない心が出てきて、人に物を与えようとする心が起こってくるようなものです。これは一生慳貪の心が強くて餓鬼道に堕ちるのを、その人の酒の縁によって菩薩が入り代わられたからです。濁水に珠を入れれば水が澄み、月に向かえば自然と憧れの心が出てきます。画にかいた鬼に心はないけれども、恐ろしいものです。美女を画にかけば、我が夫を取らないと知りながらも嫉妬の心が起きます。蛇の形を織り込めば、錦の褥であってもかけようとは思いません。身の熱い時は温かい風をきらうものです。人の心もこのようなものです。
女人の身でありながら法華経のほうへ御心を寄せられるとは、竜女が御身に入られたのでしょうか。
さて尾張次郎兵衛尉殿は御目にかかったことのある人です。日蓮はこの法門を弘めるので他の人とは比較にならないほど多くの人に会ったけれども、真にいとおしいと思った人は千人に一人もありませんでした。尾張次郎兵衛殿は、よもや日蓮に心を寄せていなかったでしょうけれども、その人柄はいばるところがなく、だれにでも情の深い人であったから、心のなかはどうであったか知りませんが、会った時は穏やかな人でした。
また女房が法華経を信じているということから、真実とは思わないまでも、またひどく法華経に背くことはよもやないであろうとたのもしいところもありました。しかし、法華経を誹謗している念仏並びに念仏者を信じ、我が身も多分に念仏者であったから、後生はどうであろうかと思っています。たとえば、国主が宮仕えの懇ろな者には恩賞を与えることもあり、また与えないことはあっても、それでも少しでもあやまちがあれば罰することは疑いないように、法華経もまた同じようなものです。いかに信ずるようでも、知ると知らないとにかかわらず、法華経の御敵と交われば無間地獄は疑いありません。
これはさておき、彼の女房の嘆きはいかばかりかと思うと、実に不憫なことです。たとえば藤の花が咲き誇って松に絡まっているのに、思いがけず松が倒れたようなもので、また、蔦が垣にかかっているのに、垣が壊れたような気持であられることでしょう。
内に入っても主人がいないのは、破れた家に柱のないようなものです。客人が来ても、外に出て応対する人もいない。夜は暗く、寝室は物寂しい。墓を見れば、標(しるし)はあっても声は聞こえない。また、亡くなった夫のことを思いやれば、死出の山、三途の河をだれとともに越えていることだろうか、ただ一人で嘆いておられるのか、後に残した御前達は、どうして自分を一人だけ冥途の旅にやるのか、そうした契りではなかったがと嘆いておられるのではないかなどと、秋の夜の更けゆくにつけ、冬の嵐の訪れる声を聞くにつけても、いよいよ嘆きが深くなっていくでしょう。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
弘安元年戊寅九月六日 日 蓮 花 押
妙法尼御前 御かたへ